☆濹東綺譚　1937.8 岩波書店刊

　表題作について今回はその挿画に焦点を当ててご紹介したい。

　この小説は昭和12年の4月に先ず私家版として鳥有堂から刊行されて同時に東京朝日新聞に連載、2か月間の連載中に洋画家木村荘八による挿絵が載せられ、同年8月に岩波書店より木村の挿画も採用されてその絶妙なタッチの挿画は、荷風の作品の格調を上げたとさえ言われている。

　作品そのものは、偶然に知り合った中年男と私娼の女のやり取りを中心に描かれる。

　原作では男女の直截的な性行の様などは一切描かれていないのにも関わらず、映像化されるとそんなシーンばかりが強調されてしまうのは、荷風のキャラクターゆえなのか。

　最初に映像化された1960年の東京映画で名匠、豊田四郎監督の作品は、そう言う点では鑑賞に堪える唯一の映像化作品と言えるかも知れない。

　が、あれとて少々お上品に過ぎるきらいがあって荷風の描いた精神世界を再現したとは言い難い。

　お雪を山本富士子…と言うのがやはり気品があり過ぎた。

　彼女はどう見ても玉ノ井の私娼ではない。

　玉ノ井と言うのは今の東京スカイツリーのある地で今あの地でその面影を探すのは流石にキツい。

　実際の荷風がお雪のモデルの黒沢きみと知り合ったのは昭和8年のことだったが、物語の冒頭、夕立の驟雨雷鳴の最中、玉ノ井の狭い路地で傘を指した荷風にいきなり飛び込んできた丸髷のをんながお雪であった。

　当時、昭和の初期でも島田や丸髷に結った女は10人に1人くらいなものだったので、この旧風な女に溝の汚なさ、蚊の鳴声、鶴屋南北の狂信世界に通ずる過去の世のうら寂しい情味に魅せられて玉ノ井に通い始めた荷風を、激しく刺激した。

　場末の遊里には

　…日陰に住む女達が世を忍ぶ後暗い男に対する時、恐れもせず嫌ひもせず、必ず親密さと愛憐との心を起す

義侠がまだわずかな残滓をとどめてはいた。

　…わたくしの力に依って、境遇を一変させやうと云う心

　を敏感に感じ取る荷風、これまでは相手の望むままに家に引入れてはいたが、家に入れるや懶婦になるか桿婦に変わってしまう…つまりは同棲すると女らしさが消えてしまう、それが嫌でそれまでの荷風は一年もせずして同棲を解消してきた。

　お雪もさうなるやもしれぬ…

　共に本名も住所も過去も知らぬうちに、別れる方が良い

　…が、軽い遊びではじめたこととは言え再会の望みなきを初めから知り抜いての別離の情は

　…鳥打帽子で顔をかくし人陰にかくれてそっと路地へ身をしのばせ、

　…その後のをんなの様子をさぐり

と、未練未練の別れなのだ。

　幾重にも連なる木村荘八の挿画に少しでも浸って頂こうと　…から始まる短文は本文からの引用である。

　最後の幾葉かの写真は座右の銘「昭和二十年東京地図」からのもので、写真家平嶋彰彦氏撮影の同書の風景写真だが昭和60年頃即ち今から35年前の旧玉ノ井一帯のものである。

わたくしの本棚 #2