染井さんぽ/臨済宗勝林寺
実は巣鴨の本妙寺(旧本郷丸山=振袖火事の火元とされた寺で下総関宿藩主久世家を初め諸大名諸旗本各家から遠山の金さんや千葉周作墓もある)に荒木又右衛門の「鍵屋の辻の仇討ち」で河合又五郎を匿った旗本久世三四郎広当(7100石)と阿部四郎五郎正之(3000石)の墓碑を掃苔しようと田端から歩いて
先ずは大久寺へ。その後幕末の仙台・伊達慶邦が最初に葬られた西福寺に。そして本妙寺へ来たのだが、途中で引っかかった次第
引っかかりついでに震災から5年、今の状況を見るため染井霊園の中を抜け勝林寺に寄った。
勝林寺は元和元年湯島天神に創建、開山は勅諡禅河弘済禅師、明暦の大火で本郷蓬莱町に移転、明和九年に焼失、中興開基の老中田沼意次により再建され昭和15年現在地(豊島区駒込7-14-14)に移った。
その田沼意次はひときわ大きい唐破風型墓碑に
「隆興院殿従四位侍従耆山良英大居士」
と刻む。ほかの墓碑はすべて改葬され嫡男山城守意知と歴代藩主の合祀墓と夫人子女の合祀墓が各一基ある。
田沼家の左斜め後ろには備中浅尾に幕末諸侯に復した蒔田家、墓地中ほどには江戸初期信州高島城主だった(子孫は高禄旗本に)日根野高吉と歴代の合祀墓がある。
日根野高吉は軍学・武具に長じ
「日根野錣」
の名を残し、また築城も得意で諏訪湖の水を引き入れた水城の高島城はその遺産である。
勝林寺を出て
を見たら既に16時寸前
久しぶりに行こうと思っていた本妙寺はパスして遅めの昼を食いに地蔵通り商店街の「更科」へ向かう。



