皆さんこんにちわ!お変わりありませんか?コーネリアスです。今回は、江戸時代についてお話してみたいと思います。日本の歴史を眺めた時、戦争らしい戦争が無かった時代というのは、奈良時代かと思います。ただ、奈良時代については、僅か80年足らずしかなかった為、ちょっと短過ぎ、あまり参考にならんかなぁとも感じます。すぐ平安が始まっちゃうもんね。因みにこの平安が長い。凡そ400年くらい続いてるからね。そんな感じで日本史年表を眺めて見て、ホントつくづく『良い時代』、『平和な時代』だったなあと私コーネリアスが感じるのが、やはり江戸時代です。厳密に言えばね、ありますよ戦争は。江戸時代初期の大阪冬の陣、大阪夏の陣、島原の乱、それに幕末のこれは幕府がやったと言うより、薩摩藩が勝手にイギリスとやらかしてしまった薩英戦争とかね。これ今で言えば、鹿児島県が単独でイギリス🇬🇧と戦争するって事ですよ。あり得ない!当時のイギリスって、大英帝国ですよ。まだアメリカが出て来る前。当時の世界ナンバーワンの大国ですよ…ホント薩摩凄すぎる。あっ、因みに言うと、旧幕府軍vs新政府軍の戊辰戦争は、コレは明治時代になります。明治元年から翌年までですね。江戸時代も細かい事言うと、そのスタート時と末期に多少こうした戦争は起きてますが、それはある意味、大きな時代の転換点。やむを得ない部分もあるかと思います。でも、そうした部分を除けば、約230年あまり、ほぼ大きな戦争も無いし、内乱も起きていないわけです。これは紛れもない歴史の事実です。

徳川幕府は、見事に『天下泰平』を実現した!

 

 これに対して近現代の歴史を見てみましょう。令和の今年は、明治元年から数えて155年目ですが、この間に我が国ではどれだけ戦争があったでしょう。先ず、先程の戊辰戦争がありましたよね。続いて、日清戦争、日露戦争。その後、これは日本としては大きくコミットはしてませんが、一応参戦している第一次世界大戦。そして先の大戦、大東亜戦争(太平洋戦争)ですね。ざっとみても、この僅か155年間でこれだけ大きな戦争をやってるわけです。こうして比較してみると、いかに江戸時代が平和な時代だったかは、もう一目瞭然ですね。そう思いませんか、皆さん。『じゃ、どうしてそんなに平和だったのか?』と思いを巡らした時に一番に頭に思い浮かぶのが、徳川幕府の『鎖国政策』です。そうですよね。だって明治から今日に至る迄の戦争、これ戊辰戦争以外は全部いわゆる『対外戦争』じゃないですか。外国との戦争ね。鎖国を解いて、開国し外国とお付き合いを始めた為に起こったというものですよ。因みに私コーネリアスは、鎖国について以下のように考えています…

★鎖国政策のメリット&デメリット

メリット

①安全保障面では、そもそも外国とコミットしなかった為、利害関係が生じず対外戦争は引き起こされなかった。植民地化という対外的脅威からも自国を守る事が出来た。(生命の安心安全)

②公衆衛生面で、外国発の大きな感染症(パンデミック)に巻き込まれる事が無かった。(生命の安心安全)

③経済的には、国内資源が海外に流出する事が防がれた為、内需経済の拡大が図れた。(財産の安心安全)

 

デメリット

①海外情報不足→世界の動向、流れについて、遅れを取る形となった。→特に科学技術や政治システム

②海外の変化に無頓着になってしまった為、幕府の関心事が国内のみとなった事で、幕府という組織そのものが硬直化した。又、世界的視野での情勢の変化に臨機応変に対応する事が苦手となってしまった。→この点は、幕末時の幕府の状況を見ていてもよく分かります。外国との交渉事が全て後手後手に回っており、常に主導権を相手が握る状況でした。

 

