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どのようにして「型」のないところに「型」を作ればよいのでしょうか

一つには、マナーというのは状況がどうであれ、
自己規制の下に守らなければならないものだということを
言い切ることだと思います。
込んでいる電車の中で同じことをすると、
確実に誰かが怪我をする可能性があるような場合。
もしくは込んでいるために
物理的なスペースが保てなくなって
マナー違反ができなくなるような場合。
そのマナー違反は、人がいなければ
してよいものではありません。
武道で言えば、悪いやつであれば
武道を習っていないものをぼこぼこに痛めつけてよいか、
と言えばそんなことはありません。
そういう場合はすんなり納得がいくのですから、
マナーだって同じことです。
行動の「型」が求められる行動すべてにおいて、
その「型」を状況によって崩すことが可能だと
思うこと自体が、マナー違反を作り出しているのだと思います。

自分が相手のことを気に食わなければ、
騒音で迷惑を掛けてみたり、
自分の思い通りにならなければ、
さまざまな暴力行為に及んでみたり、
そうしたことは
まず自己規制を掛けることで
不快感を連鎖させていくことをとめることができることだと思います。

二つには、なぜその「型」をとるのかを言語化することだと思います。
なぜ電車の中でつり革に傘の柄を掛けてぶら下がることは
いけないことなのか?
なぜ電車の中で裸になることは
いけないことなのか?
後者のほうが理由を挙げるのが簡単ですか?
前者は誰もいなければ、許されることなのですか?
そんなことはありません。誰もいなかろうが、
その行為者であるお子さんがいます。
行為によって自分が不快な思いをする可能性があります。
もしほかの人に同じことをされて不快感を連鎖される可能性がある場合、
それはどんなことであれマナー違反であり、
行動の「型」から取り外すべきことです。

「自己責任」と言う言葉の意味が、
最近は緩すぎる自己規制の免罪符のようになっています。
自分で痛い目を見てから責任をとればいいと言うけれど、
責任をとるまでもなく、その行動を起こす必要のないことまで、
行動に「型」がなく、自己規制の掛け方を
知ることなく大人になっていく人間は、
その「痛い目」にあう過程で、
まわりの何人もの人間たちに不快感を連鎖させていきます。
そういう形で不快感を流通させると、
どんどん自分が生きにくい環境を作り出すことになります。
そうすると、自分がもし何かをしたいと強く願ったとしても、
スライムのような環境の中から、飛び出すことはできません。
自分が広げてきた不快感のくもの巣にからめとられてしまいます。
「型」をしっかり作り上げてきたからこそ、
自分のやりたいことを発見した瞬間に
自分の環境のしがらみに整理をつけて、
ぽんと新しい環境に飛び込んでいくことができます。
それは無謀でもなんでもなく、
自分の生き方がうまくスイッチできているだけなのだと思うし、
そういう人たちが
武道の道に籍をおいていることが多いというのは、
あながち「型」の問題と関係がないわけなのではないと思います。