お江戸の真相特別編-塩漬け②
高橋景保(1785-1829)の父は高橋至時といい伊能忠敬の天文学の師で、景保もまた父に天文学を学び、20歳で父のあとを継いで幕府天文方となった。その後、文化六(1809)年には「新鐫(せん)総界全図」という世界地図を作成し、翌年には「新訂万国全図」を完成させ、文化十一年、30歳で将軍家の蔵書を管理する書物奉行に就任、天文方も兼任していたので、父の弟子でもある伊能忠敬の全国測量の事業を監督するなど順風満帆な幕府官吏生活を送っていた彼が、何故に「塩漬け」にされることになったのか

それは長崎郊外に鳴滝塾を開いていたオランダ医師シーボルトとの交友が招いたものだった。
文政九(1826)年にシーボルトが江戸を訪れた際、景保はシーボルトを訪ね、お互いが必要とする資料の交換を約束した。
その中に景保が海外持ち出し禁止の地図などを提供した事実が発覚し、関係者の証言もあり文政十一年、重罪人として捕縛され、翌年二月十六日に小伝馬町牢屋敷揚げ屋で獄死した。
しかし、判決前の大切な身体ということで、塩漬け保存されることになった。
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