こんにちわ。皆さんご機嫌いかがですか?コーネリアスです。今回は、今好評放送中のNHKの大河ドラマ、『鎌倉殿の13人』が、もし江戸時代TVという物があって放送されていたら…という事をちょっと考察してみたいと思います。

コーネリアスが大好きなオープニングシーン…鎌倉武士カッコいい!

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』より

 

 今年の大河ドラマ、『鎌倉殿の13人』ですが、現在視聴率も好調なようです。私も何回か観ましたが確かに面白いですね。三谷幸喜作品はやはり面白い。『新撰組』、『真田丸』も良かった。ただね、一点だけ気に入らない事があります…それは何かというとね、源平合戦シーン。特に平家最期の壇ノ浦の戦いのところ。菅田義経ばかりが目立っていてちょっと気に入らぬ。実はね、義経が活躍した屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでは、私コーネリアスのご先祖さまも大変活躍したんです。というか、私に言わせれば、義経があそこまで大活躍出来たのも、何を隠そう私のご先祖さまの献身的な支えがあったればこそなんです。その証拠に戦後の論功行賞で、私のご先祖さまは北条時政、源頼朝から直接の呼び出しの声が掛かり、わざわざ鎌倉まで行き、頼期から直々に感謝の言葉を貰い、褒美まで頂戴しています。これは事実です。そうした縁もあり、後々一族の娘を嫡男源頼家の側室にもしています。これもホントです。事実です。かの鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にもちゃんと記述があるんですから…そんな偉大なる我がご先祖がちゃんと出て来なかった…ちょっとショックでした…ここだけはちょっと気に入らない。もし機会があれば三谷さんに聞いてみたいものです。どうして出さなかったの?とね。因みに、私のご先祖さまは、坂東武士では無く西国武士です。頼期の挙兵と共に『打倒平家』に組みし、立ち上がりました。四国が出自で、当時日の本一の水軍を持っていました。間違い無いと思いますよ。だって平家水軍を滅ぼしたんですから。後世戦国時代に現れる、かの有名な瀬戸内の村上水軍は、この時私のご先祖さまの水軍の一メンバーでした。つまり私のご先祖さまの部下ね。ここまで言ってしまったら、いわゆる歴史マニアの方には氏素性がバレましたかね…この時代は、私のご先祖さまが最も輝いていた時代なんです。だから、私は『鎌倉時代』と聞くと心が躍るんです。おっと、つい先祖の話ばかり語り過ぎてしまった…ここでは私のご先祖さまの詳細は割愛したいと思います。いずれ機会があれば、また別のblogで私のご先祖さまについて詳しく語らせて頂きたいと思いますので、乞うご期待!

源平合戦で有名な『義経の八艘飛び』…義経ばかりが目立っていたが、それは一体誰のお陰?

 

義経を支えた、ご先祖さまの最強水軍!

 

 さて、そんな話題の多い『鎌倉殿の13人』ですが、これがもし、もしですよ江戸時代にTVがあって放送されていたなら、どうなっていたでしょうか?私は間違い無く記録的な視聴率を叩き出していると思います。毎回7、80%いや、もっとかな、それ位大大大好評なドラマになったと思います。どうしてそう言えるかというと、どうも江戸時代の武士は鎌倉武士に相当憧れていたようなのです。実際江戸時代の武士の武術や剣術への最高の賛辞、褒め言葉は、『いやあ、貴方の剣の腕前は誠に天晴れ!お見事です…まるで鎌倉武士のようですなあ…』とか、『貴殿の強さは抜きん出ておる。まるで鎌倉武士の如きじゃ…』みたいな感じで使われていたそうです。考えてみれば、江戸時代という時代も既に平和の時代。戦なんかは無いわけです。武士が腰に刀を提げてはいますが、実際には使えない。いや、余程の事が無い限り使ってはならない時代でした。武家諸法度という厳しい法律がありましたから。この点は私は今と大変似ていると思います。よく江戸時代を描く時代劇物を観ると、なんか簡単に武士が刀を抜いて斬り合いしているように描かれていますが、実際はとんでもない話です。仮に酒に酔っての事、ちょっと喧嘩が発展した場合の斬り合いでも、『世間さまを騒がせた』という事で、最悪双方『切腹』などと言う御沙汰になる可能性すらあったのです。人間というのは、いつの時代も洋の東西を問わず、それは命は惜しいもの。なので、そんなに簡単に刀を抜く訳がありません。何よりも武士が最も大切にしているもの、『自分の名誉』、『お家の名誉』に傷が付きます。なので、江戸時代は武士は刀を抜けない時代だったわけです。悪い言い方をするなら、江戸時代には既に武士もいわゆるサラリーマン化していたとも言えるかもしれません。だって、みんな何処かの藩に所属していて、そこからお給料、当時は石高ですが、貰っていた訳ですから…経済的な生活の安定も既にあったわけです。これに対し、鎌倉武士はサラリーマンではありません。何よりも江戸時代で言う藩が未だ存在していません。なので、鎌倉武士たちは、今で言えば『自営業者』的存在だったと言われています。一族で結集し、農業もやったり、戦になれば武装して戦っていたわけです。そう半農の士だったんです。それですから鎌倉武士たちにとって最も大事なもの、それは自分たちの『領地』だったのです。その土地で米、野菜と言った食べ物を作り家を賄う、一族を賄うわけですから。江戸時代の武士たちから見た時、こんな鎌倉武士は逞しい存在に見えていたんじゃないでしょうか?実際、鎌倉時代は、主食が玄米食だったそうで、これは大変栄養価も高く、尚且つ戦や農作業に励んでいたとすれば、鎌倉武士たちは、間違い無く『筋骨隆々』としたいわゆるマッチョな男たちだったと容易に推測出来ます。平均身長は150センチ台だったみたいなので、小柄だったようですけどね…

