松尾スズキ氏の戯曲に「悪霊」という作品がある。
なんともよく出来たお話で、私はこの作品が大好きだ。
その中に登場する台詞の中に、とても考えさせられるものがあった。
「完全なる世界にようこそ」
ここで言う「完全なる世界」とは、人が思い描く理想的な未来のことである。
作品の中では、漫才師・ハチマンが「大きな家に、キレイな妻と子どもがひとり。平和で、慎ましくも幸せな生活」という「完全なる世界」を手に入れるため、下女に唆されて下半身不随の相方・タケヒコを殺そうとするのである。
私にも、そんな「完全なる世界」がある。
しかも、私のそれはハチマンの思い描くものと全くもって同じなのである。
だからこそ、私は作品の中で「完全なる世界」を手に入れるために堕ちてゆくハチマンを見ていられなかった。
ただの「フィクション」だとはどうしても思えなかったのである。
「完全なるもの」という「概念」そのものは存在するかもしれない。
しかし、現実には何の綻びもない「完全なるもの」など存在しえないのである。
「完全なる世界」に関してもそれは同じなのではなかろうか。
「完全なる世界」を追い求めたところで、結局はどこかに綻びが生じ、手に入れることはできなくなってしまう。
私の「完全なる世界」にとって、その綻びは私自身ということになりそうだ。
私の身体的、性格的欠点がこの先の未来「完全なる世界」を追い求める上で確実に障害になる。
そのように思えて仕方ないのである。
私はこれからどのような人間になっていくのだろうか。
そして私は、どのようにして「完全なる世界」を追い求めてゆくのだろうか。
手に入れられないに違いないという妙な「確信」がつきまとい、私はまたひとつ「無駄な人間」への階段を登るのである。