 ところで、そもそもの話ですが、何で徳川幕府はあの時期に鎖国という道を、政策を取ったんでしょうか?ここ、実に大事なところですね。私はここには、当時の世界情勢、植民地主義を推し進めるスペイン、ポルトガルの台頭があったとみています。これを説明する為には、江戸時代のちょっとだけ前、秀吉時代から考察しないといけない為、此処からはちょっとその前の『安土桃山時代』の話をしますね。秀吉の時代、多くのポルトガル、スペインの商人たちが来日し、いわゆる南蛮貿易たるものが隆盛を極めました。同時に多くのキリスト教の宣教師たちも来日しています。それぞれ、目的があり、それは『お金』そして『布教(信者獲得)』でした。ですが、同時に彼等にはもう一つのミッション(使命)があったんです。それが『日本情報』の取得でした…ところで、スペインに植民地化された最初のアジアの国、それがフィリピン🇵🇭です。ご存知のように15世紀から17世紀にかけてヨーロッパは大航海時代に入りました。中心となった国がポルトガル🇵🇹とスペイン🇪🇸です。航海技術の発展により彼等は遠く遥々このアジアまでやって来ました。勿論目的は、自分たちの植民地の拡大です。気の毒な話ですが、この彼等のターゲットとなり、最終的に植民地化されてしまった国がフィリピン🇵🇭でした。フィリピンを最終的に手中にしたスペインは、マニラに総督府を置き、此処をアジア戦略の出先基地としました。そして彼等が次のターゲットとして虎視眈々と狙っていた国の一つそれが日本だったわけです…因みに、今でも使われているこの『フィリピン』という言葉の由来、これはスペイン語から来ていて、当時のスペイン皇太子、フェリペ皇太子(後のスペイン国王、フェリペ2世)から取ったものらしいです。何かそう考えるとね…今ではもうフィリピンも完全独立してるんだから、そんな数百年も昔の植民地時代の名前を引き摺らずに国名変更したらどうかとも思うんですけどね。負の時代の名前何か捨ててね…その時はそもそもの彼等の言語のタガログ語でも使って作り直せば良いようにも思います。だってここにこそ彼等の真のアイデンティティがある筈だと、私コーネリアスは思うから…きっと彼等の先祖たちも喜ぶと思うんだけどなあ…

 

 で、当時の日本のリーダーたちも実はこの情報、スペインの動向には気付いていました。それが、豊臣秀吉です。秀吉という人はいわゆる『情報』というものをとても重視する人物でした。その為、こうした諸情報も当然持っていたようです。で、結果彼が取った政策、それがバテレン追放令、キリスト教禁教令でした。因みにコレ、彼は何回も出します。ただね、その内容をよく見てみると、若干不自然というか、徹底していないところも見受けられるんですよ。例えば、宣教師追放令と言いつつも、彼はイエズス会日本支部の存在は認めていました。なので、宣教師たちの追放令なんですけれど、イエズス会の人たちは対象外だったのです。また、日本人が新規で仏教からキリスト教へ改宗する事は禁じてますが、もう既に洗礼を受けてクリスチャンになった日本人については、実は何のお咎めもして無いんです。彼等は『迫害』されてません!つまりは、『しょーがねーよな…お前自分の判断でやっちまったんだもんなあ』的で、結構甘いというか、適当。日本での迫害が厳しくなるのは、この後です。なので、この段階では遠藤周作の小説『沈黙』のような非常に厳しい状況は全く見えて来ないんです。確かにあの『沈黙』の時代背景は江戸時代初期だと思うので、この頃とは若干の温度差はあったんでしょうね。つまり、基本的に秀吉は、キリスト教という宗教の中味、基本的教義を否定はしていないと思うのです。僕はこの辺りは彼の最側近で同時に懐刀的存在であった、黒田官兵衛の存在が大きかったのではないかと勝手に想像しています。というのも、官兵衛は何を隠そう、クリスチャンだったからです。官兵衛は決してそれをひけらかすような言動は取って無かったようですが、僕は当然この事実を秀吉は知っていたと思います。で、その彼からキリスト教の中味について密かに教えを乞うていたのではと思うからです。で、出た答えが、『うむ…キリスト教という宗教自体は決して悪いものでは無い。但し、それに関わっている連中が大問題だ!彼等は、聖職者の仮面を被り、我が国の色々な情報を盗んでいるんじゃないか?どう思う、官兵衛?』『そうですね。実は私もそう思います…これは宣教師のみで無く、南蛮商人たちも含めて言える事ですが、彼等は共同で、この日本の事を興味深そうに調べているような気が致します…太閤殿下、気を付けた方が良いように思われます…』こんな会話も当時かわされたんじゃないでしょうか?

 さて、ところでどうして秀吉は宗教から手を付けたんでしょうか?実はここに大きな手掛かりというか、スペインの植民地作戦の入り口があったからなんです。秀吉は当時既にそれに気付いていたんです。それは以下のような事件が発生したからです。

 

●サン=フェリペ号事件(スペイン帝国対日戦略情報漏洩事件)

 

1596年、文禄5年、スペイン船サン=フェリペ号が土佐国に漂着。この船は正式な許可の無い船舶であった為、当然秀吉政権から五奉行の一人、増田長盛という奉行が最高取調官として土佐へ派遣されました。この取り調べ時に、乗組員の一人、デ・オランディアという人物が以下のような爆弾発言をしたのでした…

『(彼は、長盛に世界地図を広げて見せながら…)いいかよく聞け。我がスペイン帝国という国は現在全世界にこれだけ広大な領土を保有する大帝国なんだ。分かるか?広いだろう。それに対し、日本ってのは、ああ、此処だなあ。何と小さな国だ!全く比較にならんなあ…これが戦となれば、勝敗はやる前からついてるなあ。』これに対し増田長盛はこう質問しました…『確かに広大な領土だな。ところで、何故スペイン帝国はこのような広い領土を獲得出来たのだ?』この質問にデ・オランディアはこう答えました…

