始めに
これは平安時代の末期から、鎌倉時代初期の同時代に、京の都と近江(滋賀)を、少年期青年期を怒濤のように駆け抜け、奥州平泉で若くして悲運に散った二人の清和源氏(河内源氏)の武将、源義経の物語である。
清和源氏とは、第五十六代清和天皇の皇子のうちの四人と、孫の王のうちの十二人が臣籍降下し、天皇家を護る武士として、領地を与えられ源を名乗る事を許された一族とその子孫達の事だ。
因みに源氏には清和天皇を祖とした清和源氏の他に、嵯峨天皇を祖とした嵯峨源氏、宇多天皇を祖とした宇多源氏、村上天皇を祖とした村上源氏などの一族が存在する。
源義経を名乗る1人目は、後世にその名を語り継がれている清和源氏源為義の嫡流、源氏七代目頭領源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)の腹違いの弟、誰もが知っている悲劇の英雄、源九郎判官義経である。
絶世の美女常盤御前と、凛々しく逞しい部将源義朝を両親に持つ源義経は、美形で爽やかな武将だったと云われている。
もう1人の源義経は、清和源氏源義光(新羅三郎義定)の長男で、戦国時代の雄、佐竹氏の祖となる源義業の次男だ。
どちらの義経も由緒正しい源氏の系譜で、一時期同じ源義経を名乗っていて紛らわしいので、ここでは近江国(滋賀県)山本山城主の源義経を山本義経と呼ぶ事にする。
源義経の幼名牛若丸は、京の五条大橋での巨躯の荒法師武蔵坊弁慶との大立ち回りが童話童謡では有名で、牛若丸に敗れた弁慶は、その時に源義経の家来になったとされているが、歴史書には義経の元服時にも、義経の最初の奥州藤原への逃避行と、奥州藤原家での修行時代にも、義経の從者としての弁慶の名は無い。
また源義朝の三男で、腹違いの兄の源頼朝が、冨士川の戦で平維盛に勝利した翌日、義経は奥州から駆けつけているのだが、その時の伊勢三郎義盛や佐藤継信、忠信兄弟など十数騎の義経の從者の中にも、武蔵坊弁慶の名前を記した記述は無く、頼朝、範頼、全成、義丹、義経兄弟の感動の会見以後、粟津での木曾義仲との戦にも弁慶の名の記載は無い。
因みに源義経が牛若丸と呼ばれていたのは七歳迄で、当時五条の大橋は、平家の頭領平清盛の一族が、都へ侵入して来る軍勢を防ぐ為に、清盛によって破壊され、五条大橋の有った辺りの鴨川の都側の岸は清盛に依って平家の武士の詰め所にされていて、大橋は改築されてはおらず、牛若丸と弁慶が五条大橋の上で対決したと云う伝説は、後世の人の作り話か、或いは二人の法輪寺橋での決闘が間違って伝えられたものだろう。
中臣鎌足の子孫の貴族藤原摂関家が、皇室に嫁入りする姫達の為に美女の召使いを付けようと、都中の美女を集めた事が有り、常盤御前はその美女の中でもとびっきりの美女で、一目ぼれした源氏の頭領源義朝が請うて側室にし、三人の男児を設けた。
その一人が、義朝の末っ子九番目の男児牛若丸で、後の源義経である。
源義朝が平治の乱で敗れ、関東から呼び寄せた義朝の後継者の長男悪源太義平も戦死し、義朝自身も敗走中に裏切りに遭って死亡し、義朝の次男で重傷を負っていた朝長も敗走中に死亡して、十四歳の三男頼朝は平清盛に捕縛され、伊豆に流されていて、日本の政治の執権は藤原氏から平清盛に移っていった。
平氏、平家と呼ばれ、平を名乗る武家は桓武天皇を祖としていて、現代の皇室も桓武天皇を祖としている。
常盤御前は母親の命を救う為に、三人の子供と共に六波羅に自首し、常盤御前の美貌に惹かれた平清盛は、三人の子の命を保証する代わりに側室となる事を常盤御前に承知させ、今若丸八歳、乙若丸六歳の二人の子は直ぐ様出家させたが、末っ子の九男牛若丸は乳幼児で有ったが為に母子供に清盛が養い、牛若丸が七歳になると母親から引き離し、鞍馬寺に預けて遮那王と名乗らせ僧侶への修行をさせていた。
清盛は常盤御前に女子を1人産ませた後、貴族一条長成に下げ渡し、常盤御前は長成の子も幾人か産んでいるそうだが、一条大蔵卿長成の跡を継いだ一条藤原能成が異例の早い出世をしている事から、能成は清盛の子ではないかとも言われている。
後世、頼朝と義経の肖像画が世に出ていて、頼朝は涼し気な顔に描かれているが、義経は出っ歯にあばた面に描かれている。
頼朝は天下人、兄弟とはいえ、義経は天下の謀叛人として三十一歳で討伐されたのであるから当然なのかもしれないが、しかし二人共に、凛々しい顔立ちで女官達に人気のあった源義朝の子で有る。
しかも義経は絶世の美女常盤御前が産んだ子である。
醜い顔立ちをしていた筈はないのだ。
余談になったが、源義経(遮那王)と武蔵坊弁慶と名乗る荒法師の決闘は、あとにも先にも京の嵐山の法輪寺橋(渡月橋)以外には無いのである。
(一)
この物語は、遮那王(牛若丸)と弁慶と名乗る巨躯の荒法師の、京は嵐山の法輪寺橋(渡月橋)での決闘から遡る事一年近く前、京の都への入口の近江(滋賀県)の鳰の湖(琵琶湖)沿岸の漁村から始まる。
比叡山延暦寺の僧や僧兵が、山から下リては、近江の民家で連日乱暴狼藉を働いていた頃の事だ。
比叡山の麓に集落が在り、半農半漁の暮らしではあったが、当時は延暦寺の参詣客を目当ての食事処や宿屋も立ち並び、村には活気があったそうだ。
その集落から延暦寺に至る参道に、数名の僧侶と僧兵達が、二人の武士と対峙していた。
木々の葉が色付き始めた頃の、夕暮れ時であったと云う。
二人の武士はともに屈強な体格で、一人は並外れた巨躯の持ち主であったそうだ。
その大男の武士は出っ歯で赤ら顔、お世辞にも美しい顔立ちとはいえず、睨みつけられた者を震えあがらせずにはおかない鋭い両眼は、対峙する比叡山延暦寺の僧兵達の力量を計るかに、次々と七人を視野に捕えてギラリと光り、最後の一人の、自身と同じ位に抜きん出た体格の荒法師とはしばらく睨み合っていたが、
(僧兵にして置くには惜しい豪の者もいるようだな。此奴こそ悪名高き武蔵坊弁慶であろう。それにしても誰一人として酒を飲んでいる気配が無い。さてはまんまと誘き出されたか、、、)
と大男の武士は呟き、もう一人の武士になにやら小声で命令した。
命令された武士は大きく頷くと身を翻し、追ってきた僧兵を尻目に、あっと云う間に熊笹を掻き分け竹林の中に姿を消し、大男の武士が追っ手の前に立ち塞がった。
多勢に無勢の状況下で、武士たる者が主人一人を残してその場を離れるなど、残された主人の武勇を信じていなければ、幾ら主人の指示であったとしても出来るものでは無い。
大男と云うなら、六人の僧兵の中にも一人、巨躯で大薙刀を携えた厳つい荒法師がいた。
大男の武士が看破したように、その荒法師は、何千人存在するかも定かでは無い比叡山延暦寺の僧兵の中でも、その悪名が鳴り響いていた武蔵坊弁慶であった。
当時の社寺は、皇位を引退なさった方々や病弱で皇位に就けなかった皇子や弟君達の隠遁場所にもなっていて、寺院の高僧と言われる方々も、政争に敗れ頭を丸めて出家した貴族や武士が殆どだったようだ。
平安時代の初期まで、日本には死刑という刑罰はなく、謀反人と云う重大な犯罪者で有ってさえも最高罰は島流しであったようだ。
帝(朝廷)は森羅万象の不思議や死者の霊魂を司どる神の子孫であり、怨恨は不吉な森羅万象を起こすと信じられていたからである。
その為、権力争いや、戦に敗れた貴族や武家の頭領たちは、大抵の場合が島流しか高名な寺社で出家し、俗世を離れ、世の平安を祈る事で死罪を免れていたのだ。
大和朝廷が全国各地に跋扈していた豪族達を従え統一したのも、決して武力に依る征圧だけではなかった。
大和朝廷は、地方の豪族や渡来人の子孫の豪族の長やその後継者に、自身の娘や配下の実力者の娘を嫁がせたり、自身の息子を、豪族の後継者の娘の婿養子に出したりして、臣籍降下を繰り返して有力豪族と親戚関係を結ぶ事で、平和的に日本を統一してきていたのである。
それは第二次世界大戦の後、手段や目的こそ異なるが、日本を占領し六年八ヶ月も居座ったアメリカ民主党DS(GHQ)が、日本人の政治家や各界の実力者やその後継者に、日本人とそっくりな朝鮮族の娘を嫁がせたり、戦争で男手を失った旧家や企業の代表者や大店の後継者に、容姿が日本人にそっくりな日本語の話せる朝鮮人の若い男を婿養子に押し込み、日本の朝鮮人に依る代理統治、日本人の混血化を謀った事にも似ている。
公家や武家や寺院はそれぞれ荘園を持ち、そこから税を徴収しており、寺院はその管理を僧兵達に手伝わせていた。
僧兵には武力にすぐれた元武士達が任命されている事もあつたが、実はそのほとんどが元山伏や元山賊や元海賊達で、圧倒的に山伏や荒法師が多かった。
