こんにちわ。皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです。今回から3話連続で、『鎌倉殿の13人』シリーズをお送りしたいと思います。初回の今回は、鎌倉幕府創設者、源頼朝の妻で頼朝死後も幕府内で大きな影響力を持っていた、北条政子という人についてお話したいと思います。

夫頼朝の死後出家した北条政子

 

 一般的に言って我々日本人は生来他国の人々、特に欧米人と比較するとあまり人前でのスピーチは上手ではないと私コーネリアスは思っています。それはこの国の歴史を見ても明らかで、日本史上、人前で名演説を行い、歴史に残る事を成したという例は少ないと思います。これに対し、欧米などでは、歴史上色々な人が色んな場面で色んな名スピーチ、名演説を行い歴史を作って来ています。勘違いしないで下さいね。だから日本人はダメだという意味では決して無いので…そんな我が国の歴史の中で、ある女性のスピーチが当時の政権を救ったという時代がありました。それが鎌倉時代、承久の乱(変)を前にした際の北条政子のスピーチでした。

 

承久の乱(変)の首謀者の一人、後鳥羽上皇

 

 初代将軍源頼朝亡き後、鎌倉将軍は頼朝の長男二代目頼家、次男の三代目実朝と続きますが、共にその死によって短命政権で終ってしまいます。特に源実朝の死は幕府に大きな影響を与えるものでした。というのも、彼の死によって、源氏の血筋が完全に途絶えてしまったからです。実朝にはこの時点で子供が居なかったのです。更にその死も暗殺という突然の想定外のものであり、後継者不在という前代未聞の大変な状況となってしまっていました。武家の棟梁である源氏の血筋も無くなり、後継者も不在。『じゃ一体誰が将軍職やるの?』、『誰か居るの?居ないなら、何、もう鎌倉幕府は終了?』、『明日から俺たち御家人どうなんだよ、えっ!』、きっと当時の全国の御家人たちの間ではこんな話が飛び交っていた事と思います。実朝の暗殺事件は、それくらいの幕府を揺るがす大事件だったのは間違い無いと思います。この幕府の危機的状況に、『将軍代行』として鎌倉幕府を仕切ったのが、何を隠そうこの北条政子、尼将軍政子だったのです。政子は夫頼朝の死後すぐに出家した為、この時既に尼さんになっていました。ですが、元鎌倉殿の正室、御台所、尼御台としては、頼朝死後も絶大な力を持っていたようです。きっと、夫頼朝と二人三脚でやっとの思いで築いた武家政権をこのまま消滅させてなるものか!という強い思いに突き動かされての行動だったのだろうと推察します。

 息子で3代将軍の実朝の葬儀が終わるや否や、彼女は京の朝廷に『実朝公亡き後の新将軍として、後鳥羽上皇様の皇子の雅成親王様に就任して頂きたく存じます。』との手紙を送ります。実はこれには裏があって、この件はこの時、いわゆる政子の思い付きで突然決めた事でもなんでもないのです。実朝暗殺の前年、政子は熊野詣へ行くと称して京へ上洛しています。彼女はこの時、京都で時の権力者藤原兼子(けんし)という人物と会い、密談をしています。この藤原兼子という人物は後鳥羽上皇の乳母を務めた人物で、位階も『卿二位』の位を持ち、後鳥羽上皇からも大変信頼され気に入られていた事もあり、女性ながら当時絶大な権力を持った人物でした。当時後鳥羽上皇にも政治の事で色々進言等も行ったりしていたそうです。今で言う典型的なキャリアウーマンですね。この時の話で、息子実朝に後継ぎが中々出来ない事を政子が兼子に告白しています。で、この時兼子が政子に『ふんふん、成る程ねえ…確かに悩ましい話よねえ。では、政子さん、こうしてはどうでしょうね、後鳥羽院のお子さんに頼仁親王という方がおいでです。貴女もご存知でしょう…お父様である院には私から申し述べてみますから、この親王様に実朝公後の第4代征夷大将軍になって頂くというのはどうでしょうね。悪い人選ではないように思いますが…』『実は、私も密かにそれを心に思っておりました…兼子様、誠に有り難く存じます。院へのお取り計らい、何卒よろしくお願い申し上げます。』…当時の資料によるとこんな風なやり取りがなされたようです。結果的にはこの『頼仁親王案』は後鳥羽上皇の強い反対があって実現はしませんでした。がしかし、政子が取っていた行動というのは実に先を見据えたもので、つまり、実朝暗殺とは関係なしに、実朝に子供が出来ない事を、後継者が産まれない事を心配して、政子は前年から既に動いていたわけです。政権の安定化、幕府の行く末の事を案じてね。それも当時、院や帝にも影響力のあるトップクラスの権力者に働きかけているなんてのは、多分執権北条義時には出来なかったでしょうね。ここから分かる事は、北条政子という人物が朝廷からいかに重要人物と見られていたか、尊重されていたか、という事です。その証拠にこの密談後、藤原兼子の後鳥羽上皇への強い働きかけにより、政子は、この時出家の身であったにも関わらず、異例とも言える『従三位』の位階を朝廷から与えられています。また同年の11月には、『従二位』の位が与えられています。従二位と言えば、亡き夫源頼朝も生前賜った官位です。全くもって朝廷からの位階をみても政子は夫頼朝に引けを取ってはいません。言い換えれば、朝廷から見た場合、政子は頼朝とほぼ同格と見られていたと解釈も出来るでしょう。なので、先程述べたように、政子は鎌倉幕府内での最高権力者と見做されていたというわけです。なので、重要人物、いわゆる『東国のVIP』というわけです。それにしても、政子という人、実に天晴れというか、当時の朝廷の最高権力者からも気に入られるなんて、余程政治力というか、人間的にもきっと魅力があった人だったんでしょうね。それにしても、この当時の社会は今と随分違うように思います。女性の活躍ぶりが凄過ぎるので…だって『東の政子』に、『西の兼子』ですよ。東西の日本の政界を実質的に動かしているのが、女性なんですから…特に、乳母の地位はこの当時相当高かったみたいです。そうした地位を利用し、政界に打って出るという策を積極的に取っていたようです、この頃の女性はね。男は謀略計略と武力だけどね、この時代は。

