こんにちわ。皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです。今回は、現代の我々日本人にも影響を与えている、明治維新について、よく考えてみたいと思います。
明治維新とは何だったのか?近代化が日本に齎したものとは…
★そもそも我々日本人はどうして『洋服』を着ているのか?
私コーネリアスという男は、時々つまらない事を考えるんですが、そもそも、僕たち日本人はどうして洋服なるものを着てるんでしょうか?別に伝統的装束、そう着物でも良いんじゃないでしょうか?だってこの日本の長い歴史を見た時、我々の先祖たちはその長い時間、歴史を着物で暮らしてきていたんですからね。別に風邪ひく事も無く大きな病気する事も無くね。この辺も由来、遠因はやはり明治維新後の文明開花とやらの影響のようにも思えます。何でも『西洋のものは良いんだ!』と叫ぶお偉いさんたちが民衆を、そして世論をそちらの方向へ持って行ってしまったんでしょうね。ま、確かにね、そう悪くもないですよ洋服も。確かに活動的なウェアだよ、洋服とやらは。僕もその辺のメリットは認めますよ。でも、私も含めてですが、今日日本でこれだけ皆が洋服だらけで、伝統的な着物を着る人が殆ど居なくなっている現状を見ると、何と無くですが我々日本人が『古き良き伝統』を棄てようと、いや棄てつつあるようにも思えてなりません…何かこういうところから引っかかるんだよなあ…僕は、洋服が日本に本格的に定着する様になったのは、昭和元年、1926年頃だと思います。明治元年が、1868年ですから、一般庶民まで本格的に普及するまで実に58年、半世紀以上かかったと言う事ですね。明治維新というのは、見方を変えて文化の大変革と見れば、それ位大きな出来事だった証拠だと思います。そりゃそうだよね。自分たちのいわゆるライフスタイルが180度大転換するわけだからね。でも日本は歴史の長い国。服はいわば文化の象徴。永年続けて来た着物中心文化を変えるのはやはり半世紀以上はかかったという事か…
俗に言う上流階級は、基本洋装だったようです。
一般庶民は未だ伝統的着物が主流の時代だった。でも僕は着物好きだなあ…
★教科書が教える『明治維新』…
学校で明治維新の事を教わる時に、どうでしたか?大抵の先生たちは、『明治維新のお陰で日本も近代化の道を歩む事になったんだ』とか、『江戸時代は鎖国してたんで、日本は近代化が遅れたんだ』とか声高に叫ぶ先生たち居ませんでしたか?でもホントに江戸時代は『悪』だったんでしょうか?確かにね、科学技術を中心としたテクノロジーだとかそういう部分ではそうだったでしょうね。確かに遅れていたかもしれません、日本はね。でも、それ以外は?江戸時代全般を通して徳川幕府の政治はそんなに酷かったんでしょうか?もし酷かったならば、そりゃ頻繁にいわゆる内乱や国内戦争が起きていたんじゃないでしょうか?でも実際は?殆ど何も無かったですよね。どうして260年間も天下泰平が保たれたんでしょうか?答えは、幕府の政治が良かったとは言いませんが、概ね『そんなに悪くは無かった』からじゃないでしょうか?TVドラマなんかでは、江戸時代は将軍や上級武士が偉そうにしていたみたいに描かれてますが、過去の歴史書なんかでよく調べると決してそんな事はありません。此処で書くと長くなるので簡単に言うと、武士はとても質素で、倹約家で物静か。刀を振り回すような者は実際には誰も居ませんでした。武家諸法度という法律もキチンと機能しており、武士も一般の庶民も皆おしなべて平和で穏やかに暮らしていた、それが江戸時代だったように思います。明治維新…私的にはそれは『時代の必然』だったように思えます。当時の国際情勢によるね。ホントはやりたくなかったんだよ、開国なんて…そのまま鎖国して、他国と関わらず我々日本人だけで静かに、平和に暮らして居たかったんだよ、日本はね。そっちの方が絶対に良かった筈なんだよ。でもね、そうは問屋が卸してくれないわけだよ…『世界』という問屋がね。で、結果的には幕府を解体させて、明治新政府を作ってそっちが日本の舵取りをとなったんだけど、悲しいかなこの時から日本は数多くのそれまでの伝統を捨て始めました。ま、ある意味で時代の趨勢というか、時代の流れなので仕方がない部分も確かにありますが、この国の伝統の捨て去りは現在もまだ続いているようにも思えます。そう考えると、現代日本人である我々は、先人たちが作り上げてきた伝統を捨てて、一体何処へ向かおうとしているんでしょうか?私は決して明治維新=悪という気はありません。それどころか、子供の頃は、明治維新=善だと信じて、大人になりました。でも、大人になり、過去の歴史について教科書以外のところから色々な情報、新事実が分かって来ると、明治維新≠善と思えるようになりました。今なら当時の先生たちを前にしても堂々と反論出来ると思います。その理由をね。
★明治維新=グローバリズム革命?