とくに広大な比叡山に多くの宿房を持ち財を溜め込んでいた比叡山延暦寺は、その既得権益と財を山賊や武家から護る為に、畿内の野山に精通している山伏や荒法師を僧兵として召抱えていて、その勢力は、全国にまたがる平家や源氏の勢力には及ばないまでも、畿内では他を圧するものがあったようだ。
「そこもとが悪名高き比叡山の弁慶だな。なるほど噂通りの不埒な面構えをしておる。天下万民の安寧の爲、不憫だが成敗いたす。己達が撒いた種、それがしが、里に下りては悪逆無道を働くそこもと等を刈り取ってくれよう。」
「ガハハハ、いかにも拙僧は武蔵坊弁慶。しかしてお主は名乗れまい。近頃、延暦寺の僧侶、僧兵と知って襲っている者の正体が明らかになれば、延暦寺の僧兵が怒濤の如くにお主等一族を襲う。当然捕り方(検非違使)もだ。おそらく近江源氏のいずれかの者であろうが、八人を相手に一人で、しかもこの武蔵坊弁慶を討つとほざいたその気骨に免じて、勝敗にはかかわらずお主の名は伏せてやる。安心して掛かって来るがよい。」
と弁慶は言い放ち、一歩前に進み出て大薙刀の鞘を払って鞘を腰にねじ込むと、大薙刀を大上段に振り翳しながら、
「我等はみな御仏に仕える者である、里の者に乱暴狼藉や悪逆無道を働いた覚えなど無い。しかしながら何千人といる僧兵の中には不埒な者もいたのではあろうが、だからと申して身に覚えの無い者迄が問答無用で闇討ちされているのを見逃す訳には参らぬ。」
と叫んだ。
とその時、薙刀を構えた五人の僧兵が大男の武士の前に飛び出し、一人が
「武蔵坊殿、こやつ等の為に我等はここ数日無駄骨をおらされ申した。名も名乗れぬような兇賊を相手に、尋常な勝負など無用。皆で包んでナマスにし、里に首を晒しましょうぞ!」
と御仏に仕える者とも思えない血腥い事を叫ぶや否や、大男の武士に斬りかかった。
武士は難なくその薙刀を剛刀で跳ねかえし、返す刀を大上段に構え瞬時に僧兵の頭上に振り下ろした。
だが弁慶をはじめ六人は、延暦寺の何れかの宿房の選り優りの僧兵だったのであろう、僧兵はその剛刀を頭上の、両手で構えた薙刀の柄で見事に受け止めた、かに見えたが、剛刀は薙刀の柄を真っ二つにし僧兵の頭まで切り裂いた。
生臭い血の臭いが参道に流れた。
武士のその僅かな隙を突き、僧兵四人が前後左右から大男の武士に薙刀を打ち下ろす。
四本の薙刀の刃と剛刀の刃が音を立て斬り結んでいる時、 頭を割られた僧兵が、頭から血煙をあげ、樹木が倒れるような音を立てて倒れた。
咄嗟にその血しぶきを避けようとした1人の僧兵の一瞬の隙を巨躯の武士は見逃さず、烈帛の気合いと共にその僧兵の首を剛刀で跳ね飛ばした。
首から上を失った僧兵の身体は、まるで自身の頭を探すかのように、血しぶきをあげながら二、三步蹌踉めき歩いて、腰からその場に崩れ落ちた。
むせ返るような血の臭いが、参道を覆った。
弁慶と二人の僧侶が見守るなか、三人の僧兵と武士との無言の死闘は続く。
どちらも隙を窺い、互いに深くは踏み込め無いのだ。
誘いをかけて勝利に導くほどの余裕は、どちらにも無かった。
僧兵達は目前の化け物じみた強さの巨躯の武士を相手に、自身が先に仕掛ける事は死を意味する事を、二人の仲間の死から学びとっていて、飛び込んではいけず、武士もまた、三人の後ろに控える弁慶の圧力に迂闊には動けずにいた。
連絡に走らせた家来が幾人かを引き連れ戻って来るまでは、刻を稼がねばならなかった。
弁慶を相手にする前に、深い傷を負い、体力を消耗する事は避けねばならなかったのだ。
僧兵達の踏み込みが浅い為に深手ではなかったが、武士は左腕を負傷していて、出血による体力の消耗を懸念してもいた。
そもそも薙刀と刀では、一対一の対等な勝負でも相当に刀が不利で有り、まして尋常ならぬ相手が六人残っているのだから、本来ならば絶望的な状況なのだが、大男の武士の表情には怯えは一切見られなかった。
保元の乱平治の乱と戦闘に次ぐ戦闘で、武士の大きな身体は槍や刀や矢で受けた傷だらけで、皮膚は引き攣り傷口周辺は瘤のように凸凹しているのだったが、ただの武闘派の武士ではなかった。
敵に包囲された場合、その指揮者の首を取る。
それが危機を脱し勝利に導く要諦で有る事は熟知してはいたが、巨躯の武士は弁慶を生け捕りにしたかったようで、三人の内の正面の僧兵に的を絞りジリジリとにじり寄って行く。
正面の僧兵が、戦闘の経験から身につく胆力が三人の中で一番弱いと見抜いての事だったようだ。
木剣を持ちいての稽古と、真剣を持ちいての闘いとは、精神に掛かる負担が全く違うのだ。
しかし武士は、左右の二人の僧兵の姿は目尻の端に置いて自身の間合いには入り込まれ無いように定距離を常に保っており、二人の僧兵は薙刀を打ち下ろす隙を見出す事が出来なかった。
巨躯の武士が正面の僧兵に斬り掛かった時、もしくは正面の僧兵が武士に斬り掛かった時に、武士の体勢が崩れ隙が出来る。
二人の僧兵は阿吽の呼吸でその時を待つと決め、大男の武士との距離を維持している。
それは正面の味方を囮にして、敵を倒すと云う戦略で、その事は標的にされた僧兵にも直ぐに伝わった。
自身が味方から囮にされていると気付いた時から、恐怖がその僧兵を鷲掴みしたようだ。
我夢者羅に斬りかかっても、囮になつて態と隙を作っても、自身が生き残れるとは考えられなかったようで、囮にされた僧兵はスッカリ戦意を喪失し、恐怖で立っているのが精一杯と云う状態に陥ってしまい、巨躯の武士が闘うべき相手は、左右の二人の僧兵に絞られたのだつた。
正面の僧兵は、味方が五人もいて圧倒的に有利である事は自覚していても、たった二振りで、二人の仲間の命を奪った化け物じみた強さの敵から、自分独りが標的にされている事に恐怖し、身体がガチガチに固まり、自身の意思で動ける状況ではなかった。
それを見越したかのように、突然、巨躯の武士は右手の僧兵に向き治り、一歩踏み出した。
すると先程まで武士に標的にされていた僧兵が、甲高い奇妙な声をあげて逃げだしたのである。
危機を脱したと思った瞬間に、凍結していた思考の中で、一番先に危機防衛本能が溶解したのだろう。
僧兵の逃げる姿は、バタバタと滑稽なほど尋常では無かった。
その僧兵の前に、竹林の中に姿を消した筈の武士が、近くの雑林の中から二人の村人風体の男と姿を見せ、立ちはだかった。
一人は槍を一人は刀を携えていて、村人の風体であっても村人などで有る筈が無い。
三人は笹薮から飛び出すと、一瞥で状況を把握し、逃げ出して来た僧兵の逃げ道を塞ぎ、鋭い眼光で僧兵を威嚇した。
僧兵は驚き薙刀を振り回した。
武士の風体をした男が、漁師の風体をした一人に目で合図を送ると、その男はツッーと僧兵との間合いに入り込み、鋭い気合いと共に、いとも容易く僧兵を袈裟斬りに斬り殺してしまった。
正気を失っている相手とはいえ、槍や薙刀を持っ相手に、瞬時に太刀で間合いに入ることなど、誰にでも出来る事では無い。
相当に戦慣れした強者である。
「殿、お待たせ致し申しまいた。ご指示通りに、村でもう一台荷車と莚を調達させ、入山者の足止めに一人残して、全員ここまで駆け登るよう申しつけまいた。」
と戻ってきた男が、大男の武士に小さな声で報告し、刀を構え二人の僧兵と対峙した。
その小さな低い声を、弁慶は聞き逃さず、
「なる程のう、この近辺で殿と呼ばれる大男の豪の者は、近江源氏山本山城の城主源義経殿以外はおられまい。 これはまた大した大物を狩り出したものよ。」
と弁慶は楽しげに吠えた。
弁慶の言葉に、二人の僧侶はピクリと反応を示したが、二人は、互いに小さく目配せをし、金剛棒を身構えて山本義経の前に進み出た。
すると弁慶が
「よされよ。生兵法で敵う相手では無い。」
と一喝、二人の僧侶を推しのけて前に出て、大薙刀を大上段に構え、履いていた下駄を脱ぎ捨てた。
相手も大男とはいえ、太刀の相手に懐を開けるとは、弁慶には余程自信が有ったのか、誘いだったのか、剛刀を中断に構えて対峙していた山本義経は、大男とは思えない素早さで弁慶の間合いに飛び込み、剛刀の峰を弁慶の脇腹から腰を狙って叩きつけるように払った。
すると、弁慶はその義経の攻撃を予測していたかのように、樫で拵えた太くて長い大薙刀柄の先で山本義経の剛刀の峰をガッチリと受け止めたのである。
山本義経の表情に驚きの色が浮かんだのだつたが、それは一瞬のことで、次の瞬間には真正面から額にふりおろされてきた大薙刀の刃を、義経は剛刀の峰で払っていた。
金属と金属のぶつかる神経を逆立てるいやな音がした。
二人の距離が近すぎて、弁慶の怪力が大薙刀に充分に伝わらなかったから、払いのけられたのだろう。
流石に武勇を誇る大男が二人対峙すると、その迫力は尋常なものではなく、敵も味方も我を忘れて二人の戦いに見入っていたが、坂道を荷車を引いて数人の漁師姿の男達が声をあげて坂道を駆け上がって来るのに気づき、パッと四対三に分かれて身構えた。
