前回はGパンを取り扱う切っ掛けをお話しました・・・


今回はアメリカ屋のバイブルを紹介し、アメリカ屋が福岡でどの様にして現在の様なアメカジ中心の店に発展したかの話をチョコッとだけしてみましょう。



HAMのブログ-MADEinUSA



上記の本を憶えている方、おられますか?

まさしくこの本が、アメリカ屋のバイブルなのです。


この本は1975年4月25日に読売新聞社から発行されたリアルなアメリカ製品を紹介した日本最初の本です。


この中で紹介されている“男が着るアメリカの服”こそが現在のアメカジの基礎となっています。

取り上げられているブランドの一部を紹介しましょう。


Levi's  Lee  QUODDY(クォディ/インディアン・モカシン)  ブルックス・ブラザース  CONVERSE  PRO-Keds  REDWING  Chippewa  Eddies Bower  Abercrombie & Fitch(現在のアパレルではなく、ランドールナイフなどのカスタムナイフですが・・・)  KELTY  Tony Lama  などなど・・・もっともっと沢山のアイテムやブランドが紹介されています。


さて、アメリカ屋はなぜ今のようなアメカジ中心の店になったのか・・・


答えは単純です。

先代が店名にするほどアメリカが好きだったことと、アメリカ製品を取り扱う業者と知り合ったからです。


では、アメリカ屋が関わった輸入業者の一部を紹介しましょう。


1、BIG-JOHN 当時“Levi's”などアメリカ製品の並行輸入も行っていました。

  501や502などアメリカ屋も仕入れをしていました。


2、野間さんと言って個人でされていた方ですが、1972年に沖縄返還が日本に返還される以前から、パスポート持参で、沖縄に仕入れに行っていかれたいた方です。

 MA-1やコンバース・プロケッズなど多くのアメリカものを仕入れていました。


3、カントリーロード 当時大阪にあったアメリカ人経営の並行輸入業者で、Levi'sやワシントンD・Cのネルシャツ

 などアメカジ衣料全般を仕入れていました。


4、天下王 岡山県玉野市にあったUSEDのJEANS製品を中心に輸入していました。

 今ではお宝ヴィンテージと呼ばれる製品が普通に沢山あったことでしょう・・・


5、堀越 Leeやペンドルトンを日本に紹介した商社です。


6、FUNNY そうです、日本ウエスタンの代表会社です。

 Tony Lamaやチェンバー(ベルト)・テンガロンハットなどウエスタン商品を今でも紹介し続けています。

 アメリカ屋も公私共に大変お世話になっています。


これは、ほんの一部ですが、まだまだ今のようにインターネットも無かった70年代に、アメリカに足を運んで日本市場に本物のアメリカを紹介してくれた会社です。

私達の商売が今も続けられるのは先輩たちのお陰です。


今回はこれまで・・・

次回はアメリカ屋=ウエスタンと言われる様になったことをお話いたします。



アメリカ屋はこんな店です。

ご興味のある方はご覧下さい。


http://www.america-ya.com


 



今回はアメリカ屋が“Gパン”を取り扱う切っ掛けを、お話しましょう。 


アメリカ屋が1970年(昭和45年)創業と言うのは、前回お話しましたよね。


アメリカが好きで“アメリカ屋”と言う店名にしたけど・・・

肝心の商品は作業着中心・・・中古のGパンが少し・・・


なんせ、まだまだ今のように簡単にアメリカ製の洋服が手に入る時代ではありません。


途方に暮れているところに天使がやって来ました・・・


丁度その頃九州に進出して来た日本初のGパンメーカー“BIG-JOHN”の現オーナーです。


BIG-JOHN(B):『此処は、作業服屋か?Gパン屋か?』

アメリカ屋(ア):『Gパン屋タイ!』


B:『こげな商品でGパンが売れる訳ないやろ。待っとけGパンを持ってきてやる』


次の日、営業車一杯のGパンを持って来てくれ、

B:『売れたときに集金に来るから、頑張ってGパンを売ってくれ』


先代は涙が出るほど感謝し、BIG-JOHNのGパンを一生懸命販売したそうです。

それが、Gパン屋としての出発点になりました。



HAMのブログ-ひょうたんマーク

アメリカ屋で現存する最古の看板です。ロゴもひょうたんマークで時代を感じさせます。

知っている方おられますか????



では、此処で少し話しが前後しますが、先代オーナー半田一夫とジーンズの関わりに付いて、聞いた話をご紹介しましょう。


先代曰く、中学卒業写真にGパンを穿いて詰襟(学生服)で写ってるぞ!

物資が不足している時代、今のように校則も厳しくないのでしょう。

当時生家は、質流れ商品を扱っていたからそのときの商品だったと推測されます。


福岡でGパンを取り扱っていたのは、今はもう無くなってしまったけれど、千代町に『松屋』という、米軍の払い下げ商品を取り扱っていた所に将校たちが売りに来ていたそうです。

覚えている方もおられるのでは・・・


その後、同級生が就職で東京に出た18歳位の時、銀座セイコー前でGパンを穿いている人に『何処で買ったか教えてもらった』そうです。

その足で、上野アメ横のお店で10本(1本¥1,300)仕入れて?(買って?)生家の店頭に並べたそうです。

(1本¥1,800)で・・・

当時ウールの替ズボンが新品で¥2,000前後の時代、綿の作業着が¥1,800なんて売れる訳がないやろ!

と、親父や兄に怒られたそうです。

商品は一週間もせずに完売したそうです。

 そのとき、これからは質流れ品などの中古ではなく、新品の洋服の時代がやってくると確信したそうです。


長くなりました。

次回は・・・お楽しみに



アメリカ屋はこんな店です。

興味のある方は覗いてみてください。


http://www.america-ya.com





博多区祇園町で1970年(昭和45年)から営業を続けている“Gパン屋 アメリカ屋”が“上川端通 商店街”へ移転する・・・


このブログはその行程を記録する為のブログです。



まず始めにアメリカ屋の歴史を振り返ってみましょう。


1970年5月10日 アメリカ屋の先代オーナー“故半田一夫”は博多区上川端商店街で、両親・兄と経営していた、衣料品店“ハンダ洋品店”から独立し博多区冷泉町に“アメリカ屋”をオープンさせる。


店の広さは僅か4坪・・・

商品は・・・作業服中心 何時潰れてもおかしくない、まったく魅力の無い店だった・・・


なぜ、店名を“アメリカ屋”にしたか・・・答えは簡単です。 アメリカに憧れていたからです。


半田一夫は昭和13年12月の生まれです。

第二次世界大戦の足音が聞こえて来た所です。

1945年6月19日~20日に掛けて行われた“福岡大空襲”で家を焼かれその2ヵ月後、小学校1年生で終戦を向かえた少年の目には、博多の町に溢れる進駐軍に怯え・興味を覚えたのは、同世代の人たちには解って頂けるのではないでしょうか。

中学卒業後、家業の衣料品店を手伝う様になった少年は、テレビから流れてくるアメリカの豊かな生活に怯えより数倍憧れを抱いていきました。

中でも大好きだったのは“ローハイド”や“拳銃無宿”と言った“WESTERN”でした。


アメリカには沢山の洋服や文化がある、俺はアメリカの洋服を扱いたいので、“アメリカ屋”にしたと生前よく聞かされていました。


次回はGパンを取扱う切っ掛けについて話して行きましょう。

では、また・・・


アメリカ屋はこんな店です。

興味のある方は、覗いて見てください。

http://www.america-ya.com