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秦氏が原始キリスト教徒で日本の文化の根幹を作ったと発信している輩に告ぐ。

これが秦氏=八幡の現状だ。

逃げるな、ごまかすな、嘘つくな、上からもの言うな。

子供の笑い声が消えたところに神がいると思うのか。

ロスチャイルドとかロックフェラーとかハザールとかニムロデとか、そういうのはどうでもいい。

世界でこんなことをしているのは日本だけだ。

 

だまされる方が悪いとか、だました方が悪いとか、この言い方には罠がある。

選択が違うのに結果が同じ「悪い」という事象になるわけがない。

だまされる方には後悔があり、だました方には罰がある。

こう言った方が、より的確に、より柔軟に振る舞えるのではないだろうか。

 

日本語のあいまいで遠回しな表現を秦氏礼賛者は雅とか奥ゆかしいとか言ってるかもしれないが、そんな京都の揚げ足取り文化などクソ喰らえだ。

「ぶぶ漬けいかがどす~」

嫁に対し、見合いの席でのお粗末を、死の床まで責め続ける姑文化を日本の美と呼んでいる輩よ、それこそクソユダヤだろうが。

自分の息子に嫁いでくれた嫁をいじめる秦氏文化の何が日本だ。

離婚はしたが、ビル・ゲイツの嫁さんの方が幸せな気がするわい。

 

京都の秦氏の文化を示す物語の一つが浦島太郎である。

浦島太郎は永遠の命をもたらす龍宮の姫を殺害し、その肉を玉手箱に入れ、母に食べさせるために故郷に帰ってきた。

結果は知られている通り。

この続きが八百比丘尼となるわけである。

物語は助けた亀となっているが、実際は捕まえた亀(亀=乙姫)を逃がしてやるかわりに龍宮に連れて行かせたとなっている。

捕まえて無理矢理結婚するのは天女の羽衣の話と同じ。

滋賀県の余呉湖に伝わる伝承では、その子孫が菅原道真である。

天と海はどちらもアマであり、しばしば同義となる。

道真が河童の頭領であることからも、アマは海といえる。

子供の歌から天女の羽衣を見つけて天に帰るとあるが、天女の羽衣とは天女の死体のことであり、これもまた玉手箱の中身に同じ。

漁師が琵琶湖で捕まえた人魚(もちろん命乞いしているのに助けない)の肉を子供たちが食べ、人魚になって死んでしまったのを悔いて自らも人魚になった話も同じであろう。

そのミイラが近江八幡市(旧安土町)の寺に残っていたが、火事で燃えてしまった。

天人の衣を着せられて月に帰ったかぐや姫は、不老不死の妙薬の箱を帝に遺して行ったが、これもかぐや姫の死を表し、その肉を入れた玉手箱に同じ。

その薬を焼いた富士山は不死の山ではなく、士(つわもの)に富む山だから富士山というオチになっている。

つわものに富むとは、体が鉄でできた大百足つまり武装した百の足(人)がいる三上山(近江富士)となる。

かぐや姫の亀はスッポンのことであるため、淡水域の物語となり、人魚伝説とくっつけてこれもまた琵琶湖となる。

因幡の白兎を襲ったのは和邇であり、この地名が残る滋賀県と琵琶湖がその舞台となる。

 

龍宮城、沖ノ島(天人の住む蓬莱山がある)、人魚など、昔話の舞台が集中しているのは近江八幡である。

それが現在、この有様である。

永遠の命をもたらす人魚の肉をどのように解釈するか。

国民は猿から抽出したワクチンをそのように見做している。

火事で燃えた人魚のミイラは鯉と猿をくっつけた人形であった。

あれは偽物だとまことしやかに言うだろうが、猿から作ったワクチンを打っている世の中の人間は、あのミイラを笑うことはできないのである。

 

玉手箱は小脇に抱えた形を想起するかもしれないが、場面によって産屋や船、籠、金属製の器などに姿を変える。

かごめ歌のかごも玉手箱の一形態である。

かごの中の鳥は乙姫であり、かぐや姫であり、天女であり、人魚である。

鶴と亀がすべったの「すべった」は、もしかしてツベルクリンを指していないか。

ツベルクリンはアレルギー反応である。

アレルギーが、ワクチンの2回目以降の接種後の反応をルーツとすることに、誰が気づいているだろうか。

アナフィラキシーショックとも言うが、要するにアレルギーである。

特にスズメバチに2回目に刺された時に言うが、聖書の預言ではアブに刺された者の肉体が溶解するとある。

このアブを虫のアブではなくワクチン注射と見るべきだろう。

かごは病院を指していることになる。

鶴とは浦島太郎であり、亀は鳥に同じだが、鳥の方は天に帰った死後の乙姫となる。

後ろの正面とは、マスクやパーテーションで正面をむいての会話を禁じられた子供たちを指していないか。

 

近江八幡、キリストを十字架につけたヘロデの子孫よ、裏切ったユダの後継者よ、メンタームのヴォーリズがなぜここを世界の中心と見なしたのかを思い起こすがいい。