幾度も幾度も打ち合ったが、山本義経と武蔵坊弁慶の力量は甲乙がつけ難く、勝負はつかなかつた。
山本義経の家来達が駆けつけ、形勢が逆転し、僧侶二人と僧兵二人が斬殺され、傷を負った山本義経の家来達が互いに止血の為の応急手当てを施しあって、足に傷を負った者が一人荷車の上に運び込まれても、二人は激しく斬り結んでいたと云う。
山本城の家来達は、主人山本義経が一対一の勝負でこれ程までに梃子摺る姿を見た事は無く、敵とはいえ、主人義経と互角に闘っている弁慶に 畏敬の念を持った者もいたようだった。
参道には、雑木林の大木が枝を延ばして空を覆っている箇所もあり、次第に、長い大薙刀を振るう弁慶には不利に見えたそうだ。
事実、山本義経は、太い枝が参道の空を覆っている場所や、竹藪から斜めに参道の空に向かって竹が突き出している場所の下へと巧みに身体を移動していた。
しかし弁慶はそんな事には全く頓着する風も無く、枝を真っ二つにした勢いのまま大薙刀の刃を山本義経に迫らせたのだった。
この時山本義経は、上に向けていた剛刀の刃をクルリと下に向けた。
それを見た弁慶はニヤリと満足気な笑みを口元に浮べ、裂帛の気合いを発して、振り被った大薙刀を義経目掛けて振り落とした。
だが弁慶の頭上近くに櫟が枝を伸ばしていて、大薙刀が真っ二つにした枝が斬り込んで来た弁慶の頭上に落下し、弁慶が片手で払いのけようとした瞬間、山本義経の剛刀が枝ごと弁慶の右腕を斬り裂いたのだが、弁慶は怯む様子を見せずに大薙刀を山本義経の頭上に振り下ろしたのだつた。
ガチンガチン、キーンと大薙刀の刃と剛刀の刃が打つかる金属音が木霊し、武蔵坊弁慶の大薙刀の刃先が山本義経の左足を切り裂いた時には、家来衆は山本義経に駆け寄り、弁慶に太刀や槍を向けたのだったが、山本義経から
「大事無い。一対一の尋常の勝負だ、手出しは無用。下がっておれ」
と一括されたのだった。
山本義経は弁慶の強さを見抜き、負ける事はなくても、どちらもかなり負傷するだろうと予想していた。
(こやつ僧兵などをさせて置くには惜しい奴、なんとか大きな傷をつけずに家来にする事は出来ぬものか、、、、)
などと山本義経は思案しながら弁慶と闘っていた為、踏み込みが甘くなっていたようだ。
その隙を突かれて、左足に傷を負ってしまった。
「手加減をして勝てる相手では無い、だが勝たねば家来にはなるまい。まずは勝たねばならん」
と決断し、山本義経は弁慶の間合いの中に飛び込んでいった。
その瞬間、山本義経の負傷している右足の草履が、斬り殺された僧兵の血の塊を踏みつけて滑った。
傷ついている左足はその衝撃に耐えられず、山本義経の巨体を支えきれずに、義経の上半身は大きく前のめりに崩れた。
そこに下駄を脱ぎ捨て、しっかりと大地を掴んだ十本の太く逞しい足の指に支えられた弁慶が、巨体を撓らせ、巨木の幹のような両腕に全ての力を集中させて義経の背中目掛けて大薙刀を振り降ろしたのだった。
(ムオオツッ!)
と山本義経の家来達は悲鳴にも似た声を洩らした。
山本義経と武蔵坊弁慶との決闘から半年、京の都で、平家の武士や公達に勝負を挑み刀を奪っていく巨漢の荒法師が再び連日出現するようになり、数ヶ月というものは腕に覚えの有る平家の武士達が、その荒法師を求め深夜まで都の中を徘徊するようになった。
しかし、武蔵坊弁慶と名乗る荒法師と対峙すると、武士達は皆同様に、荒法師の放つけた外れの圧力に驚愕し、まるで操られてでもいるかのように、自ら太刀を鞘ごと差し出したのだそうだ。
訳あって七百七十八振りで頓挫していた弁慶の刀狩りは、急激に成果を挙げつつあったのだった。
しかし、九百振りを集めた頃から太刀の収集に手間取るようになった。
夜に出歩く武士がいなくなったのだ。
流石に武門の恥になる事であるから、自ら吹聴するものはいなかったようだが、目撃者達によって事実は誇張され、噂は忽ちのうちに京の都中に広がり、その中でその刀盗人の荒法師は、比叡山を破門になった武蔵坊弁慶であり、雲をつくかの大入道だとも喧伝されていた。
その為に、夕刻から外出をする武家は激減し、念願の千振りの刀の収集は遅々として進まなくなったのだ。
それでも、なんとか残り数拾振りといった所まで漕ぎ着けてはいたが、全くと云うほど夜に武家の姿を見かけ無くなり、代わりに役人(検非違使)達の集団の姿を目にする事が増え、仕方無く巨躯の荒法師は場所を貴族(藤原一門)や平家一族の保養地で有る嵐山に移したのだった。
千振りまであと一振りと云う夜、巨躯の荒法師は嵐山の法輪寺橋(渡月橋)の中央で大薙刀を携え獲物を待つていたと云う。
獲物は、程なく優雅に横笛を吹きながら巨躯の荒法師に近付いてきたが、仁王立ちしている荒法師を気にする風も無く、笛を止めずに横を通り過ぎようとし、荒法師は咄嗟に身を橋の端にずらせて道を譲り、人呼吸置いて思わず苦笑した。
身に纏う豪華な衣装から、位の高い平家の子息とは推測できた。
未だ元服前の童子が從者も伴わずに、夜半の1人歩きをしている事を訝しんだのだが、荒法師が咄嗟に道を譲ったのは、違和感と同時に、近付いて来た元服には未だ二、三年は要する一見童子にしか見えない公達に一分の隙もなかったからだ。
(まったく、なんという豪胆な童なことよ。それにしても夜眼にも艶やかな衣装と見事な太刀、さぞかし名の有る刀匠の打ったものに違いあるまい。童相手に大人気無いが、あれを最後の千振といたそう)
と荒法師は独り言ちて、笛を吹きながら悠々と通り過ぎていく童子の後ろ姿に
「待たれよ。それがしは武蔵坊弁慶と申す修験者、祈願成就の為、都の武家から千振りの太刀を求めて参ったが、今宵そこもとが腰に吊るしておる太刀で大願成就の千振り目。 太刀は飾りものでは無い故に、童には宝の持ち腐れ、拙僧がお預かりもうそう」
と声を掛けた。
するとその未だ童子にしか見えない公達は、横笛を口から外して振り向きながら、意外にも
「吾の太刀が祈願成就の千振り目に選ばれるとは光栄のいたり、されど御坊のご向上は合点が参らぬ。この太刀の主が、吾より御坊に相応しいとはい否事を申さるる。まずは吾の腰よりこの太刀をお持ちなされては如何がかな?」
とキリッとした、美しい顔で言ってのけたのである。
欲しければ腕尽くで奪ってみよと、言ったのだ。
(乙女のような面(おもて)をして猪口才な事を、、、、」
といつものように大薙刀を左手に持ち替えて、弁慶は大きな右手で童子を捕まえにかかった。
ところが童子は弁慶の大木の根のような大きな右手を間一髪のところでスルリと躱し、悪戯ポイ笑みを浮かべ横笛でおいでおいでをしたのだった。
屈辱で弁慶の顔に朱が走った。
同じ事を幾度か繰り返しているうちに、弁慶は相手が童子で有る事を忘れたかのように、童子を捕まえようとする手の指先にまで力を入いれた。
しかし、弁慶は童子の身体を捉えることはおろか、触れる事さえ出来なかつたのである。
弁慶が童子を蹴り倒そうとしなかったのは、童子が一度も刀の柄に触れなかったからである。
ヒラリヒラリと身を躱す童子を、弁慶が漸く欄干に追いつめた刹那、童子の身体はフワリと宙に舞い上がり、欄干の上に着地した。
童子の身軽さに驚きながらも弁慶が迫ると、童子はまたもやフワリと弁慶の頭上を越えて弁慶の背後に着地した。
弁慶も童子も下駄履きであったそうだ。
弁慶は童子の佩いている太刀よりも、童子そのものに興味を持ったようで、追いつめては引き離され、同じ事を繰り返しながら、いつしか二人は鞍馬山の近く貴布禰神社(貴船神社)にまでやって来ていた。
貴船神社の境内に入ると、童子はピタリと足を止めて弁慶に向き直り、その巨躯を見上げながら
「吾に追い付いて参るとは流石に噂通りの荒法師、ここで、命の遣り取りをするのは体力も体格もいまだ途上の吾には不利。御坊に祈願が有るように、吾にも成さねばならない大事が有る。ここで命や手足を失くしたりすることはまいらぬ身。御坊は大薙刀の鞘を払わず一度もその大薙刀を吾に向けなんだは、 吾の命が目当てで無い事は必定。とは申せ、亡き父上の形見の太刀を御坊に差し出す訳にもまいらぬ。どうであろう、御坊の大薙刀の鞘を装着したままで吾の身体に触れれば御坊の勝ち、父上の形見を譲る訳には参らぬが、吾が所蔵している別の名刀をお譲りいたそう。しかしこの横笛が御坊の身体を打った時には、吾の勝ち、吾が何れの日にか兵を挙げた時には何を置いても駆けつけ合力する事を約定し、今宵は引き揚げて頂くと云うのは如何がかな?」
「よかろう、承知いたした。」
と応じて、スッカリ頭に血の昇っている弁慶は大薙刀の鞘を払わず、いきなり童子に斬りかかったが、難なく躱され、大薙刀は幾度も虚しく空を斬ったのだった。
(この童、形は平家の公達、平清盛が治める世に兵を挙げようなどとは、この公達は一体何者だ?)
