愛した人と話せなくなり、心にあるザラザラした気持ちを仏教の教えから見つめて見ようと思う。
愛するとの時間は、ほっとできるひとときでした。
何も言わなくても通じ合えるような、そんな静かで、あたたかい場所が、ふたりの間には確かに存在していたんです。
今もふとしたときによく思い出す。

それでも、あのとき感じていた安心や優しさは、ずっと心の中に残っています。
これは本当に愛していたから残り続けるのだと思う。
これまでの人には感じたことがない感覚だ。

この想いを、手放さなければいけないのか。
忘れることが本当に正しいのか。
何度もそんなことを考えていたとき、ふと仏教の教えが心に浮かびました。

仏教では、「愛する人と別れねばならない苦しみ」のことを愛別離苦(あいべつりく)といいます。
それは、生きていくうえで避けて通れない苦しみのひとつであり、私たち誰もが経験するものだと。

また、「すべては縁によって起こり、縁によって変わっていく」という考え
縁起(えんぎ)は、Ayと私が出会い、心を通わせ、そして別れたことにも通じます。
ふたりが過ごした時間は、たしかに意味があったし、それが今の自分をつくっている。
これからも意味がある付き合いをするだろう。

深く愛したからこそ、執着も生まれます。
仏教ではそれを執着(しゅうじゃく)と呼び、
心の苦しみの根源とされるものです。
ただ、ここで大切なのは、手放す=忘れる、ではないということらしい。

本当に大切に思っていたなら、その人の幸せを祈りながら、そっと心にとどめて生きていく。
それが仏教でいう「慈悲(じひ)」の心。

私が、彼女を想いながらも無茶をしないと決めているのは、それが、彼女を守ることにつながると信じているからです。
それでも時々、思い出す。
ふたりで過ごした、あのやさしい時間を。
そして、静かに祈る。
どうかAyが穏やに楽しくに生きていますようにと。

それが、今の私にできる、いちばん誠実な行動なのかもしれません。

どこでもドアがあったらいいな🚪