尼将軍政子(小池栄子さん)とそれを補佐する弟執権北条義時(小栗旬さん)  NHK大河ドラマより

 

かつての大河ドラマで藤原兼子役を演じる夏純子さん HNK大河ドラマより

 

 で、先の手紙の話に戻すと、兼子と共同で進めていた『頼仁親王案』が上皇の反対で頓挫した為、政子はそのターゲットを変更し、雅成親王に変えます。しかし、上皇はこれに対しても難色を示します。で、結果的に上皇側が『皇族将軍はダメだけど、摂関家将軍なら認めるよ…』とした為、第4代将軍は、摂関家の九条頼経(幼名三寅)という公家を就任させる事となりました。そして、この将軍が当時未だ子供であった為、将軍後見人として政子がいわゆる『尼将軍』として表舞台に立ったわけです。弟で執権職にあった北条義時の全面バックアップを得ながらね。いわゆる北条家による『姉弟二人三脚政権』の誕生です。今で言うなら、政子総理と義時官房長官てところでしょうかね。この辺りから鎌倉将軍というのは、完全に事実上お飾り将軍状態となってしまいます。事実上の政治の実権は執権にあるわけです。この時なら、北条義時ね。

第4代鎌倉将軍 三寅(みとら)こと後の九条頼経

 

 さて、此処までなら、何となく朝廷が幕府に恩を売り、幕府のピンチを救ったみたいな話なのですが、この後俄かに話が風雲急を告げる事となります。この頃の日本の状況というのは、確かに鎌倉に幕府はありましたが、その政治的支配はまだまだ完全に日本全国と迄は至っていませんでした。どちらかと言うと、その支配は東国中心であり、西日本は未だに朝廷の力が大きく及んでいると言った状況でした。つまり、幕府と朝廷による二元政治状態ね。そんな状況から、前代未聞の朝廷VS鎌倉幕府という、承久の乱が勃発したわけですが、そもそも一体何がその原因だったのでしょうか?以下に原因と思われる事を記してみますね…

★承久の乱の原因、遠因

①そもそも後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の存在が面白くなかった。昔のように朝廷に権力を取り戻したいと考えていた。(「後白河法皇様の時みたいに自由にやりたいよなあ…」)