最近私は明治維新をこのように考えています。そう、明治維新こそが日本で最初に起きたいわゆる『グローバリズム革命』とでも言いましょうかね…そんなもののように感じます。皆さんも既にご承知かと思いますが、グローバリストと言われる人たちは、基本リベラルです。同時にこの人たちの関心事はお金です。また、この人たちは国境を嫌います。それだから日本は、鎖国→開国『させられた』んですよ。そしてこの幕末動乱期に日本からは大量の金がアメリカに流出したとされています。ペリー提督来日の真の理由はここにあったのかもしれません。だって当時の日本の金の埋蔵量は、国際的にみても世界のトップクラス、もしかしたら世界一だったかもしれないとも言われていますから。火山地帯には、金が出易いんだよね。コレ地質学の見地からも明らかだから、今日。日本国内には彼方此方にいわゆる金山があり、それを幕府が一括管理していたわけです。その昔、マルコポーロが日本の事を『黄金の国、ジパング』ってヨーロッパに紹介してたけど、あれホントだったんだよ。当時のハゲタカグローバリストたちはコレを狙って来たというわけです。因みにこの時期長崎で貿易商を営んでいた有名なスコットランド人が居ます。トマス・グラバーです。坂本龍馬や勝海舟とも縁があった人とも言われていますが、この人がまた胡散臭い…最近の研究で明らかになったのですが、この人が経営していた『グラバー商会』という会社、コレ、ジャーディンマセソン商会という、イギリスの貿易会社の『日本代理店』というのが実情であったそうなのです。では、ジャーディンマセソン商会とは一体どんな会社なのかと言うと…かのアヘン戦争を引き起こした張本人だったんです。当時この会社は清国へアヘンを『密輸』していました。これに端を発し勃発したのが、有名なアヘン戦争です。つまりこの会社、当時の完全なブラック企業なわけです。グラバー商会はここの日本代理店なんですからね。グラバーは一体日本で何をしようと企んでたのかと勘ぐりたくもなります…因みにジャーディンマセソンという企業は、今もイギリス系企業として存在しています。また、ジャーディンマセソン商会の共同代表者、ウイリアム・ジャーディンもジェームズ・マセソンもグラバーと同じスコットランド人です…同じ穴のムジナって事ね。
これに関連して言わせて頂くと、私は明治維新の真の黒幕というか、経済的側面からコレを推進し、人を動かし、大きな流れを作った張本人は、当時幕臣だった勝海舟だと踏んでいます。そしてその勝海舟に協力したのが、グラバーだったと思います。そしてその橋渡し役をやっていたのが坂本龍馬というわけです。コレは私なりに色々な本を読んだり、最新の情報を照らしての結果です。この辺の事は、今回はこれくらいにしたいと思います。勝とグラバーと龍馬については、現在別のblogで書こうと思っていますので、読者の皆さん、乞うご期待!でもね…こりゃ確かに教科書には書けないね。この辺は確かに文科省も少し可哀想かな…
★明治時代〜昭和初期→実は良く似ている平安時代
ここで、多少明治維新の話から外れますが、ちょっと平安時代の話をしてみたいと思います。というのも、これには理由があって、この明治時代〜昭和初期と平安時代のある時期が私には大変似通った時代に思えてならないからです。
話は天智2年8月、西暦663年10月の白村江の戦に遡ります。当時の日本軍と唐、新羅連合軍が戦った戦争です。日本史上初の対外戦争として有名ですね。この戦争は結果的には日本軍のボロ負けで終わり、日本軍は主戦場であった朝鮮半島から撤退するのですが、撤退した後に日本国内で敗戦について色々な議論、検証、反省等々がなされます。そんな中で、『我が国日本が負けたのは、唐と比べ政治制度、軍事制度が劣っていたからだ。よって、唐と同じような制度を早急に作るべきだ。それが為には、いっその事本家本元の唐からその諸制度を学び、導入しようではないか!』と言った意見が出て来ました。最終的にこの意見が採用され、ここから遣唐使が実施されるようになります。そうやって導入された政治制度、これが律令制です。それまでも日本には政治制度なるものは存在していました。聖徳太子の17条憲法や冠位十二階などがそれで、どちらかと言うと『天皇を中心として、皆の話し合いで緩やかに』国を纏めて来ました。ですが、律令制導入によって事情は一変します。それまでの緩い統治は廃止。今後は天皇を絶対君主とし、天皇(皇帝)を中心にその下に実質の政治を司る貴族(官僚)そして常備軍(初期の武士団)、その下に一般の民(国民)という形です。いわゆるピラミッド形式ね。典型的な独裁国家の形式、国体でした。当時の唐の国家体制をそのままコピーしたと言ってよいものでした。がしかし、この制度はそんなに長く持ちませんでした。破綻するんです。理由は実にカンタン。日本の風土伝統に合わなかった為です。形式上は律令体制は鎌倉幕府成立まで続くのですが、実質的には、民は誰もこの制度に従わず、事実上の『中抜き状態』。お陰で国は荒れ、国家財政も破綻の一歩手前。挙げ句の果ては、嵯峨天皇の御世には、常備軍の解散命令が朝廷から下されます。理由は、兵士に支払う給料の財源が確保出来なくなったからです。