 さてそうは言っても、やはり武士は武士。本来は戦う存在なわけです。そうしたDNAを受け継いで来た者として、江戸時代の武士たちもその原点、サムライの原点としての鎌倉時代を眺めていると、体の奥底から『フツフツ』と湧き出てくる『何か』があったのではないでしょうか?私コーネリアスは、勝手にそう思っています。彼等江戸時代の武士たちから見た時、鎌倉武士という存在は『力強く』、『美しく』、『とても自由で』、『全てが徹底した実力主義』だった古き良き時代と思いを馳せていたんじゃなかろうかと思います。というのも、これは仕方がない事であると思うのですが、武家諸法度も制定され、平和が重視されれば、斬り合いなどは言語道断。なので、本来は戦う存在であるにも拘らず、戦えない社会状況下に置かれていた存在になってしまった。勿論悪い事ではないと頭の中では分かっていてもサムライとしての本能的部分が時々叫びを上げる、ある種のストレス社会だったかもしれません。実際、鎌倉時代は源平合戦や承久の乱のような大きな戦以外にも、家VS家、一族VS一族と言った小さな戦も結構多かったみたいです。なので、間違い無く江戸時代の武士たちよりも平均寿命は短かったと思いますが、短くとも精一杯美しく生きたその姿に憧れのようなものを抱いていたんじゃないかと思います。

江戸時代の作家、滝沢馬琴

 

 この辺の事を証明するのにピッタリのある小説が江戸時代に作られています。それが、滝沢馬琴という人が書いた小説『椿説弓張月』です。滝沢馬琴という人は、これも以前私が当blogで紹介しましたが、日本で最初の職業作家になった人です。つまり作家業一筋で生計を立てていた人ね。日本に数多居たいわゆる文豪さんたちの魁となった人です。確かにそれ以前もいわゆる『物書き』は居ましたよ。紫式部や鴨長明なんかね。でも彼等は『職業作家』ではありませんでした。紫式部は本業は朝廷の女官だったし、鴨長明は出家してましたから…本業は何でしょうか?御坊さんですか。なので、自分の作品のみで生計を立てた最初の人は、間違い無く、この馬琴さんだったわけです。この人の作品で有名なのは、何と言っても『南総里見八犬伝』。これ現代でも漫画や実写映画化されるほどですから。ストーリー展開も面白く、今でも根強いファンが大勢います。これは、室町時代を時代設定として作られた作品でしたが、実はこれ、彼の第二作目だったんです。じゃ、処女作は何か?それが『椿説弓張月』という作品だったんです。そしてこれ、『椿説弓張月』、実はあの『南総里見八犬伝』を上回る部数売れていたんですよ…この辺りはあまり語られないところですね。あの八犬伝を凌駕した売れ行きであったんです、処女作がね…

有名なのは南総里見八犬伝なんですが…

 

八犬伝を上回る累計部数を叩き出したデビュー作椿説弓張月

 

 

