こんにちわ。皆さんお元気ですか?コーネリアスです。今回は、以前も取り上げましたが、再度北条泰時について取り上げてみたいと思います。以前のblogでは、彼の作成した法典御成敗式目について語りましたが、今回は彼の人となり、人物像について語ってみようと思います。というのも、彼の事を調べていたら、結構あったんですよ、いわゆる美談がね。で、良い話なので是非読者の皆さんと共有出来ればと思い、ご紹介する事としました。前回blogの続編的なものになりますが、宜しかったらお付き合い下さい。

鎌倉幕府第三代執権 北条泰時。実は大変な名君でした。

 

 実は、正直言うと前回のblogでご紹介したかったのですが、それをやるとなるとblogがやたらと長〜くなってしまいそうだったので、今回のように別バージョンとさせて頂きました。ここでご紹介する話は、鎌倉時代に書かれた書、『沙石集』という書からの引用です。ここに彼に纏わる数々の美談話があるのですが、今回その中から厳選して2つ皆さんにご紹介したいと思います。いずれも彼の人物像を象徴しているエピソードです。

 

●エピソード①

九州に忠勤の若い武士が居りました。彼の家は大変困窮していて父親は、やむなくその所領を他人に売り払う決断をします。その後、若い忠勤の武士は、父が手放した所領を色々と苦心しながらも買い戻し、元の所有者である父に返します。普通こんな孝行息子なら、父親であれば感激し、お礼に全部とはいかないまでも、いかばかりか与えてくれてやるというものと思うのですが、この父親どうした事か返して貰った土地を全て若い武士の弟に与えてしまいました。この時兄である若い武士は、何も与えられませんでした。これがきっかけとなり、兄弟間で争論が起こります。そしてこの件は、やがて泰時の元で裁判となったのでした。

 さて、事情を聞いた立会人(裁判官)である泰時は、この時この兄をとても不憫に思い、心の中で『この兄をどうにか勝たせてあげたいものだ』と考えていました。しかし、弟は父親との間で正式な手続きを経て土地を相続しており、これを御成敗式目に照らして諮ったところ、弟の主張の方がいわゆる『道理』に叶っていた為、泰時は兄に深い同情は抱きつつも、弟の方に勝訴の判決を下しました。しかしながら、個人的に兄に同情し、不憫に思った泰時は、その後この兄に目をかけて衣食の世話をしてやりました。この兄はその後ある女性と結婚するのですが、その暮らしは大変貧しいものでした。

 そんなある時、九州に領主の欠けた所領が見つかったので、泰時は早速これを兄に与えました。この時兄は泰時に深く感謝した後こう述べました…『この2、3年は妻に貧しく、わびしい思いばかりさせてしまいましたので、私は妻が不憫でなりません…拝領地に赴きましたら、妻にたっぷりと美味しいものを食べさせ、しっかりと労わってやりたいと思っております。』

 この言葉を聞いた泰時は、『立身すると、苦しい時も共に寄り添ってくれた妻という存在を忘れてしまう人が多いのが世の中だというのに、其方は何と立派な心掛けをされている事か…うむ、其方は立派じゃ!天晴れじゃ!』と彼の言葉に感激し、九州赴任時に彼等の旅用の馬、鞍の手配もしてやったのだそうです。

 

 泰時が情に厚く、思いやりのある人である事が垣間見れる一方で、ルール重視で、遵法精神の高い人である事も窺えます。事件は事件として法により厳正に対処し、それ以外の人間的部分、感情の部分は義理人情厚く相手と接していますね。変な例えだけど、とても日本人的な人だと思うなあ…

 

●エピソード②

とある地頭と領家が争論となり、裁判として泰時が立ち会う事となりました。この時、領家の言い分いわゆる冒頭陳述を改めてじっくりと聴いた相手の地頭は、直ちに『私が負けました!申し訳御座いませんでした!』と言い、その場で自分の間違いを認めたのだそうです。この時泰時は、こう言ったのだそうです…

