こんにちわ。皆さんご機嫌いかがですか?コーネリアスです。今回は、ちょっとキリスト教のお話、その中でも、キリスト教でよく語られる『原罪』という事にフォーカスして語ってみたいと思います。読者の皆さんもこの言葉、一度は聞いた事あるんじゃないかと思います。でも、それを一体どんなものなんだろうとじっくり考えたり、調べたりした方は少ないんじゃないかと思います。まあね、実生活とは大方無縁の言葉だしね…別に知らなくても、確かに幸せに生きても行けるからね。興味が出ないもの私コーネリアスも十分頷けます。何を隠そう、昔の私コーネリアスがそうでしたから。こう書くと、『何だよ。そんな適当な事なら、わざわざblogのテーマに挙げて紹介なんかするなよな…』なんて言われそうですが、そこはまあ、多少大目に見て頂き度く存じます。宜しかったら、ちょっとだけお付き合いくださいませ…

 

ミケランジェロ作『原罪と楽園の追放』

 

 先ず最初に、断っておかないといけないですね。原罪と言うと、罪という言葉があるので、往々にして世間的に言われる『犯罪』とごっちゃにされがちですが、ここで言う罪とは、其れとは全く関係ありません。

★世間的に言われる『罪』=crime英=人間が定めたルール、掟を外れる事→法律違反

●キリスト教で言われる『罪』=sín英=神目線から見た時のルールの逸脱→宗教上の違反行為

なので、原罪を英語では、original sín と言います…

で、キリスト教では、この原罪は全ての人間に生まれながらにして有るものと説いています。こう書くと、特にノンクリスチャンの方々からは、『何を失礼な!じゃ何?私たちにも原罪とやらは生来あると言うの?そんなん持ち合わせてなんかないよ!適当な事言うなよ!』とね。分かります。では、今からその点を超簡単に且つ分かり易くご説明しますね。

 これのそもそものスタート、原因は聖書の一番最初のところ、創世記の第3章にあります。とても、とても有名な話、例のアダムとエバが神から禁じられていたリンゴの実(聖書では、リンゴと表記は無く、果実とあります)を食べた事が全ての始まりです。それ迄神によって造られたアダムとエバは、神に従って、神と共に生きてきました。そう、神から見ればいわゆる『良き子供たち』だったわけです。ところがどうした事か、絶対に食べてはいけないと神から命令されていたものを、食べてしまったわけです。つまり、この時点で彼等は、神の命令に違反したわけですね。これが原因で、彼等は、神からエデンの楽園を追放されてしまいます。仕方がないですね。神の言付けを破った報いです。いわゆる『罪』と『罰』という事ですね。因みにこの時アダムとエバに果実の実を食べるように嗾けた存在が『蛇』なのですが、この『蛇』自身または、『蛇』の背後にいて『蛇』にそのような事をやらせた存在の事を、『悪魔』と呼びます。で、多くの教会では、この悪魔=堕天使=偉大なる元天使長ルシファー(ルシエル)と言われています。悪魔は元は天使だったわけ。だから悪魔にも翼があるんですよ…いわば、昔の名残りね。で、これはカトリックで主に唱えられていたのですが、こうした原罪は『遺伝する』と考えられるわけです。なので、現代の我々にも有るというわけですね。超簡単に言うとね。実際には、神学的な諸説や意見が数限り無くあるので、この話色々大変なのですが、ここでは多くのノンクリスチャンの読者の方々を対象とし、『超簡単且つ分かり易く』をモットーとしたいので、上記の如くご理解頂けたら概ね良いかと思います。クリスチャンの方で、聖書に詳しい方からはご批判もあろうかとは覚悟しますが…どうかご容赦くださいね。