②がしかし、実は後鳥羽上皇は個人的に源実朝が大好き❤だった。実際の本音のところは、圧倒的武力を背景とする将軍実朝に対する、忖度というか煽てというか、そんなものを感じるところでもありますが…子供じゃないので。で、好きだった理由というのが、互いの共通の趣味、和歌である。後鳥羽上皇も和歌を嗜んでいたが、和歌については実朝も相当の実力があり、これを上皇も認めていた。実際実朝の詩は、朝廷の和歌集にも収められている。共通の趣味で互いを認め合い2人は蜜月関係にあった。この時上皇は『公武融和策』を考えていて、実は朝廷&幕府の関係は大変良好だった。その証拠に上皇は実朝に自分の娘を嫁がせている。また、実朝に右大臣の位まで与えている。過分なくらいの扱いであった。ところがその実朝が暗殺されてしまう…朝廷との大きなパイプが途切れてしまった…上皇の落胆ぶりも大変大きなものだった。

③鎌倉幕府が各地に設置した、守護地頭制度が気に入らなかった→朝廷は各地の荘園からの寄進で収入を得ていたが、地頭の設置によりこれが大きく激減した為。特に東日本からの収入が大幅減。

④鎌倉幕府内で、北条義時が執権として政治をしている事が、義時が幅を利かせ将軍である公家出身の九条頼経を軽んじているというように上皇に受け取られた為。(上皇は、義時が大嫌いだったみたいです…)

 

 こうして、かつて後白河法皇が平家追討の院宣を出したように、今回は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府北条義時追討の院宣を全国の武士たちに出しました。義時追討とあくまで個人名ではありますが、事実上の幕府の中心人物な訳なので、これは鎌倉幕府追討と同義語と捉えてよいかと私は思います。この院宣は全国の武士たちに激震を与えました。上皇様に、朝廷に付くべきか、はたまた、鎌倉殿に、鎌倉幕府に付くべきか…鎌倉の御家人たちも同様でした。前回は相手は平家、つまり同じ武士。なので、戦うに当たりなんの躊躇も要りませんでした。がしかし、今度は上皇様がそのトップです。正直皆躊躇しました。それを裏付ける逸話があります。面白い話なのでご紹介しますね。因みにこれは政子の名演説後の話ですが、北条義時と息子北条泰時のやり取りです。義時の息子泰時が鎌倉軍の総大将に選ばれ、京を目指して出陣しました。が、間も無くして泰時は義時の元へ急に戻って来ます。そして父親にこう訊ねます。『父上、出陣前にどうしてもご指導頂きたい事が御座います。これは、万が一の事ですが、もし万が一にも相手方軍を上皇様自らが兵を率いて来られた場合は、私はどのように対処したら良いのでしょうか?是非ともご指導頂き度く…』『うむ、確かにそうじゃのう。じゃが、君の輿には儂等は絶対に弓は引けぬ。それをやっては断じてならぬ!その場合は、お主は馬より降り、鎧を脱ぎ、弓の弦を切り、刀を御前に差し出し、そして直ちに降伏せよ。但しじゃ、そうで無い場合は、遠慮は要らぬ。思う存分力の限り戦って参れ!』『御意!では父上、行って参ります!』…こんなやり取りだったとの事です。いずれにしても、相手が相手。今回ばかりは、正直鎌倉武士たちも動揺していました。こんな状況を、空気を察知し動いたのが、またしても政子でした。正直、鎌倉幕府創設以来の大ピンチ。この時政子は鎌倉幕府の多くの有力な御家人たちを自分の館に集め、以下のような演説をしたと言われています…

 

★北条政子の演説内容

『お集まりの皆さん、是非とも皆心を一つにして、今から私の言う事に耳を傾けて下さい…これが私からの最期の言葉になると思うので…故右大将軍、源頼朝様が朝敵を討ち滅ぼし、鎌倉に幕府を創って以来、私は皆さんの生活環境は一変したと信じています。官位といい、俸禄といい、皆さんのソレは、以前とは比べものにならない位に改善出来たと思っています。でもね、それもこれも皆さんの頑張りの結果なんですよ、皆さん!そしてその皆さんの努力を、頑張りを御恩という形で私の夫や息子たち、そう源氏三代の鎌倉殿が認め、与えて下さったご褒美の賜物だと思っています…それですからね、この鎌倉幕府というのは今此処にいる坂東武者が鎌倉殿と心を一つにして作り上げた尊いものだと私は思っているんですよ…ホント、心の底からね…皆さんが在りし日の鎌倉殿より受けたその御恩は、まさにどんな山よりも高く、またどんな海よりも深いものではなかったでしょうか?そして、あの時の皆さんの鎌倉殿に対する『有り難い!』という、素直な美しい『感謝の気持ち』は決して浅いものとは、私はつゆほども思っていません。しかしながら今日、上皇様を取り巻く悪しき逆臣たちが事もあろうに上皇様を誑かし、事実でない事を訴え、悲しいかな、道理から外れた院宣が上皇様から発せられてしまいました…誠に悲しい事です…今此処に居られる皆さんは、坂東武者。皆さん坂東武者としての誇りとプライドをお持ちの筈です。どうかその誇りとプライドにかけて、ご自身の名声を大切にしたいと願う方は、この逆臣で裏切者、上皇様を誑かしている藤原秀康、三浦胤義両名を是非とも討ち取って下さい。そして、どうか今こそ源氏将軍家が頼朝公、頼家公、実朝公三代にわたり、まさに命懸けで死守してきたもの、そうこの我ら武家の政権である、尊い鎌倉幕府を今度は皆さんが最期まで命懸けで守って下さい…どうか、皆皆様方、お願い致します…ですが、これは決して私の強制ではありません…確かにお相手は上皇様ですしね…ですので、どうしても『我は君には抗えぬ!』、『我は君の元へ参りたい!』と言う方はどうか今すぐ申し出て下さいね。決して私は決して咎めたりは致しませんので…』(コーネリアスによる、現代語訳)

