皆さん、お元気ですか?こんにちわ!コーネリアスです。本日は、前回の続き、上杉鷹山公のお話です。紆余曲折あった末、藩内改革を決断した鷹山公でしたが、その内容というのは…

①大倹約令の実施

先ずはごく当たり前の事ですが、家計が借金まみれなわけですから、節約です。家臣たち全員に節約を強く指示しました。これには当初一部家老たちから反発もあったようですが、これに対し鷹山公は自ら率先してこれを実施する事で自分の本気度を彼等に示す事で対応。不満は鎮まったと言われています。更に江戸藩邸の年間予算をそれまでの約70%の大幅カット。奥女中の数も50名から9名に減らしました。日常の食事は一汁一菜。普段着は木綿としました。

②農業開発

上記の倹約令と同時に行われたのが、農業開発です。鷹山公は、中国の故事に従い藩主自ら田を耕す、いわゆる『籍田の礼』を執り行いました。こうする事で、藩内に農業の尊さを改めて示しました。これ以後は、家臣たちも刀を鍬に持ち替えて農作業に邁進しました。またこの時同時に、荒地開発や堤防修築も行ったとの事です。因みにこの『刀を鍬』に持ち替えるというのは、素敵な事だと思います。というのも、これと全く同じ事が旧約聖書、イザヤ書にあるからです。そしてその御言葉は、今でもニューヨークの国連本部の壁に記されています。かの有名な『イザヤ・ウォール』です…

※イザヤ書2章4節

主は国々のあいだを裁き、多くの民に判決を下す。彼等はその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

国連本部にある、イザヤ・ウォール

 

③産業振興

節約ばかりでは、借金は減りません。借金を減らすには、計画的返済が絶対です。そこで鷹山公は、藩内の収入増を目的に、いわゆる産業振興策を打ち出しました。そこで米沢藩の主要産業と位置付けられたのが、絹織物産業です。元々米沢では、機織りが盛んであった為、桑の栽培、養蚕を奨励し、絹織物事業をスタートしました。この時同時に、製塩事業、製紙事業、製陶事業も立ち上げ、藩の収入増を図りました。

④教育振興&人材育成

鷹山公は、教育を非常に重要視していました。教育は国を治める為の基本中の基本。何を置いても、有能な人材を育成する事、これが第一と考えていた為でした。そうした事もあり、藩内に『興譲館』という藩校を新たに創設しました。この学校では、現実の政治や経済に役立ついわゆる『実学』をそのベースとしていたようです。家臣たちの子弟から有能な者20名を選抜して、藩校に入れて教育していたとの事です。

⑤危機管理対策→天明の大飢饉での対応

鷹山公が在任中の天明3年〜4年にかけて、いわゆる『天明の大飢饉』と呼ばれる凶作が発生しました。当然ながら米沢藩にも影響が出ました。米一俵の値段が通常の5倍近くも跳ね上がりました。この時鷹山公は、近隣の越後、酒田から緊急米として、米1万俵を買い上げ、藩内の領民たちに分け与えたそうです。この政策のお陰で、大飢饉にも拘らず、米沢藩では、一人の餓死者も出さずに済んだのだそうです。

⑥『伝国の辞』の作成

鷹山公は、35歳の若さで藩主の座を養子の上杉治広に譲りました。この時に、次代藩主に君主としての心得を記した『伝国の辞』という書を次期藩主の治広に残しています。以下のようなものです。

※『伝国の辞』

一、国家は先祖より子孫に伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候

  国(藩)というのは、先祖から子孫に伝えられるものであり、藩主の私物ではない。

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候

  領民は、国(藩)に属しているのであり、藩主の私物ではない。

一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

  国(藩)・領民のために存在、行動するのが君主(藩主)であり、国(藩)や領民が君主のために存在・行動し 

  ているわけではない。

 

●鷹山公が残した名句(この句も、次代藩主治広に伝えられたものです。)

『なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり』

 私はこの句を初めて見た時、ある戦国大名を思い浮かべました。そう武田信玄です。実は、この鷹山公の句は、武田信玄が詠んだ句を参考にしてというか、真似て作られたものなのだそうです。もしかしたら、鷹山公も私コーネリアス同様信玄ファンだったのかもしれませんね。武田信玄の句は以下の通りです…

『為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなさ』

 

とまあ、ちょっとその功績を書き出すだけでこんなに沢山ある方なのです。この他にも脳に障害があったと言われる正室との美談とか、老婆との美談とか色々あるんですが、書き切れませんね。兎にも角にも、ある種神的ないわゆる『パーフェクトヒューマン』ですわ、この方。弱点というか、悪い所が全く見当たりません。きっと、ケネディ大統領もこんな鷹山公に一種憧れというか、人種も時代も違えど、同じ政治家として感ずるものがあったんじゃないかと思います。そういえば、ケネディ大統領の長女で駐日大使も務めたキャロライン・ケネディさんが以前語っていましたが、ケネディ大統領は、大の親日家だったのだそうです。日米戦争中は、米海軍軍人として日本と戦って、死にかけた経験があったにも拘らずです。そしてこれもキャロラインさんが言ってましたが、ケネディ大統領は一度でいいから是非日本へ行きたいとも言っていたのだそうです。きっと尊敬する上杉鷹山公の過ごされた米沢に行きたかったのではないでしょうか?ですが、別の意味でこれは叶えられました。彼はダラスで非業の死を遂げ、夢は叶いませんでしたが、娘のキャロラインさんが大使時代に米沢を訪問したからです。パパが叶えられなかった夢を娘が叶えたわけですね。何と美しい家族愛なのでしょうか…