信じられない事ですが、平安時代のある時期、この国には国を守る軍隊すら存在していなかったのです。幸い、周りが海であった為、他国からの侵略がなかったから良かったものの普通の国ならとっくに侵略されています。全く奇跡です。私はこの様子を見ていて、この平安時代律令制度の導入が、明治維新に被って見えて仕方ありません。平安時代に当時の日本が先進国として参考にしたのが、唐。明治維新時に先進国として参考にしたのが、欧米でした。この時唐の制度がどうして短期間でダメになったのかと考えると、これにはいわゆる『地政学』的なものが絡んでいると思います。唐=中国というのはいわゆる『ランドパワー』の典型的、代表的国家。対して我が日本は周りを海に囲まれた典型的な『シーパワー』国家です。ランドパワー国家では、基本独裁的な君主の元で『力』による政治を行う傾向があります。コレは長い中国史を見ても明らかです。反面、シーパワー国家は、基本『合議制』の政治。何でも先ず話し合いで意思決定しようとします。コレは、同じシーパワー国家イギリスの例からも明白です。あの国も古代から何でも合議制で決めて来ています。その冴えたるものが13世紀、当時の支配者層(フランス出身ノルマン公)に彼等(イギリスネイティブ)が投げ掛けた『マグナカルタ』です。なので、律令制導入の失敗というのは地政学的には必然だったわけです。一言で言うと『合わない』んです。この国の国民の体質に…じゃ、明治維新は?コレは、辛うじて続きました。というのも、基本的に参考にしたのがイギリス、ドイツと言った西ヨーロッパだったからです。西ヨーロッパは諸説ありますが、地政学的に見た時シーパワー国家色が強いからです。会うんですよ、日本人の体質に。だから割と長く続いているんだと思っています…
★仕方がなかった『明治維新』…
とまあ、明治維新について敢えて色々批判的に語って来ましたが、私はあれはあれでしょうがなかった、仕方ない事だった、いわゆる時代の必然だったと考えています。で、もしあの時点で日本が頑なに近代化を拒み、鎖国を続けていたら、間違いなく日本は欧米の何処かの国の植民地になっていたと思います。植民地になるのを選ぶか、それまでの貴重な伝統を捨てるか、ある意味で究極の『二者択一』を迫られていた時代だったという事ですね。なので、『仕方がなかった…』と表現するより無いと思うのです。ただ、同時に我々の先祖たちが営々と伝えて来てくれたもの、日本の伝統の一部を結果切り捨てなければならなかったのも事実で、コレは全くもって悲しい事、勿体無い事で、先祖たちに詫びねばならない事かもしれませんね。
★カール・レービットの日本評
東北大学でも教鞭を取った哲学者、カール・レービット教授
ところで、読者の皆さんはカール・レービットという人をご存知でしょうか?この人が明治以降の日本と日本人について大変上手に表現している言葉があります。最後に彼の言葉をご紹介して話を締めたいと思います。カール・レービットという人は、ドイツ系ユダヤ人で、哲学者、学者です。昭和11年(1936年)に第二次世界大戦の足音が聞こえ始めたドイツを離れ、来日した人です。日本では当時の東北帝国大学で教鞭をとっていたようです。但し、後に日本も雲行きが怪しくなり始めた為、5年後の昭和16年にアメリカへ渡ったそうです。で、この人が日本滞在中に書いた『ヨーロッパのニヒリズム』という論文が当時の雑誌、『思想』に掲載されているのですが、彼はその中でこう表現しています…
『思想』昭和15年11月号 『ヨーロッパのニヒリズム』 カール・レービット
…日本人というのは、丁度二階建ての家に住んでいるようなもので、階下(1階)では実に『日本的に』考えたり、感じたりしている。これに対し2階はというと、2階にはプラトンからハイデガーに至るまでのヨーロッパの学問が糸を通したように並べてある。そしてヨーロッパの教師は、この状態で2階と1階を往き来する梯子は一体何処にあるのだろうかと、疑問に思う。…
彼がここで言いたかった事は、(当時の日本というのは)一般的に言われる知識人、政治家、富裕層という人たちは、『2階の住人』のようだが、普通の一般大衆は、いわゆる昔ながらの『1階の住人』と語っています。また、よく見るとその『2階の住人』の中にも勉強や仕事では仕方なしに2階に居るのだけれど、心の中ではそれを望んでおらず、プライベートでは『居心地の良い日本的な場所』、1階で過ごしたりする人たちも存在する
というわけです。学校、会社、役所と言った公的な所では『2階流』なのに対し、いわゆるプライベート空間は、『1階流』というわけです。誠に奇妙に使い分けていると映ったようです。私はこの状況は、令和の現在も続いていると思っています。これは、文芸批評家の浜崎洋介氏が語っている事ですが、この時代、昭和の初期にこうした 日本の状況に耐えかねて自ら命を絶った人がいました。当時天才作家と呼ばれ、人気、実力共にNo.1。誰もが認める天才小説家であった芥川龍之介です。芥川龍之介はこの時、現在で言う統合失調症(精神分裂症)だったと言われていますが、この病、もしかすると我々日本人全員が今もかかっているかもしれませんね…