こんにちわ。皆さんご機嫌いかがですか?コーネリアスです。今回は、先日ネットで見かけた興味深い思想、哲学についてお話してみたいと思います。それは、デンマークの神学者、哲学者のセーレン・キュルケゴールという人が著した哲学というか、ある寓話です。
実存主義哲学の創始者だった人…
実は、この人についてはかなり前ですが、二度ほど本blogでも取り上げています。理由は僕が彼の著書『死に至る病』を読んで、共感が持てたからです。ただ、彼の著書を読むのは結構大変で理解するのにちょっと苦労した記憶があります。要するに小難しいわけですよ、内容が…この辺は『20世紀最大の神学者』と言われている、カール・バルトと良く似ています。あの人の本もサッパリ分からない…何が言いたいのかね。特に『教会教義学』ね。あれ、難し過ぎ。あれが本当に理解出来ている牧師先生って本当にいるのかな、なんて思うくらいです。いずれにしても、キュルケゴールは19世紀を代表する偉大な哲学者で、実存主義哲学の祖と言われている人なんです。デンマークの首都コペンハーゲン出身の人です。彼から影響を受けた人としては、フランスの哲学者サルトル、チェコの作家フランツ・カフカ、ドイツの哲学者ビルトゲンシュタイン、スイスの神学者カール・バルト、フランスのノーベル賞作家アルベール・カミュ(因みに、タレントのセイン・カミュさんは、この人の甥っ子です)、他に哲学者としてヤスパース、ハイデガーなんかが居ます。ま、こんな風に後の偉大な人々に影響を与えた凄い人なんですよ。あんまり学校では教わらないけどね…で、この人が野鴨の事について書いたいわゆる『寓話』があるんですが、これがなかなか深い話だったんで、今回読者の皆さんにご紹介してみたいと思います。
★渡り鳥を辞めた野鴨のお話…平和と豊かさについて
デンマークの首都コペンハーゲンは、ジーランドという島の東部にあります。此処は、大きな森と有数の湖沼地帯を抱えることでも有名な所です。湖には、毎年渡り鳥である野鴨が飛来して来ます。およそ1万キロの長旅を労う為、ある時から近所に住む優しい老人が、彼らに餌をたっぷり用意して待つようになりました。勿論、渡り鳥である野鴨たちは、そう簡単には『餌付け』はされませんでした。ですが、何年も何年も美味しい餌を用意してもらっているうちに、野鴨たちは、『此処には、俺たちを襲うハンターも居ない。それにこの優しいお爺さんは、毎年俺たちの為に美味い餌も与えてくれる。何も苦労して次の湖へ飛び立つ必要なんか無いじゃないか。そうだ、このまま此処に居よう。安全で食べ物豊かなこの湖に。』こう考えた野鴨たちは、そのままこの湖の湖畔に住み着いてしまいました。
老人が与えてくれる、美味しい餌を毎日頂きながら、野鴨たちは、長い事『平和にそして豊かに』此処で暮らして行きました。そんなある日の事、老人は重い病に倒れ、何とそのまま帰らぬ人となってしまいました。餌を貰えなくなってしまった野鴨たちは、自力で餌を得る為、次の湖に旅する必要に迫られたわけですが、老人に餌を与えられる日々を過ごす中、本来の『野生』を失っていました。気が付けば、体は太ったアヒルのようになってしまい、羽ばたいても飛べなくなっていました。
するとそこへ、近くの山から雪溶けの春の激流が流れ込んで来ました。多くの鳥たちは、素早く反応し軽々と宙に舞い難を逃れました。しかし野鴨たちは、宙に舞う事も出来ず、また、たいそう太っていた為、素早く逃げ去る事も出来ずに皆呆気なく激流に飲み込まれてしまいました…
元々、野生の野鴨たちは強く逞しい存在だった。
老人の善意が仇となり、野生を失い、弱体化してしまった。
なかなか深い話だと思います。勿論ですが、この老人は悪くはないと思います。彼は、全くの善意から野鴨たちに食べ物を与えただけ、いや寧ろ彼等にある種愛情すら抱いていた事と思います。もし野鴨たちが、この老人の善意に甘え続ける事無く、渡り鳥としてのいわゆる『アイデンティティ』を放棄しなかったならば、結果は変わっていたと言えるでしょう。ですが、難しいですね。やっぱり楽は良いからね。つい甘えちゃうんだよね。ところで、肝心の作者のキュルケゴールは、ここで何が言いたかったのか?彼が言いたかった事は、『何となく毎日ダラダラ生きる』事への警鐘だったようです。彼に言わせると、『人生というのは誰もがたった一度きり。なので、その貴重な人生を、(楽だから)日々何となくダラダラ生きるのは、神の御旨に反しており罪である。人は常に毎日を精一杯全力で生きるべきだ!』という事だそうです。彼は、とても敬虔なクリスチャン(プロテスタント)でもありました。確かに彼の主張は正しいと言えます。というのも、イエスキリストも福音書でそう言っておられるからです。
★マタイによる福音書6章34節
『だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。』
でね、皆さん、この点についてはとても有名な教えなのでクリスチャンなら誰でも知っている事なんですが、実は聖書以外のもの、それもこの日本発のある書でも全く同じ事を教えているものがあるんです。それが、江戸時代に著された『葉隠』なんです。いわゆる武士道哲学ね。この中で、著者の山本常朝(佐賀鍋島藩)は全く同じ事を言っています。武士たる者日々全力で生きろ、とね。これがかの有名な『武士道とは死ぬことと見つけたり』です。このフレーズの本来の意味は、『武士であれば、何事にも死んだ気になって精一杯全力で取り組め!』なんです。つまり額面通りただ『死ぬ』事じゃないんです。本意はその逆。しっかりと『生きて』やるべき事を『死んだ気になって』やれなんです。言い換えると、しっかりと自分の成すべき責任を果たせと言っているように思えます。 Part②へ続く