こんにちわ。皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです。今回は、戦前に起きた大事件、二二六事件と、この時の昭和天皇の御対応についてお話したいと思います。おそらくですが、私も含めて多くの読者の皆さんは、戦後生まれの方だと思います。なので、この事件については、仕方がない事ですが、学校の教科書で教わる程度でしかないと思います。しかしながら、もう既にお気付きの方も多いかと思いますが、戦後日本の学校の歴史教育は反日的自虐史観に満ち溢れており、特にこの二二六事件などはその典型。待ってましたとばかりに我が国を貶めるような表現、文章に溢れています。私は、これでは正しい歴史は後世に伝わらないと思うのです。全くもって嘆かわしい事です…二二六事件は、決起した陸軍皇道派の将校たちにより、当時の日本の閣僚等が暗殺されるという、前代未聞の軍事クーデターでした。では、何故彼等皇道派将校たちはそのような暴挙に訴え出たのでしょうか?その背景、動機となったのは何だったんでしょうか?

決起を敢行した皇道派の栗原陸軍中尉(中央)他

 

 この事件の動機背景となっていたのは、大きく見て以下なものであったと思います。

★二二六事件の発生要因

①陸軍内部での派閥争い→皇道派と統制派→当時の陸軍は統制派が実権を握っていた。

・皇道派→天皇親政や極端な愛国皇国精神主義を唱え、急進的な思想行動を実践する事を持論とする派閥。

・統制派→軍部と政界、財界、官僚機構とが互いに協調し合い、政治統制を進めるという思想の派閥。

②世界大恐慌(1929年)の影響による大不況(昭和恐慌)→多数の企業が倒産→失業者が溢れる状況→社会不安

・上記の状況に対し、時の政権は何ら有効な政策が打てず。民衆の政治への不信が増大した。

③②の影響による農作物価格の急落(農村恐慌)→急激な価格下落に農村部は耐えられなくなり、遂には食うに困り果て、特に東北を中心に、自分の娘を泣く泣く女郎屋に身売りせざるを得ない家が多数発生した。

④上記のような非常事態にも拘らず、政界では汚職が続発していた。

⑤また、財界においては、中小がバタバタ倒産しているのを尻目に大企業は、不景気の中こうした中小を助ける事はせず、自分のみ生き残り、肥え太って行く路線を取っていた。

 

 こうした我が国の状況を軍人とはいえ同時に日本国民でもあった陸軍の面々も憂います。特に愛国皇国の思いの強い皇道派のメンバーからすれば、その歯痒さ如何ばかりかとも思えます。確かに令和の今、私から見ても特に東北農村の惨状などは『政府の力でもっとどうにか出来なかったものか…』と正直思えますから。

 この東北農村部の惨状について、実は決起に参加したある一人の将校が手記を残しています…折角ですのでご紹介しておきますね。とても悲しいお話ですが、これも事実なので…

★高橋太郎陸軍少尉の手記より

・高橋少尉が歩兵第三連隊で初年兵教育係を務めていた時の回想録。とある東北出身の初年兵に、身上調査面談で家庭の事を尋ねた時…

高橋少尉:『君、兄弟は?』

初年兵:『ハッ!姉が居ります。』

高橋少尉:『そうか、そうか。で、姉上はお元気か?』

初年兵:『…あ、姉は…』

『彼はその後口をつむぎ、下を向いて涙していた。私は、彼の姉が東北農村の困窮の為、身売りしたのだとすぐに悟った。私は彼を不憫に、可哀想に思い、それ以上の質問は控えた。しかしながらこうした事は、彼だけではなかった。私は、初年兵の身上調査面談で、こうした事を複数回聞かされる羽目になった。私は暗然と嘆息するしかなかった…食うや食わずの家族を故郷に残して、国防の第一線で命懸けで戦う強者、その心中や如何ばかりのものがあるだろうか?この彼らの心情に泣く人がどれほど居るだろうか?この人たちに注ぐ涙がもしあると言うのなら、そういう人たちは、国家の現状をこのままにしては置けない筈だ!特に政治の要職にある人ならば…』

 

 上記の文章、私には高橋少尉の魂の叫びのように感じられます。皆さん想像してみて下さい。確かに、いくら仕事とはいえ、日々こんな話聞かされ、面前で泣き崩れられたら、返す言葉、元気付ける言葉もありませんしね…いや、高橋少尉は誠にお辛かった事と思います。

 また、別のエピソードですが、こんな話も残されています。それは、陸軍大学出の陸軍の上層部のエリート将校と、現場で汗を流す現場の将校とたちとの対談でのやり取りです…

★エリート将校たち(統制派)と現場将校たち(皇道派)との会話(陸軍将校クラブに於いて)