 

 この演説を聞いて、感極まってその場にいた多くの御家人たちは、皆涙したのだそうです。ですが、この辺については、記録書によってまちまちで、『承久記』という歴史書によると、政子は自らの口で涙ながらに御家人たちに演説したと書いてあります。しかし、幕府編纂の『吾妻鏡』によれば、御家人たちの前に確かに政子は進み出たが、演説はしておらず、側近の安達景盛が政子が書いた声明文を代読したと記してあります。ま、今となってはどちらか分かりかねますが、いずれにしてもハッキリしているのは、彼女のこの名演説以後、御家人たちは覚醒し、幕府は間違い無く一枚岩になれたという事実です。この後、先に述べたように、北条泰時を総大将とした幕府軍が鎌倉を出立します。とは言え、この時総勢僅か18騎だったそうです。それが進軍するにつれ増え始め、京都に着く直前には、何と19万にまでなっていたのだとか(吾妻鏡)。この数字は多少盛ってあると思いますが、要はそれ位多くの兵が鎌倉方に付いていたという事だと思います。その後初戦の宇治川の戦いでも幕府軍の圧勝。最終的に朝廷軍は総崩れとなり、首謀者の一人後鳥羽上皇は隠岐島へ、また順徳上皇も佐渡島へ配流と相成りました。皇族様方以外の公家、武将たちはその多くが皆全員粛清(斬首)、又は京都追放されました。そしてこの事件を契機に京都に朝廷監視役として、六波羅探題という監視組織が幕府により設置される事となったのです。この辺くらいの事は、確か教科書に書いてあるのかな。以上がこの乱(変)の概要です。

 こうして今この動乱を時系列に俯瞰して見てみると、やはり大きなターニングポイントは、あの政子の演説だったと思われてなりません。ある意味で後鳥羽上皇も非常に巧みでした。御自分の地位を余すところ無くお使いになった。何と言っても元帝、上皇というブランドというか、権威というのは日本人には非常に特別です。義時が泰時に語ったように、『君には弓は引けません』です。日本人なら…でも、『この一線はたとえ相手が仮にも『この国の権威』であってもどうしても退けません』…それもあったと思います。そうしたとてつもない戦いというか、精神戦というか戦だったわけですよね、承久の乱という戦は…想像するに、当時の政子、義時、泰時の精神状態を今考えると、きっと生地獄、物凄いプレッシャーと闘っていたんじゃないかと推察します。でも、彼等はそれを克服した。その原動力になれたのが、まさに彼等が血と汗と涙で創り上げた『鎌倉幕府』といういわゆる、『目には見えないもの』だったんじゃないでしょうか?其処は誰にも見えない。でも、其処には間違い無く『多くの人たちが関わっていた』。頼朝も居たし、頼家、実朝も居た。梶原景時、畠山重忠も居た。北条時政も居た。残念無念に散って行った数多の者も居たが、それも含めて鎌倉幕府。そうした彼等の思い入れの深いものを簡単に手放してなるものか!という、強い思い、そして彼等の歴史。これじゃないかと思う次第です。私はその熱い思いが、先の政子の演説に込められ、その思いが多くの御家人たちの『心』に『魂』に届いたのでは、と考えています。そう考えると、まさに先の政子の日本史上稀にみる名演説は、間違い無く『神』の御技と思わざるを得ないように思えます。神が政子に語らせられたのです、きっと。彼等の熱い思いを『義』となされた神がね…