と弁慶は思案した。
闘いの最中に他の事に意識を飛ばして集中力が散漫になるのが、この大男の最大の欠点だったのだが、思案するに値する事ではあつたのだ。
保元の乱は、源氏と平家の戦のように語られているが、じつは源氏も平家も親と子や近親が敵と味方に分かれて殺しあった悲惨な戰だった。
この時代、避けて通る事の出来なかった天皇家、公家、武家の、権力者の跡目相続問題が原因なのだ。
保元の乱は、鳥羽上皇が長男の崇徳天皇を嫌って弟の後白河天皇に位を譲り、崇徳天皇の相続権を略奪した。
それが大乱の火種となり、これに貴族の太閤藤原忠実が加わった。
藤原忠実も長男の関白藤原忠通を嫌い、弟の藤原頼長に家督を継がそうとしていたからだ。
武士でも源氏の源為義が、長男義朝を嫌って弟の源義賢に源氏本流の家督を継がそうとして、怒った義朝の長男悪太源義平が、叔父の源義賢を攻め殺してしまうと云う事件を起こしてきており、その義賢の子の木曾義仲と義朝の子の頼朝の仲が良い筈は無く、それぞれの一族の抱える問題が、天皇家の家督争いに便乗し、貴族、武士のそれぞれの階級にも波及し、それぞれの思惑でどちらかに加担して、親子兄弟近親で殺しあったのだ。
保元の乱では、平家では平清盛と叔父平忠正が敵味方に分かれて戦った。
平治の乱は、保元の乱の勝者後白河上皇の近臣藤原通憲が平清盛と謀って起こした政変であり、対立した藤原信頼と源義朝がこの戦で敗れている。
(はてさてこのすばしっこい公達は、平忠正殿に縁の有る童であるか?)
まさか負けるとは夢にも思っていなかったのだろう、弁慶は片手で握った大薙刀で童子の頭の辺りを軽く叩く動作を繰り返しながら、思案にくれている様子だった。
どうもこの弁慶と名乗る荒法師の、闘いの最中に考え事をすると云う悪い癖は尋常では無く、考え事をしながら、その長い大薙刀を片手で、刃の重さだけで童子の頭の上に振り降ろした。
刃には鞘がついているとはいえ頭に当たればたん瘤位はできただろうし、打ち所が悪ければ、失神したかも知れない。
しかし、振り降ろした大薙刀の下に童子の姿は無く、危うく地面を叩きそうになつた弁慶は、ハッとして大薙刀の柄を両手に持ち変えたので有る。
弁慶にしては大薙刀の扱いがぎこちない。
その隙に童子は弁慶の間合いに入り、飛び上がりざま渾身の力をこめて横笛で弁慶の胸を打ったのだった。
バシッと激しい音がして横笛はくだけちり、勢い余った童子の両腕が弁慶の厚い胸に跳ね飛ばされて、童子は着地に失敗し尻餅をついてしまつた。
童子は尻餅をついたまま、弁慶は大薙刀を縦たまま杖のように持ち、互いの顔を見詰め合っていたが、やおら弁慶が片膝をつき、大きな右手を童子に差し出し、
「拙僧の負けでござる。感服致し申しまいた。」
と言うと、童子は差し出された弁慶の大きな手を両手で掴んで起き上がりながら、快活に
「いやいや油断大敵火がボウボウ、御坊の油断でござりましょう。しかしながら吾は御坊に、吾の最大の弱点をご教授頂いた。実はこの貴布禰神社(貴船神社)の境内は吾が七歳の頃から、僧正が谷の鞍馬天狗殿から武芸の修行をつけてもらっているところ。鞍馬天狗殿の配下の鴉天狗を相手に退けを取る事も無くなった由、増長致していたようでござりまする。父上の遺品で母上より惜別に際し頂いた「薄墨の笛」はこのように木っ端微塵。あれが太刀であっても同じ事。吾には御坊を傷つける事はできても死に至らしめる事はでき無いと思い知らされまいた。対して御坊の大薙刀は一打必殺。戦場での敵は鎧や兜などの防具を身に纏っているとあらば、一打で敵を葬る剣法を研磨しなければなりますまい。名乗り遅れ申したが、吾は源氏の頭領源義朝が九男遮那王と申しまする。まだまだ時期早々、口外無用に願いたいが、吾が都で兵を挙げた折には弁慶殿には是非とも合力頂きたいものでござる。」
と大人びた口調で告げたのだった。
驚いたのは弁慶で、驚き過ぎて赤鬼のように顔を紅潮させた。
それはそうだろう、いきなり目前に源氏宗家の遺児が出現したのだから、驚くなと云う方が無理なのだ。
「御大将義朝様の忘れ形見九郎殿とは、、、、これは知らぬ事とはいえとんだ無礼を致しまいた。実は、、、」
と言いかけて、弁慶は次に出そうとする言葉を噛み潰し飲み込み、代わりに
「御曹司の見事なまでの刀術の師は、鞍馬寺の東光坊阿闍梨円忍殿でござりまするか?いや鞍馬天狗と申さるる御方は世に姿を見せらるる事無く、代々帝(朝廷)を密かにお護りなさってきた、八咫烏のご一族と聞き及びまするが、いかに?」
と自身でも思いもよらぬ言葉を口にしてしまい、弁慶の顔はますます赤くなったのだった。
「いや吾の刀術の師は僧正ガ谷にお住まいの鞍馬天狗殿としか知り申さぬ。吾に便宜を図ろうてくるる商人金売吉次が一条堀川の陰陽師鬼一法眼殿とそのお弟子では無いかと申すのだが、何れにせよ吾は御仏に仕える事を定められたる身ならば、源氏の頭領の血を引く吾に武芸の指南をしているとあらば只では済みますまい。故に昼間は小坊主として鞍馬寺で学問を学び、夜には公達に扮しここで武芸の修行をして参った。互いに立場が御座る。師匠の思惑はどうでも、そのような事をお尋ねする立場にはござらぬ。」
(そうだ、荒法師の姿で太刀盗人をする立場で、拙者もまた実はと名乗る名など持ち合せては居らぬのだ)
と歯を食いしばる弁慶に、遮那王(源義経)は、
「どうであろう、今しばらくすれば師匠からの稽古が始まりまする。然程に師匠の事が気になられるのであらば、吾が頼みこんでみます故、稽古に参加なされては如何で御座ろう。飛んだり跳ねたり身軽さだけなら吾は猿にも劣る。吾は今宵からは何としても戦場で通用する武術の稽古を所望するつもりでござる。」
人の性格と云うものは二・三歳から五・六歳の間にほぼ形成されるのだそうだ。
平清盛に、母親常磐御前とともに捕らわれた、源頼朝の異母弟である七男今若丸は全成、八男乙若丸は義円と改名され、直ぐ様僧侶になるべくそれぞれが寺に預けられたが、牛若丸は乳幼児だった為に、二人の兄達とは違い、母親常磐御前の愛情を一人じめし、養父平清盛を父親と信じて何不自由無く育った。
また情に深い平清盛も、牛若丸を実の我が子のように可愛いがつていたので、鞍馬寺に入山し、金売吉次から自身が源義朝の子であり、平清盛は父親の仇であると教えられた時にも、清盛に対する敵愾心よりも幾人もの兄が存在する事に関心が向き、牛若丸の心に暗闇が誕生する事は無かったようだ。
そのせいか、鞍馬寺でも天真爛漫、明るくハキハキとしていて僧達からも可愛いがられた。
また僧侶や僧兵達も大きな挫折を体験してきた者達が殆どだったから、遮那王の心を傷つける者もいなかつたが為、遮那王には他人の邪心や嘘を見抜けないと云う欠点があった。
またそれぞれ人には立場と云うものが有り、そのうえ感性や考え方は千差万別で有り、他人が自分と同じように感じ同じような答えを出すとは限らないと云う事を、遮那王は口で言うほど理解はしていなかったし、他人の口から出た言葉を疑う事を知らなかった。
悪く言うなら、相手の立場や相手の心の推移を憶測する能力に欠けていたのだ。
一言でいえば恵まれた環境の中でスクスク育ったお坊ちゃんだった。
それが平家の豪族達の中で監視されながら、流人生活を余儀なくされて暮らしてきた兄源頼朝と、弟義経の大きく違うところだろう。
「いや拙僧は、祈願する事も御座れば、やらねばならぬ事も有り申す故、今宵はこれにて退散させて頂きまする。御曹司にはいつの日にか必ずや与力させていただく事を約定申し上げ御免仕りまする。」
と弁慶は巨躯を屈めて、あたふたと遮那王の前を去ったのだった。
さて、ここまで読んでこられた賢明なる読者は、すでに違和感をお持ちと思う。
それは山本義経と闘っている時の武蔵坊弁慶にくらべ、遮那王(源義経)と闘っている時の弁慶の描写には曖昧な表現が多い事だろうか?