エリート将校たち:『青年将校は、勝手に政治活動をするな!お前らの考えている国家の改造や革新は、俺たち幹部である、上層部の仕事だ!俺たちが中心になってやって行くから止めろ!』

これに対し、現場将校たちは、こう反論しました…

現場将校たち:『あなた方陸軍大学出身のエリートには、農山村漁村の本当の苦しみは判らない。それは、自分たちのような現場に居る者、一般の一兵卒と日夜訓練を共にしている者だけに判る事だ!』

 

 ここで、私が申し上げたいのは、上記①〜⑤の複数の要因が、当時の、特に現場で働く将校たちの心に政治的活動を考えさせる大きなキッカケとなってしまったという事です。彼等は、いわば心の中にそうした『憂国』の想いを抱きつつ時を過ごすわけです。そして、そんな状況下であの人物、ある種とても危険な革命思想家、北一輝と運命的出逢いをしてしまうわけです。

二二六事件の理論的指導者 北一輝

 

 この北一輝については、私の過去のblogでも色々ご紹介しましたので、今回プロフィールその他詳細は省きますね。いずれにせよこの人というのは、社会主義革命家、国家社会主義者です。なので、あのナチス党の思想ととても近い思想の持ち主でありました。実際彼の場合、中国辛亥革命時には現場中国まで渡って共に戦った経験もあるほどで、そうした意味では、筋金入りの革命家であるとも言えます。また、彼の社会主義思想の特徴的なところが、天皇の存在を否定しないという点です。普通、社会主義というのなら、目指す方向、最終目的は共産主義なのですから、日本の場合なら、いの一番に天皇、そして宗教を否定する筈なんです。ですが、彼はしません。何故か?そこに彼が行き着いた日本の特殊性がありました。『この国は、ロシアや中国と大きく事情が違う。二千数百年来座す天皇という極めて大きな他国に類を見ない存在がある。この存在を無視しては何一つ先へは進めない。よって、天皇にはそのまま鎮座していて頂く。これまでは、天皇の下での民主主義だったが、これを社会主義に変える。天皇の下での社会主義国、これが私の目指す理想国家だ。』こんな感じなんですね。悲劇はここから始まります。この彼の思想に皇道派の青年将校たちが飛び付くわけです。『そうだ!これこそ理想の君民共治の姿だ!これを目指そう。』北一輝と皇道派青年将校たちは、意気投合します。同時に彼等は、勇気付けられます。だってそうでしょう。自分たちがいずれやろうとする事に対し、理論的裏付けが付されたのですから。こうなると、彼等はただのいわゆる暴力の徒では無くなります。彼等にとっては、彼等こそ忠臣である『正義は我等にあり!よって陛下も御理解下さる筈だ!』とこうなるわけです。こういう点から、私コーネリアスは、この二二六事件というものは、ある種日本で起こった最初の『社会主義革命クーデター』であると考えています。ま、全体の構図としては北一輝という、社会主義革命家の口車に、真に国を憂いモヤモヤしていた真面目な軍人さんたちが、まんまと乗せられた、そんな感じですね。でもね、確かにあの時点での日本の民主主義も、私に言わせたらダメですよ。特に政権の中枢に居た政治家が全く仕事をしていない。あれじゃ、皇道派の将校たちが北に靡くのも、ある種已むを得なかったようにも思えます。多少の同情の念はあります。それでも絶対ダメですけどね…クーデターなんかは。

クーデター部隊、安藤大尉部隊の旗

 

 さてこうした状況が続く中、いよいよ決起その日がやってきました。1936年、昭和11年、2月26日水曜日

午前5時首相官邸襲撃から決起はスタートしました。上記の旗は、決起部隊の一つ安藤大尉部隊の旗ですが、ここに象徴される如く、彼等決起部隊の思いは一つ。我等が天皇陛下を腐り切ったダメな政治家、官僚、財界人たちからお守りする。まさに保護するというものでした。そして、国の形を変え(社会主義国)、再び天皇を頂点とする国家社会主義の国を樹立しようという、未だ世界に類を見ないものでした。そう、だから社会主義革命だと私は言うわけです。結果的には、未遂に終わり、彼等のやった事は失敗するわけですが、個人的にはそれで本当に良かったと思っています。何故なら、これがもし成功し、その後太平洋戦争(大東亜戦争)に突入し、敗戦した場合、この場合は天皇陛下は間違い無く東京裁判にかけられ、死刑判決が出される可能性が高かったからです。二千数百続いた日本の皇室が終わっていたであろうからです。Part2へ続く…