『知りたいか?教えてやろう。我がスペイン帝国はカトリックの国だ。その為に我が国王陛下はキリスト教の宣教師たちを世界中に派遣してるんだ。当然宗教の布教の為だ。だがな、それだけじゃないぜ。アイツら宣教師は布教活動と同時に、行った先の国の事も調べているんだ。その国の地理、政治、宗教、軍事情勢、経済状況、その他諸々な。そしてそれらの情報を定期的に本国へ報告。本国ではその情報を基に、対外戦略を練るという寸法よ…こうやって一つ一つ国を植民地化して行ったわけよ。どうだい、凄いだろう。それだけじゃないぜ!戦略的には宗教(キリスト教)もふんだんに利用しているぜ。その国の民を兄弟姉妹化したらだ、その後に彼等を内応させるんだ。つまり俺たちに協力させる。まあ、政府から見たらいわゆる反乱軍、反乱分子って形かなあ。こうやって相手国の内部を分断させて疲弊させるわけよ。どうだい、頭良いだろう…ハハハ…』

 

 このデ・オランディアという男は天性の馬鹿なのか、はたまた余程天狗になっていたのか、私には判りかねますが、いずれにしても実にペラペラと喋らなくてもいいような事まで流暢に語ったようです。この情報は、増田長盛からすぐさま時の天下人秀吉の元に伝えられました。秀吉は、これに大激怒。すぐさまキリスト教禁教令を出し、キリスト教を禁教扱いとしました。彼が禁教令を発したのにはこうした背景がありました…どうです皆さん、これもう殆ど政治、外交、国防の話ですよ。単なるキリスト教弾圧何てレベルの話では無い。相手は宗教と軍事力をミックスさせて攻めようとしているわけ。つまりは、スペインにとっては、キリスト教も戦略手段の一つとしているわけ。この場合、その宗教の教義や中味何てものは、良かろうが悪かろうが一才関係無しって事です。僕に言わせれば、コレ完璧なまでの『政教一致』の話です。これが当時のカトリックのやり方だったんですよ…全くイエスキリストが福音書で語っている、『毒麦』のような『教会』です…若い読者の皆さん!学校なんかでは、この秀吉の『キリスト教弾圧話』の部分だけを切り取って、『秀吉というヤツは何て酷い政治家だ!悪いヤツだ!』みたいに教える先生時々いますけど、実は全然違いますからね。そうじゃなくて、秀吉はこの国の『安全保障』を優先させて、それを実行させただけの事。見方を変えれば、彼はこの国を守ろうとしただけなんですよ!気を付けて下さいね…ある意味で、彼こそ『真の愛国者』なんですよ!汚い手を使っているのは、酷い事やろうとしているのは一体どっちだよ、この野郎!って話ですよ。

 

 さて、こうした秀吉時代の外交政策については、次世代の徳川幕府もある意味大変参考にしていました。外交問題については例え政権が替わってもいわゆる安全保障という面では、考えは共有されてますからね。なので、やはり徳川幕府になっても、スペインをはじめとする対ヨーロッパの国々への警戒感は緩めていなかったと思います。だって現実にフィリピンのように植民地化された国があったわけですから。当然この情報も当時日本に入っていたと思います。現実の脅威が目の前にあったわけですね。そんな矢先に起きたのが、歴史の授業でも習うかの有名な『島原の乱』です。そして、これが幕府が鎖国を決定する決定打となりました。但し、徳川幕府は、完全に外交を閉じたわけでは無く、これも学校で習う事ですが、ヨーロッパ諸国の中で唯一オランダ🇳🇱とのみ外交関係は保っていました。これはやはり、完全に門戸を閉じるとなると、ヨーロッパの情報が全くもたらされなくなり、ヨーロッパの動向等について盲目となるのも、これはちと問題ありと判断したからでしょう。鎖国がなされたのは、三代将軍徳川家光の時代でした。1639年、寛永16年の事です。誠に勝手な事ですが、私はこの江戸時代期の200年以上の平和な時代を敢えて『パックス・トクガワーナ』と呼びたいです。そう、かのローマ帝国がかつて実現したローマ時代の平和の事を『パックス・ロマーナ』と呼び、また第二次世界大戦以降、今日までの世界の平和状態の事を『パックス・アメリカーナ』と呼ぶようにです。よく、学校なんかで、歴史認識が浅い、不勉強なわけの分かっていない変な先生が、『徳川幕府が鎖国したから、明治以降の日本は近代化が大変だった。よって、鎖国は悪であった。故に徳川幕府も間違った政策を取ってしまっていたんだ。』みたいな的外れな見解を出す人が居ました。確かに全部間違いとは言いません。ですが、世界史的に見ても、凡そ2世紀以上平和が保たれていた国があの頃あったでしょうか?答えは、『ありません』です。ヨーロッパを中心に他国はどこも戦争、戦争の歴史です。血を流し、尊い人命が失われていました。それを考えたら、この私の『パックス・トクガワーナ』もまんざらでも無いのではと、多少の自負はあります…