所詮は素人作家の、これが筆力と云うものだろうとお思いの読者も多かった事と思う。
まあそれは当らずといえども遠からずと云うか、まさにその通りなのだが、事実を羅列するだけでは記録であり、小説とは言えないと思い、冒険をしたのだが、見事に滑ってしまつた。
手品のネタバラシを最初にしてしまうようでもあり、誠に残念だが、ここからは事実に基づき物語を進めることにするが、作者よりもはるかに想像力の豊かな読者諸兄には、新しい義経伝説を構築して頂ければ幸いである。
それでは作者本人も反省している事でもあり、今一度山本義経と武蔵坊弁慶の決闘の場所比叡山延暦寺の参道に読者諸兄には戻って頂きたい。
血の塊を踏み付けて滑った負傷している山本義経の左足は、巨体を支えきれず、義経の体勢は前のめりに傾いた。
そこへ弁慶の大薙刀の刃が降ってきたのだった。
弁慶が自身の間合いに踏み込んできた山本義経の背中目掛けて、渾身の力を込めて振り降ろした必殺の一撃だった。
だがその一撃は山本義経の身体が大きく右前に傾いたが為に、虚しく空を切つた。
いつもの弁慶なら、敵の変化を察知し瞬時に大薙刀の攻撃を縦から横に修正し、決して獲物を逃す事はなかつたのだろうが、山本義経に斬られられて血を吹き出している弁慶の利き腕がそれを許さなかった。
弁慶は大薙刀の刃が参道を斬り裂き土の中に埋まるのを、その寸前で辛うじて止めることが出来ただけだった。
と同時に、弁慶は横腹から背中にかけて焼け火箸が突き刺さったかの激痛が走るのを感じた。
山本義経は傷ついている自身の左足が自身を支えきれないと知ると、右足だけを動かし、まるで前のめりにたたらを踏むかのように弁慶に突進し、その勢いのまま剛刀で弁慶の横腹を突き上げたのだ。
山本義経の剛刀の切っ先は、鍛えあげられた弁慶の横腹から入り、アバラ骨の何本かをへし折つて、背中に顔を突き出していた。
自身の負けと死を悟った弁慶は大薙刀を杖に仁王立ちのまま、山本義経が弁慶の横腹から背中に抜けている太刀を抜くかそのままにして置くべきか迷っている事を知り、
「お見事でござる。抜けば出血で死に、抜かねば肉が刀を巻いて抜け無くなり死ぬ。近江源氏の頭領山本義経様と尋常の勝負をして死ぬなら本望にござる。抜いて下され。ただその前に虫の良い御願いがこざりまするが聞いて頂けましようや?」
と言ったと云う。
山本義経も弁慶がもはや助からない事は理解しており、弁慶の願いを快諾したのだった。
短く弁慶が山本義経に要件を告げ、山本義経が快諾すると、弁慶は満足気な微笑を浮かべ、仁王立ちしたまま事切れていた。
弁慶の遺体から太刀を抜き、弁慶の遺体を荷車に載せ終わったのを見届けていた山本義経は、弁慶との闘いの最中には感じなかった痛みと疲労に襲われて崩れ落ち、弁慶と並んで荷車に寝転ろび筵を被って自身の居城山本山城迄運ばれる事になったのである。
荷車は証拠隠滅の為に、殺害した僧侶や僧兵の遺体を運び去る為のものであり、自身を運ぶ為のものになるとは思いも依らぬ事であり、この時に弁慶以外の延暦寺の僧侶や僧兵の遺体を現場に残してきた事は、後日、山本義経にとっては痛恨の極みとなるのである。
武蔵坊弁慶は、四国は来島の海賊の長の三男に生まれたが、幼少の頃より暴れん坊で、十三歳の時、不仲だった近隣の海賊の長の跡継ぎを殺してしまい逐電し、全国を放浪して腰を落ちつけたのが比叡山延暦寺だったと云う。
父親が病に倒れていると風の噂で知り、千振りの太刀を集め、一族の護り神である神社に奉納する事で父親の病の治癒を願う事にしたのだそうだ。
武蔵坊弁慶の、今わの際の山本義経に対する願い事は、七百七十八振りの太刀を預けている者に子細を話、太刀を受け取り、それを弁慶に扮して瀬戸内海来島の身内に届けて欲しいと云うものだった。
山本義経はその弁慶の願いを快諾し、弁慶の父親の病状を探らせる為、僧兵に扮した家臣二人を四国に派遣したのだった。
家臣が帰って来るまでの間の傷の治癒と足の機能回復を兼ねて、山本義経は弁慶に扮し、弁慶に代わり千振の刀狩りをやっていたと云うのだから、平家の武士も舐められたものである。
であるから、、五条大橋での牛若丸と弁慶の闘いは作り話で、京は嵐山の法輪寺橋(渡月橋)での遮那王と弁慶の闘いは、じつは、遮那王と山本義経の闘いであり、源義経対山本義経の闘いだったのだ。
言い方を変えれば、源義経と源義経の闘いだったのだ。
さて読者諸兄のなかには
(源義経を名乗る武将が二人存在していた云う話は、歴史学者達が事実だと認めている事だから、〈二人の義経〉と云うタイトルに釣られて読み始めたのだが、弁慶が義経に殺されたなどとは、いくら作文だといっても書いて良い事と悪い事が有る。) とか(〈石中はくご〉と云うペンネームは平仮名にすれば〈いしなかはくご〉となり、それを下から読むと〈ごくはかなしい〉となり、漢字に変換すると、〈獄は哀しい〉となると、石中本人がペンネームの由来を書いていたが、所詮は犯罪者の作文だ!)
