2024年7月25日。仕事から帰宅したのは20時過ぎで、夕食を食べているときょうだいから電話が来た。

「まさかの母が心肺停止になった。病院へ行ける?行けるなら病院へ電話をして欲しい」

「薬を飲んだら(食事は途中)むつさんに送ってもらう」と返事をして、病院に連絡。

当直医が出てくれて、「今の時点で20分、蘇生をしていますが戻ってきません。ご希望あれば高次の病院へ搬送を依頼しますが?」

「いえ。希望しません。これから15分位で着きます」

「お待ちしています」BGMはモニター音。

 

車の中で娘にはLINEで、母方の叔父には電話をした。

職場には家を出る前にLINEで26日に休む旨を連絡した。

睦月さん(仮)には21時半を過ぎたら、帰りはタクシーで帰ると話した。

 

案内されたのは病棟内の処置室。母がモニターに繋がっていて、当直医が「この時点で30分経っています。波形は見られないのですが、娘さんに確認してもらってから死亡確認と致します」

心電図はフラットのままだ。きょうだいには確認してあったので、「ありがとうございました。止めて頂いて構いません」

何でだろう?私は冷静ではなかったけれど、胸骨圧迫をして貰っていて申し訳ないと思ってしまうのは。

20時50分 死亡確認。原因は心筋梗塞だった。

夜勤の看護師さんが目を赤くしている。

「夕食は普通に食べていたのですよ。夜の軟膏を準備している時に”苦しい”とナースコールがあって駆け付けたのですが、意識喪失していて、処置室に5分後に運びました。正直私もショックです」

「こういう経験はそうないと思います。驚かせてしまって申し訳ありませんでした」そこで少し、私は泣いた。

 

きょうだいは葬儀社に連絡を入れていた。斎場は2か所あり、どちらで行うかをまず決めてから連絡をくれることになっていた。

ところが連絡した人々から返信が来ているのは分かるが、病院内は電波が悪く何もできない。

看護師に案内されて外で対応するしかないのだが、閉鎖病棟のため解錠を何度もお願いすることになる。

遺体を安置する決まりがあるらしく、0時までは急性期病棟で、それ以降は霊安室のある病棟に移るらしい。

とりあえず23時に遺体を引き取りに来てくださるということで、私は返信やら電話に10分位対応してからまた、病棟内に戻る。

冷房が強い夜の病院は自販機も22時で買えなくなると看護師に言われ、1本麦茶を買って、処置室と待合室を出たり入ったりしていた。

 

忙しいだろうに、看護師が声をかけてくれる。医療従事者だと何となく分かったとか。

母が亡くなるまでの病棟での様子は、夜に不穏を訴える以外は穏やかに過ごしていたそうだ。

20代の患者さんを可愛がっていたとか。「そうですか…お孫さんが20代だったんですね」

「お父さんに会いたい」とも言っていたとか。

「母はここに戻りたかったんですよ。ただ最期のことまで想定していたとは思えないのですが、私はここで最期を迎えられたことは幸せだったと思っています。急過ぎましたけどね」苦笑しつつ涙が出てきた。

病棟でも話題になっていたのが、母が退院時よりも痩せたことだった。70キロはあったであろう体重は52キロ。

「Kさん(名前)本当に痩せましたよね」「炭酸をやめたからでしょうかね」

ここは謎のまま。解剖をすることはないので、母が持ち去る形になってしまった。

 

ロビーでほっそりと電波が入るようになった。消灯しているので暗いがそれはどうでもいい。

娘と繋がり、少しLINEでやりとりをしていると、看護師が来てくれて、「これから主治医が来ます!驚いておられて…」

30分くらい経っただろうか?処置室が寒いので出た時に主治医の顔が見えた。

「びっくりしました。水曜日は元気に僕と話していたんですよ…」

清拭を終えた母の顔を見てくださり、「穏やかな顔で…苦しまなかったでしょう。心臓が悪いというデータはありませんでしたから…」

私は再度お伝えした。「ここで最期を迎えたかったんじゃないでしょうか?私にしたら近くで旅立ってくれたことに逆に感謝しています。

施設にいたらどこに運ばれたか分からない。今も救急が逼迫している状況であるから。

 

葬儀社の車が来た。母は入院している急性期病棟から出発する。

夜勤の看護師の1人がストレッチャーから移る時にこう言った。「Kさん、痩せて緩い指輪を絶対に外そうとはしなかったんですよ」

そのままつけて、主治医と看護師3人に見送られて安置所に向かう車に「また後で行くからね」と繰り返す私。

主治医が「Kさんね、僕は8年診ていたんですよ。平成28年だった」これも7月だったのだ。

 

ご厚意で当直の方がタクシーを手配してくれて、23時過ぎに帰宅した。冷え切った身体には温かいカフェオレが身に染みた。