全米オープンテニス2006にて、灰原のアイドルのひとり、アンドレ・アガシがついに引退してしまいました。
現在ではつるんとしたスキンヘッドに趣味の良いウェア、そして柔和な笑顔が印象的なアガシですが、灰原がテニスのテレビ観戦をはじめたころには、伸ばした金髪をライオンのようにたなびかせ、派手なウェアとエキセントリックな言動でたびたび物議を醸す、チョイ悪アイドル選手でした。
当時テニス界を席巻していた、時速220キロを超える超高速サーブが武器の『ビッグサーバー』、クーリエやベッカー、イバニセビッチといった長身選手たちを、テニス選手にしてはやや小柄(公称180センチ。シャラポワが183センチ、松岡修造が188センチです)なアガシが、粘り強いストロークとライジング打法によって撃破していく姿は、そりゃあもう痛快のきわみ。
ウィンブルドンの家族席に、当時の恋人だったブルック・シールズ(彼女も人気絶頂!)が座っていたりするのも華々しかったな。
ウィンブルドン・全米・全豪のタイトルも制覇して、20代前半に、アガシはプロテニス選手としての頂点を極めたといっていいでしょう。
でも、アガシがたんに一時代を築いただけの選手だったら、こんなに灰原はファンにならなかったと思う。
アガシが本当にすごいのは、ここからです。
人気実力絶頂だった20代前半がすぎ、20代も後半に差し掛かったころ、アガシは大スランプに突入しました。
一時は、世界ランキングが100位以下に落ち込みました(いま調べたら、最低で141位だそうです。うわあ)。これがどういうことかというと、つまり、四大大会のシード権を失うということです。開催者が特別に発効するワイルドカードでの出場か、もしくは予選大会を勝ちあがらなければならない。
予選上がりの場合、シードではないので、当然試合数が増えます。勝ち上がれば勝ち上がるほど疲労がたまっていく。ワイルドカードの場合も、下位シードでスタートですから、高位シードの強敵とトーナメントの早い段階であたってしまいます。優勝の可能性はどんどん低くなっていき、大大会での戦績が落ちるほど、またランキングも落ちます。
……最悪なスパイラル。
アガシのスランプは3年ほど続きました。スポーツ選手にとって、短い年月ではなかったと思う。アガシは20代も後半になっていたし、人気も財力も得ていたから、楽隠居しようと思えばできたでしょう。実際、アガシのライバルだったクーリエなんか、25歳過ぎには引退しちゃいましたもんね。
でも、アガシは引退しなかった。みんなに終わった選手と目されながら、彼はツアーに出続けました。
1999年、アガシは復活を果たします。
1999年の全仏オープンは、記憶に残る、いい大会だったな~。
女子単優勝者シュテフィ・グラフ、男子単優勝者アンドレ・アガシ。無敵の覇者と呼ばれた時代を持ちながら、長い不調時代にもめげずに競技を続けたふたりが、若かったころ以上の輝きを発揮して優勝する!
諦めずに頑張ってる選手にはいいことあるよ! と、テニスの神さまが言ったみたいな気がしました。
この復活譚には続きがあって、グラフとアガシは大会後に婚約しちゃいましたよね。なんか、おとぎ話みたいですけど。
『芝の女王』シュテフィ・グラフを伴侶に得てから、アガシは第二の黄金期に突入します。
1999全米オープン優勝、2000年、2001年、2003年、全豪オープン優勝。
球速……とくにサーブスピードが勝利において大きなパーセンテージを持つがゆえ、体力的に不利なベテラン選手は、ピチピチの若い選手に勝つことが難しい、と言われている現代テニスで、戦術的技術的進化、そして試合を最後まで諦めない精神力によって、充分若さに比肩できることをアガシは証明してくれました。
引退大会となる今年の全米オープンでも、2回戦では、今年の全豪準優勝者にしてウィンブルドン4強、絶好調の21歳、キプロスのバグダティスをフルセットで(!)下しました。
3回戦で、ドイツのB・ベッカー選手(かつての世界王者B・ベッカーとは別人。予選上がりで現在の世界ランクは112位! これからこの人にも頑張ってほしい)に敗れてしまったけれど…。
さようなら、アンドレ・アガシ。たくさんのいい試合を見せてくれて、本当にありがとう。
彼が、私たちファンに「さよなら」を告げるのが「つらい」と言ってくれたように、私も彼に「さよなら」というのが悲しいです。
コートを去っていく彼に、西部劇のラストシーンで正義の味方を見送る子どもみたいに、「アガシ、カムバック!」と叫びたい。でも、拍手で見送ってあげなきゃいけませんね。
アガシは、もう充分に戦ったのだから。