と、怒り心頭の方もいらっしゃるとは思う
しかしながら、武蔵坊弁慶が衣川の戦い以前に立ち往生していたなど、とっても根拠が無くて書けるものではない。
当然根拠はある。
一つはこの小説(二人の義経)の主人公は、タイトル通り二人の源義経であり、弁慶といえども脇役に過ぎないと云う事だ。
歴史小説の中での脇役など何処でどのような死に方をしょうが、歴史の事実に反してさえいなければ、 さほど問題は無いのだ。
事実でありさえすれば良いのである。
それが事実で有るかどうかは、読者が検証なさるべき問題で、筆者の仕事ではない。
後の一つは、筆者の体験によるものだ。
実は筆者の職業は、報道ジャーナルと云うブラック極小企業の社長で有り、一応ジャーナリストでは有るが、その正体は恥ずかしながら(復讐代行)と云う、社会の底辺で蠢き、小銭で他人の恨みを晴らす仕置き人グループのボスなのだ。
筆者は、報道会社のブラックジャーナリストと復讐代行と云うテロリストの二つ顔で、四十年以上を生きてきた人間の屑なのだ。
もっとも金と権力に靡き、国民に真実の情報を提供をしなくなった日本のマスコミ関係者は、規模こそ違え五十歩百歩、全員が筆者と同じブラックジャーナリストだと筆者は確信している
復讐されるのは、人の生き血を吸って生きている蚤やダニのような人間であり、筆者はその蚤や虱やダニを餌食にして生きているゴキブリなのだと、自身に言い聞かせて、社会の底辺で蠢き僅かな金で他人様の人生を左右するような事をやって来た。
千数件もの他人の恨みを晴らしていれば、無関係の人間を巻込み愁嘆場を演じた事の一件や二件は有るし、お縄になつた事だって有る。
科学が進歩し、誰もが携帯電話を持ち、事件現場に遭遇でもすれば、一瞬にして警察に通報する事も出来れば、携帯電話に付属した高性能なカメラで、事件の一部始終を撮影する事が出来、世界中に動画配信も出来る世の中だ。
日本国中のあっちにもこちにも防犯カメラが設置され、車にはドライブレコーダーが附設されていて、当たり屋や誘拐業者が廃業に追い込まれている昨今、闇討ちと云う頗る単純な営業方法が主体だった我が(復讐代行屋)も営業方法の転換を迫られていた。
仕事を成功させても、その度に逮捕されていてはどうにもならない。
そんな時、筆者が獄中で興味を持ったのが、霊能力者の存在だつた。
直接手を下さなくても、祈願したり呪いをかけるだけで、ターゲットを懲らしめる事が可能なら、これほど楽な事は無く、呪いをかけたからと言って、司法に裁かれる事は無いのだから、自身に霊能力が無い事を承知していた筆者は、アメーバブログに〈呪いの伝導師〉と云うタイトルのブログを開設、〈全国霊能力者会議〉なるものを提唱して、自称霊能力者を名乗る者達との接触を模索したのだつた。
当時の筆者と霊能力者達との関わりは、長くなるし、余り意味が無いのでここでは割愛させていただくが、霊能者や霊に関心の有る方は、今は休載しているが記事は残っているので、アメバーブログで(呪いの伝導師)を検索して貰えれば、当時の筆者が、いかに非日常的な事と云うか、形而上の存在に関心を持ち活動していたかは理解して頂けると思う。
そうした体験を通じて筆者が辿り着いたのは、占い師と霊能力者は全く別もので、霊能力者を名乗る者は全て詐欺師で有り、占い師にも天国や地獄、生き霊や悪霊を語る者が存在するが、その者達も押し並べて詐欺師だと云う結論だった。
しかし、統計学や風水を修めた占い師達はホンモノで、優秀なカウンセラーだと確信させられた。
霊能力者と混同されがちな能力者に、超能力者と呼ばれる人達の存在が有る。
霊能力者と云うの完璧な詐欺師だが、超能力者と云うのは、天才の事だろう。
天才と云うのは、数は少ないが存在する。
そしてその天才が常人には無い能力を研磨し、偉業をなし遂げた時、超能力者と呼ばれるのであって、霊能者を名乗る詐欺師とは全く別者なのだ。
筆者はこの時期、(呪いの伝導師)を名乗りブログをアップする傍ら、埼玉県蕨市で(お化け屋敷)という店名の喫茶店を開業していた。
復讐代行業者の隠れ家のようなものだ。
筆者は全てに於いて無責任極まりない鼻持ちならない人間だ。
本人の自供なので、これは間違いの無い事実で、最近では長く生き過ぎた為か本能が鈍化して、金銭欲も物欲も、骸になるまでは無くなる事は無いだろうと思っていた性欲までが筆者から気化して雲散霧消しているのだが、その当時はまだまだ生臭く、本能のままに生きていたどうにもならないろくでもない人間だった。
それでも、家族の大きな愛に育まれている内は、筆者の中の凶暴な野獣は眠っていたのだが、自ら家族の愛を断ち切った時から、東京と云う荒野なかを彷徨ううちに、内なる獣が目覚めたようで、いつしか自身の欲望を満たす為なら他人を傷つけることも、哀しい思いをさせる事も厭わない人間になっていつたのだ。
勿論それは法律の外の世界で生きる者、獣同士の喰らい合いだったのだが、そんな事が法治国家で許される訳は無い。
実際、己の欲望に忠実に生きていて、金にも女にも不自由しなかつた若い頃に比べれば、人に哀しい思いをさせないように気を配って生きている今の方が、生活は苦しく、皮肉なことに金銭問題で不義理をしたりして、いまでも筆者は、どうにもならない人間なのだ。
しかし、自身がどうにもならない人間だからこそ、どうにもならない人間が許せないのだ。
矛盾しているようだが、不誠実な自分が許せないから、自身に酷似した他人が許せないのだ。
筆者には、リスクの高いこのようなくだらない仕事を、半世紀近く続けて来ている理由を他には思いつかない。
喫茶(お化け屋)は駅から遠く、しかも長い一方通行の細い道路の出口近くで、駐車場が無かった事も有り、売り上げは月に二万円前後、高熱費の足しにもならない有様だった。
客席の回転率が勝負の大都会の喫茶店とは異なり、田舎の喫茶店は儲けは度外視の道楽商売、復讐代行業者の元締めの隠れ家にはうって付けだつた。
常時近所の爺さん婆さん達が三、四人食べ物持ち込みで開店から閉店まで居座っていてセルフサービス。
客が来れば、ウエイトレスからバーテンまでやってくれて人権費はかからない。
開店から二ヵ月もすると、筆者の隠れ家は、ブログで知りあった占い師のヒヨコや自称霊能者達の溜まり場の様になり、ボックス席を三席潰して、二つの個室を作り、そこで占い師の見習いや霊能者の見習いが、婆さん達を相手に格安で商売の実践を勉強するようになったのだったが、筆者は(喫茶お化け屋敷)で、一人の超能力者の少女と、もう一人霊能師志望の青年と親しくなった。
これにもいろいろと経緯が有るのだが、長くなるので割愛させていただく。
二人とも筆者の店で初めて出会ったそうだが、人見知りの激しい二人が不思議な事に、兄妹以上に仲良くなったのは、筆者の無責任極まりない人柄のせいだったと自負している。
少女の超能力と云うのは、植物と意思が交わせ、樹齢の高い樹木となら話が出来る事だった。
少女はもの心ついた頃から孤独な環境で育ち、幼少の頃からの遊び相手は、近くの病院で寝たきりになっていた祖母と、平屋の玄関や廊下に並べられた鉢植えの観葉植物や、小さなの、夜も働いていたシングルマザーの母親の見よう見真似で、植物の世話をするようになり、植物に話しかけるのが日課になっていたようだ。
(きょうもきれいにさいてくれてありがとう。ママがきれいだとほめてたよ)
などと声をかけると、花が喜んでいるのが彼女に伝わるようになったそうだ。
彼女に依ると、全ての生物は微少な電磁波を発信しており、互いの電磁波を甘受する能力を磨きあげれば、別種個体どうしでも意思の疎通は可能で、互いを意識し、人間が努力すれば人間の感情は異生物にも伝わり、異生物の感情も人間に伝わるのだと云う。
彼女は毎日、鉢植えの前で母親が作ってくれた昼食を済ませ、お片付けをし、また鉢植えに、母親の休みの日に連れて行ってもらった遊園地の思いで話や、祖母に読んでもらっ絵本の話をして、母親が昼間の勤めを終えて帰っ来るのを待っのが日課だったようで、待ちくたびれて鉢植えの前で眠っている事も度々あったとか。
娘の身を案じて(お化け屋敷)に訪ねてきた少女の母親が、
「小さい頃から不憫な程全く手のかからない子供でした」
と仰っていたのを思い出す。
彼女は、母親から見ると明るく素直な少女だったそうだが、人が相手だと距離感が掴められなかったのか、小中学生時代には友達らしき存在は現れず、心配していたところ、少女は高校1年生の秋、突然、祖父母の墓の前で手首を切って自殺を図ったという
幸い住職にすぐに発見されて、大事には至らなかつたのだが、病院のベッドの上で少女は頻りに祖母に詫びていたと云う。
退院した少女が我が隠れ家に姿を見せるようになって、少女本人から聞いたのだが、彼女はその日、いつものように一人で校庭のベンチで母親の手作りの弁当で昼食を済ませ、ダリヤや鶏頭やコスモスの香りに包まれ、ウトウトしていたと云う。
彼女にとっては至福の時間だったようだ。
心地良い彼女の眠りが、頬を這う異物の感触にさえぎられて、無意識に頬に手をやり、指先で摘んだものを目にして彼女は悲鳴をあげ、思わず放りなげたと云う。
