フェイク 第1239号 (発行=11.09.23)



日顕の百六箇抄講義を論破
松岡幹夫著「公開問答十の破折」が発刊 ㊦
「阿部は偏狭で教条的な迹理への退行者」




 日顕は近年、その名を後世に残したいとの魂胆から「法華経」寿量品の説法集、「百六箇抄」の講義書、「観心本尊抄」に関する講話集の一・二・三巻と、矢継ぎ早に粗雑な著書を出版している。これら日顕の駄本を木っ端微塵に粉砕しているのが、この度、発刊された松岡幹夫氏の著書「破綻した阿部日顕の教学――公開問答十の破折」の第二部「阿部日顕著『百六箇種脱対見拝述記』の考察」である。

 第一部「阿部日顕の教学に対する十の学術的批判」が学術研究者の立場としての論考であるのに対して、第二部は「合理的な信仰者」としての執筆になっており、斬れ味鋭く、実に痛快だ。

 日顕の「百六箇種脱対見拝述記」は戦前の天皇の勅語や勅令を真似たカタカナ使用の文語体で、布教目的ではなく、後世に残したいとの思惑が窺えると、松岡氏は指摘している。

 そして松岡氏は、日顕の「百六箇抄」講義書が宗門史上、初の試みとしている点に言及。実は日顕よりも相当前の昭和五十二年、創価学会の池田会長(現・名誉会長)が「大白蓮華」に都合八回分の「百六箇抄」講義を連載しており、この事績が嫉妬深い日顕を刺激し続けて『拝述記』を発刊したようだと述べており、日顕らがどう反応するか、注視したい。

 また、日顕の『拝述記』の検討にあたり、池田会長の講義との比較を念頭に置いて論を進めたとする松岡氏は、日顕の底意が日寛上人を超える自己宣揚にあると見抜いたうえで、日顕の教学は矛盾だらけの詭弁で誤魔化しによる「曖昧」と「言い逃れ」の二点に尽きる、と一刀両断している。

 そして法義を撹乱する日顕の「区別主義」、さらに無慈悲な「愚民思想」、及び非学問的な「衒学(げんがく)趣味」などについて詳述している。

 例えば、松岡氏は、日顕が不自然な絶待妙・相待妙の考えによって題目や折伏を論じていることに触れて、次のように論破している。

日顕は訓詁注釈の徒

 「下種仏法の修行は自行化他にわたる題目であり、唱題と折伏は切り離せない。仏法究極の事の一念三千を修行するからには、自他共の成仏を目指すのが当然である。それを、阿部のごとく題目が絶待で折伏が相待などとし、そこに本迹勝劣を立てるならば、他者の救済の軽視にもつながりかねない」等と切り捨てている。

 これに対し、池田会長の講義について、松岡氏は日蓮大聖人の仏法の本迹観を信仰実践や社会生活に自在に適用、展開しようとするものだと述べ「池田会長の自在的で現実的な講義の方が、凡夫即極、色法成仏、事の一念三千といった『百六箇抄』の教説の核心に合致する」と記しており、極めて注目される。

 更に、松岡氏は日顕を理の世界に遊ぶ傍観者と指弾。「阿部にあっては事の日蓮仏法が〈理〉へと退行させられる」「阿部は自らが訓詁注釈の徒であり、偏狭で教条的な迹理への退行者であることを白日の下に晒した」「阿部の教学に信仰の歓喜はなく、あるのは死せる言葉の羅列のみである」と断じている。

 本書により、日顕の邪義の破綻は一目瞭然である。




$紅蓮の破邪顕正ブログ-fake_1239