 さて、好むと好まざるに関わらず、このようにして我々人間の中に入り込んでしまった『悪』=『原罪』なんですが、読者の皆さん、特にノンクリスチャンの皆さん、ピンと来ますかね?おそらく来ないんじゃないかと思うのです。というのも、この私コーネリアスが未だ洗礼を受ける前、いわゆる求道者時代もピンと来なかったからね。正直『何のこっちゃ?』って感じだったですよ、本音のところ。で、何度も何度も創世記第3章を読み返すんですけどやはり分からない。湯川教授じゃないですが、『サッパリ分からない…』って状況でした。そんな時ある人の動画で、ある本の紹介を受けたんです。色々ためになるから、読んでみればってね。その動画の主こそが、同志社大学神学部教授、現代日本の知の巨人こと、佐藤優さんでした。そして紹介してくれた本というのが、チェコ🇨🇿の神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカという人の著した『人間への途上にある福音』という本でした。因みにこの本の監修、佐藤さんがやっていたので、私は見事に佐藤さんの術中にハマってしまったわけですが…早速本屋へ行きちょっとだけ高かったんですが、買い込んで読んでみたら、解決したんですよサッパリ分からなかった事が。

佐藤優氏 現在は母校の同志社大学神学部で教鞭を取っているようです…

 

この本、私にとっても特別な1冊。今でも時々読み返しています。

 

著者のヨセフ・ルクル・フロマートカ博士

 

 この本の中で、氏は原罪と言うものをズバリ次のように定義しています。

★原罪とは、人間の『欲望』の事である。

こう言って貰って私コーネリアスは、腑に落ちました。『成る程。人間の欲ね。確かにこれなら人間誰しもが生まれながらに持ち合わせているし、説明が付く。でも、聖書箇所との整合性はどうなのかな?』とそう思いつつ再度創世記を読み直した記憶があります。折角ですから、その箇所を皆さんと共有しましょうか…箇所は、エバが蛇に唆されるシーンです。どう言う表現で書いてあるかがポイントです。

●創世記第3章第1節〜第6節

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女(エバ)に言った。

『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』

女は答えた。

『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』

蛇は女に言った。

『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。』

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男(アダム)に渡したので、彼も食べた。 新共同訳聖書より

 どうでしょうか?ここで先ず興味を注がれるのが蛇の発言です。エバの返答に対し蛇は一言も神の言付けに関し、否定してはいませんし、実を食べろとも言ってはいません。ただ、もし食べたら、こうなるよねえ…的に語っています。この辺とても狡猾です。この蛇の表現こそが、いわゆる欲望を刺激する発言なわけです。そしてそれにまんまと嵌り、エバの目には目の前の木の実が、とても美味しく、また自分が賢くなれるものに写ったわけです。言い換えれば、食欲と、賢くなりたい→知識や知恵を得たい→賢さが欲しいという欲求を刺激しているわけです。『賢くなるように唆していた』ですからね。唆す→①その気になるように仕向ける。②おだてて悪い方へ誘い入れる。ですからね、本来の語義は。ここで私コーネリアスは完全に腑に落ちました。やはり、フロマートカ氏が言うように、原罪の正体は、人間の欲望、特に強欲と呼ばれるものだったわけです。で、これは人間であれば誰しもが生来持ち合わせているものなのです。となると、

『原罪』=『悪魔、若しくは悪』=『人間の欲望』

ならば、話は変わりますけど、仏教の世界で、釈迦が『欲を捨てよ』と説いた事も、成る程ねと思えますね。仏教では確か欲の事は煩悩だったかな。だからそれを捨て去ると言う事は、『悪』を捨て去るという事だからね。悪いものを捨て去るんだから、心身共に人は清められるという事ですよね、確かに。仏教的側面から見ても、納得の行く話のように思います。