それは二センチほどの丸々と太った緑色の毛虫だったそうだ。
地面に払い落とされた毛虫はノソノソと彼女に向かつて来たそうで、恐怖にかられた彼女は、気がついた時には靴で毛虫を踏み潰していて、毛虫の濃い緑色の体液の塊が砂利道に散乱していたそうだ。
思わずその場から逃げ出そうとした時、
(なんと云う事だ。雨風に耐え、天敵をやり過ごし、あと数日すれば美しい蝶に転生して広い大空を飛び回われる事になっていた自身のオバアちゃんを、踏み潰してしまうなんて、、)
という呟きが、少女の耳に飛び込んできたそうだ。
ベンチの後ろの銀杏の木の声だったようで、彼女は驚愕して泣きながらハンケチで毛虫の死骸と体液を包み取ると、学校を早退して一族の墓地に訪れ、祖母の骨壺の傍に毛虫の死骸を包んだハンカチーフ納め、その場でカッターナイフで自殺を図ったと云のだ。
「おばあちゃんは、病院のベッドの上から庭の花壇を飛び回る蝶々を見ながら、死んだら蝶々に生まれかわって花から花に飛び回りたいって言うてはったんや、、、」
と泣き崩れたのだった。
そこで筆者は、代々天皇家を護ってきた超能力者の八咫烏の末裔から聞いた話だと前置きし、生物は転生する時、転生前の知り合いとは幾ら懐かしくても、自ら接近してはならないと宇宙の創造主に申し渡されており、もしもこの禁を破るともっとも悲惨な罰が与えらるのだそうだと少女に教えてやり、詳しいことは八咫烏の小頭か安倍一族のどなたか聞いて置いてあげると言ってその日は帰したのだった。
それから数日後、筆者は、少女に、
「お嬢のばあちやんは、可愛いい孫の姿に思わず禁を破りお嬢に接近して、可愛いい孫に踏み潰されて亡くなると云う最も残酷な命の失い方をした。泣くな!最後まで聞け!自身が生きる為に手を下し他生物の命を奪っても、奪った命に祈りを捧げればその罪は許される。お嬢は罪を悔い、命で償う事を実践した。未遂で終わったのは偶然では無い。宇宙の創造主と云うのは時には酷く残酷な決断を為さるのだが、それには我々人間には計り知れない理由があるようで、実はとても慈悲深い御方なのだよ。これは以前に話した事の有る八咫烏の小頭に電話でお嬢の話をしたところ、稀にそうした例はあるそうで、お嬢のおばあちゃんは今回は情に負けて禁を犯し、かわいい孫娘に踏み潰されて命を失うと云う最も残酷な罰は受けたが、お嬢とおばあちゃんには創造主からチャンスを与えて貰えるだろうと仰った。小頭の話では、おばあちゃんはお嬢の子供として人間の生を授かる可能性が高いそうだ。おばあちゃんには全ての記憶が消去されているが、お嬢の産んだ子がおばあちゃんに似ていたり、癖がおばあちゃんに似ていれば、それは間違い無くおばあちゃんの生まれ変わりだそうだ。」
少女が喜んだ事は言うまでもない。
その日から少女は、毎日のように(お化け屋敷)にやってきて、八咫烏の小頭を紹介して欲しいと懇願し、筆者を困らせたものだつた。
そんな事が出来る訳が無い。
高市皇子の一族で、代々天皇家を陰から守護してきた八咫烏の一族の末裔と、筆者のような子悪党が知人である筈がないのだ。
筆者の出鱈目嘘八百で、霊能者を自称する詐欺師の用いる方便だ。
「それはいくらお嬢の頼みでも駄目だ。八咫烏とか、安倍一族と云うのは、同じ天皇家から発していても、天皇の手足となり、表の政治を司ってきた平家や源氏や公家の末裔達とは違い、八咫烏は日本国の象徴である天皇家を陰で護る為に選ばれた子孫が代々受け継いで来た闇の一族、いわば秘密結社のようなものだよ。八咫烏の存在をお嬢に教えた事がばれたら、俺は消されるかも知れない。だからお嬢も八咫烏の事は誰にも喋るんじゃないよ」
全く嘘と云うものは、難儀なものだ。
一つ嘘をつくと、次々と嘘を重ねねばならなくなるのだ。
もう一人の青年はお金持ちの四男坊で、病弱で高校を中退、絵を描く事が好きで、家族の反対を押し切り、当時売出し中のファンタジー漫画家の家に住み込みでアシスタントをしていた。
(お化け屋敷)に通うようになったのは、筆者のブログで霊能者に興味を持ち、霊能者になりたいと思うようになり、筆霊能者の卵達の溜まり場だと云う噂の筆者の喫茶店に通うようになったとか。
彼に依ると、万物の霊長で有る人間には守護霊と云うものが憑いていて、生き霊や悪霊や地縛霊などから、憑依体である人間を護っているのだそうだが、この守護霊は悪霊の攻撃から守護する人間を護る事は出来ても、悪霊などを攻撃する事は出来無いのだそうだ。
敵の多い人間の守護霊は、生き霊などの一方的な攻撃を受けてズタボロ傷だらけになり、守護霊が悪霊に滅ぼされると、守護されていた人物の生命力は衰え、癌や高血圧や伝染病などで死ぬのだそうだが、癌なんてものは、1日に五分間ほど山林や川岸や滝で深呼吸をすれば、山林や河岸や滝に棲む妖精が守護霊を元気に復活させてくれ簡単に治ると彼は言うのだった。
妖精と云うのがオゾンやマイナスイオンの事だとは、筆者にも想像がついた。
この世に神仏などと云う形而上のものは存在しないが、宇宙を創造している万物の創造主は存在し、人間を万物の霊長に成長させたのも宇宙の創造主の期待からで有ると云うのが彼の主張であり、世界に雑多に存在する神仏などと云う存在は、万能ではなく、自身の明日さえ予測不可能な無能な人間が、憧れや期待や救済を込めて創作したものに過ぎ無いと云うのが、彼と彼女と筆者との一致した考えだつた。
万物の霊長で有る人間以外の生物が、食物連鎖の厳しい環境の中で生存していかなくてはならないのも宇宙の創造主の計らいで、生物が死ぬと霊だけが本体を抜け出し、人の眼には映ら無いが蜘蛛の巣のように張りめぐらされた霊道に乗るのだそうで、現世への執着心が異常に強い霊だけが霊道から逃れて地縛霊となり、霊道に乗った霊は、霊道を進む内に、宇宙の創造主の方針に背いた生き方をしてきた生物の霊は、重くなって地中深く潜ってマグマの一部となり、灼熱地獄の中で永い年月を苦しみ喘いだ末に、許されて地上に放出されても鉱物に転生、生物には転生出来無いのだと彼は言っていた。
また宇宙の創造主から与えられた万物の霊長で有る人間と云う生命を、いかなる理由があろうとも、自殺と云う方法で終わらせた者や自殺に追い込んだ者は、終世植物以外には転生出来無いのだとも言っていた。
筆者と彼と彼女は、会う度にそのような話をして過ごしていたものだつた。
あれは筆者が仕事で京都にいかねばならないから一週間ほど店休すると告げると、近所のお婆ちゃん達が日当無しで店を開けてくれると云うので、筆者は甘える事にした。
その時に、少女と彼が京都に連れて行って欲しいと言ってきたのだった。
京都、奈良、滋賀には都が有った為に、歴史的な出来事が数多く、樹齢二千年以上の巨木もあり、少女は樹齢千年以上の樹木となら話をする自信が有るから、大昔の話を聞きたいのだと言うのだ。
すると彼は、彼女のその才能を確認したいから同行したいと言いだした。
深山に入っていくのだろうから、彼女一人では危険だし、そうかと行って筆者には仕事が有り、用心棒にははなはだ頼り無い気がしないでもなかったのだが、夕方までには宿に戻る事を条件に、彼に彼女のボディーガードを許可したのだつた。
京都で毎日連絡を取り合いながら五日が過ぎ、その日筆者は彼女達の泊まっている旅館近くの喫茶店で二人から報告を聞いた。
鞍馬山の麓に存在する貴船神社の、奥の宮までの参道の大杉並木の中の樹齢千年以上と思しい古木に、早朝から夕方まで話かける事二日、三日目にして彼女は脳裏で、源義経と弁慶の話を聴く事が出来たという。
杉の木達は、樹齢五百年前後で電磁波を飛ばしあって話が出来るようになるのだそうだ。
風の強い日や雨の日などはかなりの距離が有っても情報を共有する事が可能で、(二人の義経)の話は、彼女の問いかけに貴船神社の杉の枯木が応えた、延暦寺の杉の古木から聞いたと云う話であり、延暦寺境内の杉が代々語り継いできた話だと言う事だった。
これは余談になるが、筆者が今書き始めている(関ヶ原前夜)は、この時二人がこの旅行中に、奈良の玉置神社境内の樹齢三千年と云われている、神代杉から聴いたと云う彼女の話を小説にしたものだ。
因みに彼と彼女はあの関西旅行がきっかけになり、一年後に結婚したそうだが、その時筆者は長期刑で刑務所にいて、結婚式にも参列してはいないし、出獄後、当時の誰とも会ってはいない。
二人は結婚したと云う、できちゃった婚で、彼女のお腹には新しい生命が宿っていたそうで、彼氏の漫画がアニメ化されてなかなかの評判だとも聞いている。
今は、彼女の母親と彼氏と娘の四人で仲良く暮らしているようだ。
そうでした、彼女は初めての出産を迎える頃から、樹木と話しが出来ると云う超能力は消失したようだ。
樹木と話をしなくても、会話をする相手が出来たので、宇宙の創造主が彼女の能力を解いたのかもしれない。
弁慶に扮した山本義経が、選りすぐりの数十人の家来を延暦寺の僧兵に変装させ、千振りの太刀を隠した荷車を牛に引かせて近江の山本城を四国に向かって発ったのは、翌年の猛暑が和らいできた頃の事だった。
弁慶の父親はすでに亡くなっていて、長兄が跡目を継承し、伊予の河野一族の有力な族長の娘を娶り、瀬戸内海で暴れ回って、後世に海の大名と名を遺す村上水軍でさえ、一目置く程の勢力を誇るようになっていた。
