こんにちわ。皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです。今回は、JFKこと、ケネディ元アメリカ大統領🇺🇸が尊敬していた、ある日本人についての話をしてみたいと思います。JFK、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディと言うのが彼の正式なお名前ですね。彼は、アメリカ合衆国第35代大統領でした。1960年に当時43歳という若さでアメリカの大統領選に勝利。大国のリーダーとなった人でした。残念ながら、テキサス州ダラス遊説時のパレード中に暗殺されるという悲運の大統領でもありましたが…享年46歳でした。

当時米国のカリスマ的リーダーだった故ケネディ大統領

 

 さて、このケネディ大統領には、こんな逸話が残っています。結構有名な話なので、ご存知の方も多いかもしれませんね。彼がアメリカ大統領に就任した直後、日本の記者団の取材に応じているのですが、その際記者団から、『日本の政治家の中に、貴方が尊敬する人は居ますか?』との質問に彼はこう答えたそうです…『ええ、居ますよ。上杉鷹山です。私は彼を心から尊敬しています。』この時日本の記者たちは全員一様にキョトンとしたそうです。『ウエスギ ヨウザン…誰それ…』こんな感じだったそうです。歴史マニアの方、戦国時代に詳しい方ならウエスギと言えば、上杉謙信、その後を継いだ上杉景勝という名が浮かぶとは思います。では、上杉鷹山とは?そして何より何故アメリカ人であったケネディ大統領が、この人の事を知っているのかです。

 

 

 

著者の内村鑑三氏。熱心なクリスチャンでもありました。

 

 で、どうやらその真相はある一冊の本の影響だそうです。ケネディ大統領が以前読んだ本の中に、明治時代に内村鑑三によって著された『代表的日本人』という本あって、その中でこの上杉鷹山が紹介されていたとの事なのです。因みに、この本、全文英語で書かれた本です。内村鑑三としては、未だ当時(明治時代)国際的にも知名度がいまいちだった我が国の事を海外に紹介したかったんでしょうね。で、我が日本には過去にこんな立派な人がいたんですよ外国の皆さん、というような内容になっているようです。いわば、内村鑑三推しの『日本を代表する5人の偉人たち』という本です。この本、残念ながら僕も未だ読んだ事はないのですが、本屋さんでチラッと触りだけ見ましたが、5人の日本人が紹介されていて、上杉鷹山以外は、西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の4人です。ご存知の方も居られるかもしれませんが、この著者の内村鑑三という人は、クリスチャンで、現在の北海道大学(札幌農学校)卒業。教育者、キリスト教の伝道活動者としても活躍した人です。大学の同期に世界的名著、『武士道』を著した新渡戸稲造氏がおり、永らく友人関係にあったようです。ケネディ大統領は、自分が政治家であるという事から、上杉鷹山に興味が湧き、彼のやった事を読み深い感銘を受けたのだそうです。では、その肝心の上杉鷹山とは、一体どのような人だったのでしょう

名君上杉鷹山公…地元では大河ドラマに推す声もあるのだとか。

 

 上杉鷹山は、本名上杉治憲(ハルノリ)と言います。江戸時代中期の米沢藩第9代目の大名だった人です。元々は九州日向国の高鍋藩という小さな国の藩主の次男坊でした。なので、そもそもは、九州宮崎出身の人です。当時の名前は、秋月治憲でした。高鍋藩は、秋月氏が治めていたんでですね。この秋月氏という一族は、元々は筑前国朝倉(現福岡県朝倉市)に出自を持つ一族でしたが、江戸時代になり日向国高鍋藩の大名になっていました。で、この人の母方のお婆ちゃんが、上杉家出身の人だったようで、そうした縁から10歳で上杉家に養子として入る事になったようです。ここで、改名して上杉治憲と名乗るようになります。因みに鷹山というのは、彼が米沢藩主隠居後のいわゆる号です。それでは、先ずは彼の人物像を記したいと思います。