 で、この『椿説弓張月』とは一体どんな内容の作品かというと、時代設定は平安時代末期、主人公は鎮西八郎為朝こと源為朝です。基本、平安時代に起きた保元の乱での事を描いていて、登場人物も実在の人物。つまり歴史小説という事ですね。で、参考文献に使っているのが、これも鎌倉時代初期に書かれた『保元物語』です。この戦での源為朝の活躍ぶりを描いた作品で、これが江戸時代の庶民に大受け。あっと言う間に大ベストセラーになってしまいます。その後も売れ続け人気は全国区ヘと拡がりました。当初馬琴さんは、この作品を前後編12巻で納めようと考えていたようなのですが、全国の読者からの熱烈なラブコールにより、完結も延長、延長を続け、結局は前編、後編、拾遺、残編と全5編、29冊かかっての完結となったのだそうです。今で言えば、あの『鬼滅の刃』みたいな感じだったんじゃないでしょうか?全国の庶民から絶大な人気があった為、話が簡単に終わらせられない。且つスピンアウト編なんかも出て来る点ではね。よく似ています。これは厳密には鎌倉時代とは言えませんが、時代も平安末期で、鎌倉時代は目の前という時代です。実際、為朝が戦った相手方に居た自分の兄、長男の源義朝は、あの頼朝、義経の父親です。なので、主人公の為朝は、頼朝、義経兄弟から見れば叔父様となるわけです。じゃ、そもそもどうして江戸時代の人々はこの源為朝、鎮西八郎為朝に熱狂したのでしょうか?答えはこの為朝という人のいわゆるキャラクターが大変個性的で且つ魅力的だったからです。もっと言えば、ある種日本離れしていたからだと思います。何故なら、何を隠そう私コーネリアスがそう思うからです。以下に主人公、源為朝の特徴を記してみます…

江戸時代のみんなのヒーロー、鎮西八郎為朝!

 

★鎮西八郎為朝こと源為朝という人

①身体的特徴→身長210cmの規格外の大男、筋骨隆々、怪力の持ち主。日本人離れした体型&身体能力

②子供の頃から『源氏の棟梁』の父(源為義)から武術の英才教育を受ける。→特に弓

③白河天皇から『武士の鑑』と褒め称えられた偉大なる八幡太郎義家公は彼の祖父。

④弓の名手に成長。使用していた弓は『強弓』で、男5人がかりでやっと引けるほどテンションが強かった。

⑤子供の頃から悪ガキで、あまりの素行の悪さで父から九州へ追放される。→半分勘当状態

⑥追放先の九州で多くの武士との戦いに勝利→多くの九州武士を家臣とする→鎮西八郎の名の由来

⑦源頼朝&源義経は彼の甥っ子→彼の甥っ子である事に、ある種誇りを持っていた。

⑧保元の乱で、彼が放った矢で敵兵2人が串刺し状態で射抜かれた。

⑨源義経は九郎義経と名乗っていたが実際には八男だった。→偉大な叔父に忖度し、わざと九郎に変えたとの説あり。

⑩今回の『鎌倉殿の13人』でも、大泉頼期が『あの為朝叔父様の孫娘さんか…』というシーンがある。→父義朝に討たれた敵方存在であるにも拘らず源氏の中では死後もヒーロー的存在。

⑪保元の乱での為朝の敵方の後白河天皇の行動→敵の将とは言え、あまりの規格外の噂を聞き一眼見たいと、捕縛された為朝の様子を垣根からコッソリ覗き見し窺われた。

⑫流人として伊豆大島へ流されたが、そこを脱出し琉球へ渡り、此処で初代琉球王となり、琉球王国を建国した。→為朝琉球王伝説→義経成吉思伝説と酷似!

⑬九州には数多くの為朝伝説に由来する地名が存在する。牛津、鎮西山、屋形石等々…

他にも多々逸話や伝説が絶えませんが、数が多過ぎるので今回は割愛します…

 とまあ、こんな逸話の多い人物だったので、ある意味小説にもし易かったのかもしれませんね。ヒーロー的素養も持ってますしね。で、結果記録的大ヒット。ここが示すように、武士の原点である鎌倉武士には、何も武士のみならず一般庶民もシンパシーを感じ、慕っていた、憧れていたと思われます。

 また、これとは直接関係は無いのですが、江戸時代の歌舞伎の演目なんかも鎌倉物が多いですね。勧進帳、義経千本桜なんかがね。これら全て源義経に関わる話ですから。江戸時代からいかに源義経が人々から人気があって、愛されていたかが分かろうというものです。また、江戸時代には、江戸在住の女性たちの間では、いわゆる『鎌倉小旅行』がちょっとしたブームになっていたそうです。行先は江ノ島や鶴岡八幡宮だったようですが、確かに今でも東京〜鎌倉間はそう遠くはないですからね。江戸の女性たちは女性たちで、そうした事を通して鎌倉時代に想いを浸らせていたのかもしれませんね。同性としてあの時代を逞しく生き抜いた、北条政子や巴御前(木曾義仲の愛妾で近習でもあった弓の名手)、静御前(義経の愛人で舞の名人)に想いを寄せながらね…

承久の乱時には天下の名演説で鎌倉武士達を鼓舞した、尼将軍北条政子

NHK『鎌倉殿の13人』より…

 

巴御前画 大変美人の強弓精兵と言われています…

 

白拍子、今で言えばダンサーだった静御前