 ただ、ここで僕コーネリアスは1つだけ疑問に思う事があります。例えば人間の『向上心』というのは、どうなるのでしょうか?これもある種人間の欲望、欲から来るものですよね。普通に考えるなら、今の自分をより高めたい。より良くしたい。スポーツ選手なら、頑張って練習して良い成績を挙げてファンの期待に応え、また自分も年俸がアップする。これ、ウインウインの関係でしょ。仕事の世界でも同様。今より仕事のレベルを上げる努力をする。そしてそれが成功するなら、会社、組織、社会にとっても万々歳。その見返りに本人も給料がアップとなれば、これまたウインウインの関係というものですよね。確かに欲望に派生するけれど、少なくとも悪い事ではないような気がする。この辺はどうなのかという事ね。因みに私が知る限り、上座部仏教では、こうした欲も捨てよと、確か教えていた筈です。愛すら捨てなきゃならないからね、厳密には。と言うのも、仏教特に上座部仏教の世界では愛は良いものと思われていないから。愛着という言葉にあるように何かに執着するという意味があるからね。これはよろしくないというわけです。じゃ、キリスト教で言う愛に当たる言葉は何かと言うと、それが『慈悲』になります。慈悲とか、慈しみと言った言葉ね。よく言うでしょ、『御仏の慈悲』って、あれですよ。すいません、ちょっと横道に逸れますが、私コーネリアスはクリスチャンですが、個人的には『キリスト教は愛の宗教だ』という表現はあまり好きではありません。好きでないというか、あまりしっくり来ないというのが正しいかな。この点を日本人のある学者が大変上手い表現で説明していました。で、今私はこの学者さんの意見が正しいと、勝手に思っています。それが、『大切』、『大事』という表現です。キリスト教の愛という言葉の語源はagapeアガペというギリシャ語から来ているのですが、コレ正確には『神の無限の愛』という意味です。当初ギリシャ語で書かれていた新約聖書を日本語に訳す時に、翻訳者が四苦八苦しつつ行き着いた語が愛という言葉だったのだそうです。ただね、普通日本でどうでしょうか、日常生活でそんなに頻繁にこの愛という言葉使うでしょうか?私は使わないと思うのです。この辺は言葉の歴史と文化の違いによると思っています。難しいんですよ、だから。なので、個人的には、『キリスト教は愛の宗教』などと言わずに、『キリスト教は、大事、大切の宗教』って言った方が何となくすんなり来るように思うんです。何を大切にし、何を大事にするのか?其れが神であり、自分以外の他者です。神を何よりも大切にして、自分以外の他者もこれまた自分のように大切に、大事にするという事。こう表現した方が、少しばかりカッコ悪いかもしれませんが、気持ち、思いは伝わり易いように思えるのです。この辺は私がいわゆる仏教国日本に生まれ育った為かもしれません。上述したように仏教世界では、愛という言葉はあまり良い意味とされてないからね。ここが欧米世界との違いかもしれない。でも、言いたい事は分かる。なら、もっとストレートにやったらというわけです。それか、いっそ原語のアガペをそのまま正直に使っても良いようにも思いますね。すいません。完全に横道に逸れました。話を元に戻しますね…

 先のフロマートカも本で書いてましたが、やはり良くないのは同じ欲でも、いわゆる強欲と呼ばれるもの。氏は、これがよろしくないよと言っていたと思います。ま、普通に考えればそうですよね。ここでもう一度創世記に話を戻してみましょう。そもそもアダムとエバを造った時に神は彼等にいわゆる『自由意志』をお与えになりました。で、神学的にはこれは大いなる神の実験で、自分と同じように被造物である人間に自由意志など与えて本当に大丈夫なのかは、正直神様も半信半疑だったようです。お与えになったその時点ではね。結果はと言うと、上述したようにダメだったわけです。人間は神を裏切りました。でもね、私はこれも神の想定の範囲内の事ではなかったかと思っています。神様的には、『あちゃー、やっぱりダメだったか…仕方ないなぁ…それにしてもあのルシファーの奴、実に見事にやりやがったなあ…やられたよ、全く。流石元ワシに仕えていた天使の中でダントツ優秀なの天使と言われていただけの事はある…でもなあ、一度与えちゃったからね、自由意志は。今更彼等からそれを取り上げるのもね…まあいいか。この私から離れるも、私と共に居ようとするのも、彼等の自由だ。好きに選ばせてやろう。ま、いずれにしても入り込んでしまった『欲』に由来する事については、今後ワシはノータッチとしよう。その全ての責任は彼等人間に取って貰おう。欲に悪い欲と良い欲があるのかどうかは、ワシも何とも言えんが、これに由来する全てについて結果は彼等人間に負わせよう…』こう考えられたように思います…アーメン