人は誰しも、自分の存在を何かの「役目」と結びつけて生きているのではないだろうか。

自分の役目が終わったと感じたとき、

どのようにするのが良いのか、生と死、どちらにも大きな意味があるのだと思う。。。


家庭においては親として、職場においては働き手やリーダとして、男女の仲、友人関係、社会においては一市民としてなどなど。
みんな色々な役目をもっている。

死んだとしても、お盆には大切なひとに帰って行く。

果たしてどちらが良いのかわからない。


その役目が一区切りを迎えたとき、ふいに心の底から
「自分はもう必要とされていないのではないか」
「自分は居てはだめなのではないか」などという感覚に襲われることがある。
その瞬間、私たちは自分の居場所を見失い、どこに立てばよいのか、この世界に居ることすら悪いのではないかと感じる。

だが「役目」とは本当に終わるものなのだろうか。死んだとて必要とされてるならば「役目」は流れていくのではないだろうか。
それはむしろ、形を変えて流れ続けるものではないか。

流れる川が地形に沿って姿を変えるように、人の役目もまた時間の流れや周りの要望に沿って変容していっても良いのではないだろうか。

したがって「終わった」という感覚は、実のところ「変化の兆し」にすぎないかもしれない。

私たちが喪失と感じるものの奥には、すでに新しい役割への入口が潜んでいるのではないだろうかか。

いったい居場所とは何だろうか。
それは「他者から与えられる空間」ではなく、「自らが築く関係性」「自らが感じるもの」であるのかも知れない。

もし居場所を他人の承認に依存してしまえば、役割を失った瞬間にその基盤は崩れてしまう。
しかし居場所を「自分がつくり出すもの」ととらえるならば、失われることはない。
 ずっとそこにあるものになる。

私たちの思考、言葉、行動が小さな種となり、それが人とのつながりを生み、新しい場を形づくっていく。
居場所とは、探して見つかるものではなく、
自らが耕す土壌かも。

さらに、居場所は一つであることもないのか?

職場に一つ、家庭に一つ、友人関係に一つ、学びの場に一つ。
複数の居場所をもつことで、人は一つの役割が終わっても崩れ落ちることなく、自分を支えることができる。

「私はここにしかいられない」という発想から自由になることが、精神の強さにつながる。

しかし究極の居場所は、外部ではなく内部にあるのかも知れない。だから魂が大事なのだと思う。

人からの評価や役割の有無に左右されない、心の奥深くに沈む静かな空間。そこにおいて人は、ただ存在しているだけで十分であり、何かを証明する必要もない。

哲学者であるハイデガーが「人間は世界内存在である」と語ったように、私たちはすでに世界に投げ出されており、その存在自体に意味が宿っていると思う。
役目を果たすことは生の一部にすぎず、存在そのものが否定されることは決してないはずだ。

だからこそ、自分の内に「ここでよい」「ここにいたい」という居場所を築ける人は、外の変化に翻弄されることなく生きていける。
これは他人からみて分かり得ない。
本人のみぞ知るだ。

結局、「役目の終わり」とは何を意味するのか。
それは生の川が新しい流れへと方向を変える瞬間であり、居場所を再構築する起点である。

人は役割を失うことで初めて、自分の存在そのものと向き合わざるを得なくなる。
その苦しみの中で、人は「自分は役割以上の存在である」という事実に気づいていく。

居場所を求めることは、生きることそのものだ。

ある人は、「生きることこそが勝ちである。生き続けている貴方は勝者てある」と説いた。

これだけ混沌として生きるが辛くなってきた時代、生きることが何の意味がわからないまま、苦しいことが多いなか日々をすごしている。
たごら、これを続けている人は勝ちだということなのだろう。

外に築き、内に抱き、複数をもち、そして変化を受け入れる。

役目の終わりは、終焉ではなく始まりであるのかも知れない。

この現実を受け入れたとき、新しい居場所はすでに私たちの周囲に芽吹きはじめるのかも知れない。

渡り鳥が羽根を休めるためによる
湖のように、人間にも魂を休める湖という
居場所が必要なんだろう