当時の村上一族は独立組織とはいえ、河野一族の影響力下にあつたのだ。
弁慶に成り済ました山本義経の一行が、四国来島(今治市)に半年近くをかけて到着した時には、弁慶の兄弟達は一族間の戦争の最中で、一族郎党を引き連れ船で戦場に出かけており、妻子が砦を護っていた。
河野一族の内紛は村上一族を巻き込みこの当時からしばしば勃発していたようだった。
留守番の妻子と海賊達は、これ以上は無いと云うほどに一行を持て成してくれたのだったが、偽者の弁慶は居た堪れない気持ちになり、千振りの太刀を牛車ごと頭領の妻子に預け。
「身共は源義経と云う主人を持つ身、鬼王丸は武蔵坊弁慶と名乗り、源氏の世の復興の為に平家と闘っておりますれば、どうか兄上によしなにお伝え下さりたし。」
と告げ早々に来島を後にしたのだった。
この当時、すでに瀬戸内海の海賊は平清盛の支配下に有り、京の都より西の海は平家の勢力下に有った事も山本義経には長居出来無い理由でも有った。
しかし、本物の弁慶ならば一人であつたとしても、なにはともかく戦場に駆けつけただろと思うと、山本義経は忸怩たる気持になつたのだった。
途中延暦寺の僧兵の装束から武士に戻ると、途端に関所で揉める事が多くなり、武力に任せて関所を破り押し通り、帰り道には日数を費やし、一年近くかかった旅から近江に帰省した山本義経を待っていたものは、山本山城を取り囲んだ検非違使と延暦寺の僧兵達の大軍で有った。
この時、殆ど抵抗らしい抵抗も無く山本義経が検非違使に捕縛されたのは、近江源氏柏木家に婿入りしていた弟の柏木義兼が、義経の留守の山本山城を護る事を許すと云う言質を検非違使から得たからで有った。
また弁慶については、手強く討ち漏らしたと云う供述がすんなり通ったのは、山本義経主従による延暦寺僧侶僧兵襲撃事件以後も、弁慶が都の界隈で刀狩りをしていたと云う事実が有ったからで有る。
千百七十六年、山本義経は比叡山延暦寺僧侶僧兵殺害の罪で佐渡に流罪になった。
今も昔も、殺人現場に遺体を遺して置く事は、犯罪者が墓穴を掘る事になるようだ。
山本義経が佐渡に流罪になる二年前、もう一人の義経こと源義朝の九男遮那王は十五歳なり、出家得度を強要されて鞍馬寺を遁走、近江の鏡の里(滋賀県竜王町の鏡地区)の旅籠で自らの手で元服を行い、源義経と名を改めて、奥州藤原氏の宗主で鎮守府将軍藤原秀衡を頼って奥州平泉に下っていた。
路銀にも不自由し、源義経は農作業を手伝う事で糊口を凌ぎ、雨露を凌いだが、農家の源義経に対する扱いは酷く、若い義経は牛馬小屋で藁を被り涙した日もあった。
伊勢鈴鹿山の山賊を退治した時、山賊にまで身を落していた、伊勢平氏の伊勢三郎義盛と闘い家来にした。
伊豆の頼朝を訪ねても、鞍馬寺から出奔してきた義経を匿える訳もなく、頼朝に迷惑をかけることになるから、金売吉次を頼って奥州藤原に行くべきだと云う伊勢三郎の意見に従い、源義経は山賊退治をし路銀を得ながら奥州藤原を目指したのだった。
山本義経が弁慶に扮して四国来島を目前にしている頃の事で、近江を留守にしており、こうして源義経は歴史上二人存在する事になったのである。
因みに金売吉次は、京の都よりも栄えていると言われた奥州平泉の三代目当主藤原秀衡に仕える密偵の頭領で、裏の顔は奥州で採れる金や銀を京の都に運び、京の都の文化や芸術を買い求める商人で有り、時には貧乏公家の娘達を買い平泉に運び、京の都の貴族文化まで商いにしていたようだ。
しかしこの金売吉次は、藤原秀衡の正室の父親で、京の都の貴族、民部少輔藤原基成の弟の仮の姿だったのだ。
千百八十年、山本義経は罪を許され近江山本山城に帰還した。
七人もの人間を殺してたった四年間の流罪で済んだのは、被害者が検非違使達も手を焼いていた比叡山延暦寺の僧侶や僧兵だった事だろう。
当時貴族も武士も、寺社勢力の猛威に困惑していたからだ。
山本義経は佐渡から帰還したその年に、源義経と名乗り平家に対して兵を挙げ、
その頃もう一人の源義経は、奥州藤原の当主藤原秀衡に気に入られて秀衡から乗馬はもとより、軍事、経済、天文学まで学んでいた。
奥州藤原は武力で東北地方の蛮族を制圧して治めている自負から、独立心が強く、公家や貴族と云うよりは、武士と云う認識が強かった。
藤原秀衡も若い頃には平清盛や源義朝を政敵と定め、二人を傑物と認めたうえで、自身が二人に劣っているなどとは微塵も考えずに、天下平定の野心を持っていたのだったが、病に苦しめられるようになり、自身の寿命の長く無いことを悟るようになると、そうした野心は消え、平家の世であろうが源氏の世になろうが、奥州藤原王国だけは残したいと考えるようになったのだった。
そう考えるようになったのは、全国に派遣していた密偵が齎す情報だった。
平清盛は子宝にも恵まれ、京の都に相応しい艶やかな人物がゴロゴロいた。
中でも長男重盛は武士としても政治家としても、清盛に勝るとも劣らない才能を持ち、二男基盛、三男宗盛、四男知盛、五男重衡、六男維俊、七男、知度、八男清房、養子に清貞、清邦、他に德子(建礼門院)、盛子、完子、そして義経の母親常盤御前との間に出来た姫が1人、 子は総勢十八人とも十九ともいわれていた。
戦に次ぐ戦の中で、血の臭いを隠し朝廷や貴族達に気に入られ、都人にも愛され平家の天下が続いているのは、平清盛の政治力で、血の気が多く荒くれ武士の多い源氏では、朝廷さえ操る程の権力は持てずに、所詮は公家や貴族の番犬で終わるだろうと考えて、藤原秀衡は、奥州藤原二代が築いた京の都を真似たきらびやかな文化と繁栄を踏襲し発展させてきたのだったが、自身は公家ではなく武将なのだと云うこだわりを捨て切れずにいた。
権力を維持するには、武力の裏づけが必要で有る事を藤原秀衡は知っていたのだ。
平清盛に敗れ命を失ったとはいえ源義朝にも六人息子達が残されており、頼朝、範頼、全成、義経は武将として義朝を超えるのではないかと、藤原秀衡は思っていた。
平清盛ほどではないにしても、藤原秀衡にも妾腹の長男国衡、正室が産んだ次男泰衡、三男忠衡、四男高衡、五男道衡、六男頼衡、七男光衡の他に女子がいた。
生存している源義朝の七人息子達に比べて、自身の息子達七人は、何れもがおっとりとしていて武将としての覇気が無く、源平を退けて天下を掌握するなどという気概や野望は見えず、それでいて藤原三代で築いてきた平和と繁栄の上にドッカリと胡座を搔いて、秀衡が後継者と決めていた正室の子で次男の藤原泰衡でさえ、その奥州藤原の繁栄は永遠に続くものだと信じて疑おうともしていないのだった。
凡庸な息子達に期待出来ない以上は、背骨や腰が激しく痛むと云う持病を持ち、老いを感じていた秀衡は自身の傀儡を必要としていたのである。
それには若くて文武の才能に秀で父性愛に飢えていた源義経は、絶好の人物だったのだ。
藤原秀衡は義経に自身の知っている限りの知識を与え、義経は乾いた土地が水を一滴残らず吸い尽くすように秀衡の知識を自分のものにしていったのだった。
しかし凡庸でそれ故に嫉妬心の強い自身の息子達が、実の子よりも源義朝の遺子である義経を可愛いがる父親をどう思い、まるで実の父親ででもあるかに秀衡に懐いている義経にどういう感情をもって見ているかを察知出来無いほど、藤原秀衡は愚かではない。
当初秀衡の七人の息子や重臣達は、義経が余りにも若い事と、京の都よりも優雅で繁栄しているとされる平泉に本拠を構える奥州藤原の宗家一族で有る事で、鷹揚な態度で義経に接していたのだったが、有る日、秀衡の命により、防具を身に纏い実戦さながらの訓練を行い、片方の大将に義経、片方の大将に比較的義経に歳の近い七男光衡が指名された。
当初は二百人対二百人で平地で戦い、近くの樹木の生えて居ない小高い丘の頂上に靡く赤と白の二旒の旗を手中にした方の勝ちとし、騎馬は双方二十騎とし、刀は木刀に替え、矢じりの先や竹槍の先や、薙刀に見立てた太くて長い竹の刃の部分には、墨汁をたっぷりと染み込ませて丸めた布が括り付けられていた。
防具以外の身体に墨のつけられた者は、評定役人に依って退場させられると云う決まりで有った。
しかし、その模擬戦は、源義経の進言に依って、義経軍五十対光衡軍三百五十に変更されたのである。
義経は、自身は部下も持っておらず、諸国の源氏の武将とも面識さえ無くしても、自身は末弟で有り、大軍を預けて貰う事は有りえないから少数で大軍を相手にする戦略を、折角の機会だから学びたいと秀衡に申し出て許されたのだ。
義経は、最善列に弓部隊十名を並べ、その横に槍を携えた十五騎の騎馬隊を並べ、後ろに十五名の槍を携え盾を抱えた歩兵を置き、その後ろの本陣に五騎の槍を携えた騎兵に自身を守らせる陣形だ。
一方光衡は、騎馬隊三十騎を先頭に、弓部隊五十名、槍を持たせた歩兵百名、薙刀を持たせた歩兵百五十名
最高尾に盾を持ち木刀を携えた歩兵二十名に自身を守らせると云う陣容だった。
義経は開始のドラと同時に、弓部隊の横に並んでいる十五騎の騎兵部隊を丘の頂上に向かって駆け上がらせた。
光衡はこれには驚いたが、最善列の騎兵部隊五騎を丘に向かわせ、二十五騎を義経本陣に突撃させた。
紅白の旗は奪われても、大将義経を討てば勝ちなのだ。
続く