こんにちわ。皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです。此処福岡では、桜も開花し、本格的に春到来となりました。僕は春夏笑冬の中で、春が最も好きなので個人的には嬉しい限りです。基本的に南国育ちのせいか、寒いのが大の苦手なので…それになんと言っても春は桜🌸。桜の花を眺めていると日常での嫌な事なんかも一気に吹っ飛びます。忘れる事が出来るんですよ、僕はね。ホント、僕にとって桜はいわゆる『心のサプリメント』みたいなものです。

桜は日本の美の象徴。心癒されますね。

 

 さて今回は、『神様からのメッセージ』と題して、神様が我々人間たちに伝えようとなさっている事についてお話したいと思います。人に『何か』を伝えたい時どうするか?通常言葉を使いますね。我々はそれを視覚的に文字として読んだり、聴覚的に音として聴いたりする事で、その内容を理解するものです。なので、一般にはどんな宗教にも聖典、経典といったものが存在するわけですね。キリスト教なら聖書だし、仏教ならお経、イスラームならコーランとかね。あっ、仏教の場合は仏か。神じゃないよね。ま、ここでは『神=人と属性の異なる超絶的存在で、全知全能なる存在』という前提で、厳密には神では無いですが、神≒仏として考えましょう。

神様からメッセージがあったら…

 

 で、僕はクリスチャン(プロテスタント)なので、その視座から言うとですね、キリスト教というのは、まことに『言葉の宗教』ですね。これ別の言い方すると『啓示宗教』とも言われています。どういう事かというと、神様が我々人間に『こうあって欲しい。こうして欲しいな。』と思われている事を教えた宗教、それを言葉で伝えている宗教。ザックリ言うとこういう事です。なので、聖書を読むと彼方此方に天の父なる神様の御言葉が散りばめられています。勿論主イエスの御言葉も同様です。イエスキリスト=神の独り子ですからね。だからね、大変なんですよ。こんなに沢山神様から御言葉が、メッセージが伝えられて、送られているわけじゃないですか?これをね、読んで、ちゃんと理解して、日々の生活に活かす、これ結構大変です。何が大変か?先ず書いてある神様からの言葉を正しく理解する事、これが大変。まあ、その為に毎日曜日教会に行ってるわけですけどね…一つ間違い無く言い切れる事があります。これ、一生かけても終わりません…つまり死ぬ直前まで僕はいわゆる『神様大学』の卒業証書は貰えそうにないという事です。教会に通うという事はそういう事かもしれませんんね。僕は、生涯『神様大学』の学生のままという事。ここでね、ホント色んな事が教えられているんですけど、旧約なんかも入れるともう大変で、『ああしろ!こうしないか!何やってんの!』みたいにね。でも、よ〜く読むとね、見えて来るものがあるんですよ。それがいわゆる『神への信仰』というもの。

 読者の皆さんもご経験ないですか?まだ小さな子供の頃、お父さんやお母さんに子供ながらに語った時の事。『お父ちゃん、抱っこ…』、『パパ、遊ぼう!』なんて言って親に語りかけた事。まさにあれですよ。子供が我々人間で、親が神。で、この親子間に存在するものが『信頼関係』。これまさに本能的なものですよね。生来的なもの、生まれながらにして我々に備わっているもの。きっと神が我々を、最初の人類を創る時にDNAの中に組み込まれたもののように思います。つまり、

★信仰とは→親子間に存在する信頼関係を神と人間の間に置き換えたもの

と言ってよいかと思います。ザックリと簡単に言うとね。それを大人になってもやり続けているのがもしかすると、クリスチャンなのかもしれません。クリスチャンの立場でこんな事言うのもなんですが、ちょっと言うとあれと似てますよ、『頑固親父とその息子、娘』の関係と。僕の親父も頑固親父でしたからわかりますが、子供の頃よくこう思ったものです…『なんかよく分からないけど、親父がああ言うからな…そうなんだろうな…じゃ言うこと聞いとくか…』なんてね。ここにも根底に信頼関係というものがあるからこうなるんだと思います。

 信仰というのは、自信や信念とは全然違います。自信や信念というものは、自身の経験から来るものです。でも、信仰はそうじゃありません。これを聖書的に説明しますと、『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』(ヘブライ人への手紙11章1節) つまりは、ここには知識、経験、論理などは必要ないわけです。必要なのは『信じる力』、信頼関係です。で、人間信頼関係があると、少々な事があっても乗り越えられるんじゃないでしょうか?だって、一人じゃ無く二人いるんですからね。これが三人、四人ともなれば尚更でしょう。人間は孤独に弱いですが、他者と信頼関係が築ければ、そこに『希望』が湧いて来る筈です。きっとね。僕はここに信仰の醍醐味があると信じています。

 それともう一つ。これは最近特に思う事なんですが、神様は我々に『言葉』を使って、我々の意識の世界、脳の世界、心の世界に働きかけて何かを伝えようとするのみならず、何かを感じさせてメッセージを送ろうとされているようにも感じます。第六感じゃないですが、何かそんなもんです。いわゆる『感じ取る』という力とでもいうか…ここには、今度は言葉は必要ありません。自分の心、魂がそれをどう『感じる』か、という事です。最も良い例が自然と向き合った時です。皆さんもご経験ないですか?何となく心が澄み渡った気持ちになったりとか?心が清められるような気分になったりとか?僕は、勝手にですが、自然の中にはいわゆる、『神の指紋』が付いていと思っています。我々の目には見えないけどね。それですから、そういう気分になったり、体調が良くなったりとかあるんじゃないかとね。だってこの大自然もそもそもは神がお造りになったわけだから…我々人間同様にです。なので、自然の中には、我々を良くする為の『神の秘薬』があるのではと思う次第です。こうした事を感じ取るというか、いわゆる『心の感性』を磨く事も今のような時代必要かもなと最近思います。そう、自然と向き合うという事は、ある意味神と向き合っているのかもしれない…そうやって、論理整合性では無い世界を垣間見る事もたまにはやらないと、いずれ人間は自分たちが創り出した論理整合性の世界に呑み込まれて溺れてしまうかもなんて考える今日この頃です…そう言えば、聖書にこういう教えがあったのを思い出しました…

★神からの呼び掛けがあったなら、必ず応えなければならない。無視してはならない。これを無視したのが、かのアダムであり、この神の呼び掛けに真摯に応えたのがアブラハムであった。よって神はアダムには試練をお与えになり、アブラハムは祝福なさった。