『うむ。見事な負けっぷりだ。最近は明らかな敗訴であっても、言い訳をする者が多い中で、自分で敗訴を認めた貴殿は実に立派で正直な人だ!わしも執権として長い間色々な裁判をやってきたが、こんなに嬉しいというか、清々しい裁判は初めてだ!』と言って、涙ぐんで感動したのだそうです。

 

 おそらくは、泰時は長い間いわゆる裁判官として色々な揉め事、事件を通して人間の汚さ、心の醜さ、嘘、そう言った『人間の負の部分』を嫌と言うほど目の当たりにして来たんだと思います。そしてもしかしたら、ある種人間に絶望に近いようなものを感じていたのかもしれないと思うのです。そんな中で、実に正直な人、素直な人に遭遇し、泰時の心の中に忘れかけていた『人に対する希望』が再び去来して来たのではないでしょうか?更にこの地頭さん、素直で正直者なだけで無く、とても勇気もある人だと僕は思います。今でもそうじゃないですかね。他人に自分の非を認め『御免なさい』って言う事は結構勇気要ると思いますよ。皆さんもそう思いませんか?

 

 他にもこの『沙石集』と言う書には、泰時像について、『彼は誠の賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとし、あたかも万人の父母のような人である。』と記して激賞しています。また、仕事に関しても、誠実にこなすその姿を見て、武士たちのみならず、公家や一般民衆からも大きな信頼を得、その評判も大変良かったのだそうです。でもね、考えてみれば豪胆で権力欲の深い祖父時政、権謀術数に長け、非常に強か者だった父義時からどうしてこんなにも真逆の人が出て来たんでしょうかね?全く持って『瓢箪から駒』、『トンビが鷹を産んだ』的な話ですよ…もしかしたら、祖父、父は泰時の壮大な規模での反面教師的存在だったかもしれません。『俺は絶対あんな風にはなりたくない!』といったね…また、もしかしたら、彼の人生の中で誰かとても良い人との出会いがあったのかもしれません。例えば、身の廻りの評定衆の中とか、鎌倉は鎌倉五山というくらい、当時は仏教、特に禅宗が大変栄え、有名な寺院も数多くあったでしょうから、何処かの高僧とご縁があり、教えを乞うていたかもしれません。可能性としては否定出来ませんね。この辺は今後も継続して調べてみたいと思っています。いずれにしても、北条泰時という人は、かような人物で、いわゆる『日本の名君』として、5本の指に入れて良いと思いますね、個人的には…祖父、父が力で世を治めた後、泰時は知恵と人徳を用いて世を治めたという点では、何か古代イスラエル王国のダビデ王とその子ソロモン王の姿を見ているような気にもなります。戦上手だったダビデ王は、力で領土を拡大し、息子のソロモン王は父が大きくした国土を知恵で持って安定統治して行きましたからね。ちょっとだけ似てるようにも思えます。

 最後に、これは余談になりますが、日本の幕府の歴史を見ていると三代目にその幕府政権のキーマンが居るように思えます。鎌倉幕府なら、この北条泰時、室町幕府であれば、足利義満。この義満については悪い事も沢山やっている人なんですが、明(中国)との勘合貿易を拡大させ国益を富ませ国家財成安定化を図り、また、南北朝統一にも成功。国家運営の安定化に成功しています。また、江戸幕府であれば、徳川家康の孫徳川家光。彼の代に新たなる武士のルール、武家諸法度を制定。遵守の徹底化を図っています。また彼の代に九州で起きた島原の乱を最後に国内での武力紛争は終わりを告げ、徳川250年の長期安定政権の基礎固めに成功しています。日本の諺で、『売り家と 唐様で書く 三代目』という諺があります。これは、創業者、二代目が頑張って隆盛を極めても、大体世の中は三代目が散財し、潰して行くものだ…と言ったもの。繁栄は三代も続かないと言うものですが、逆に言うと、三代目がとてもしっかりした人、やり手であれば、繁栄は長続きする。長期政権も可能であると言う事になりそうですね。