★上杉鷹山公の人物像

①体は生まれ付き頑丈な人だったそうです。

②愛煙家だったようです。但しお酒はあまり嗜まなかったようです。

③飾り立てるような人では無く、慎ましやかで、倹約家であったようです。また、食事に関してもいわゆる一汁一菜を基本としていたそうです。

④意志の強い人であったようです。

⑤自分の恩師である、細井平洲(尾張国)という人を終生尊敬していたそうです。

⑥孝行者、敬老者であったようです。

⑦公明正大な人だったようです。仮に相手が百姓であろうと、また女子供であろうとも、分け隔てするような人ではなかったそうです。

⑨自他共に厳しい面を持つ一方で、非常に優しい一面も持ち合わせた人だったようです。

⑩祖母(上杉家出身)の言によると、幼少期から人格的に優れ且つ大変賢かったそうです。この事が後々男子が居なかった当時の上杉家養子の決め手となる。

 

 他にも多々あるのですが、主だってところは上記の如きものでした。まあ、こうして見るとやはり、『名君』としての資質は充分に持ち合わせていた方のようです。次に彼が成した事についてフォーカスしてみたいと思います。

 

★上杉鷹山公が成した事

→当時危機的財政状況にあった、米沢藩の再建に成功!

 彼が最も評価されている事は、上記の件につきると思います。そもそも、上杉家についてですが、この『家』は日本の中でも名門の家柄です。最初に世に登場するのは鎌倉時代です。鎌倉幕府第6代将軍というのは、皇族の宗尊親王であったのですが、この方が鎌倉へ下向される時に武家となり上杉を名乗り随行したのが始まりです。後に室町時代に入り、足利将軍から関東管領職を任じられています。これは、当時東国に睨みを効かせていた鎌倉府長官、鎌倉公方のいわゆる補佐役です。で、上杉家はこの職を以後世襲する形で引き継いで行きました。その後戦国時代に入り、生涯戦で負けた事の無いと言われた、まさに戦国時代の軍神上杉謙信が登場、更にその後継ぎ上杉景勝は、豊臣政権時で五大老に就任しています。この時点で景勝は、会津120万石の大大名でした。そして江戸時代に入り、米沢藩を納める事となったのです。こうした華々しい一族の歴史を有する超名門の家柄なわけです。でもね、皮肉な事ですが米沢藩の財政悪化の一因に、この『名門家のプライド』がありました。

 上杉家は、豊臣政権時は秀吉から高く評価された為、会津120万石でしたが、徳川政権になった途端、いきなり国替えさせられます。会津→米沢へ変えさせられ、石高もそれまでの120万石から一気に30万石に大幅削減されました。仕方ないですね、当主の景勝はそれまで家康とも色々ありましたから…で、当時の上杉家の家臣団は、総勢6000名。今風な考えで行けばここは、本来リストラせざるを得ない状況でした。がしかし、初代当主の景勝は、これをやらず、家臣たちを大切に守ったのでした。その後時代が過ぎ、江戸時代中期に至っても、歴代藩主たちは、家臣たちをリストラする事はありませんでした。これは偏に初代藩主景勝の強い意向があったようです。『家康め、悔しいがこうなれば意地でもリストラなんかするものか!わしに命を捧げてくれている可愛い部下たちを簡単に切り捨ててなるものか!それこそ義に反する!』と、こんな感じだったのではないでしょうか…ですが、当然ですが30万石に対し6000名は多過ぎます。米沢藩は、必然的に借金をせざるを得なくなりました。で、溜まり溜まったソレは鷹山公が米沢に来た時、現在に換算しておよそ▲200億であったそうです。ハッキリ言って財政的には既にアウト状態です。そういった状況であったにも拘らず、藩内では、いわゆる節約、倹約などは行われず、寧ろ『自分たちは栄えある上杉家である』というプライドから贅沢を慎むような事は全く無い状況だったようです。一族の女性たちや仕える女中たちも煌びやかな着物を着、食べ物も最高級のものを食べ日々暮らしていたようです。勝手な推測ですが、こんな姿を目の当たりにしたある意味『よそ者』、『ゲスト』であった鷹山公の心の内はどんなものだったんでしょうか?こうした状況下で、鷹山公は深く深く考え、藩内改革を決断したのでした。Part②へ続く…