風景としてのトルコ 不思議の国トルコの旅日記
2002年1月


目次

第1章メルハバ・トルコ         1月4日
第2章寒波襲来・イスタンブール     5日
第3章寒波のトロイ・ベルガモ       6日
第4章エフェス・パムッカレ         7日
第5章コンヤからカッパドキヤへ      8日
第6章大雪のカッパドキヤ         9日
第7章アタルチェク霊廟・アンカラ急行  10日
第8章メルハバ・イスタンブール      11日
第9章さよならトルコ             12日 



第1章 メルハバ・トルコ        1月4日

             

(出発・機内)
早朝、刺すような冷たい空気に触れながら家を出た。快晴で、昨日の寒気が大雪を列島にもたらして交通に影響がでていた。トルコへの格安ツアーを見つけ申し込み、今日が出発、今、成田空港にいる。
近畿ツーリスト(私は「近ツー」というのだが、皆は「近ツリ」と言う)の団体受付カウンターに行くと、添乗員「コガ」とある表示の下で、小柄で若い女の子が応対している。色白で小さい口に前歯が2本、可愛らしく目立つ。こんな女の子が40人も引き連れていくのは大変だ。反面若すぎて融通が利かないのではないかと思った。
12時20分を過ぎて、スイス航空SR169便への搭乗案内が始まった。
スイス航空は初めてで、機内は日本人の団体客で満席だ。日本人の『スッチー』もいるので安心だ。最近はどの航空会社の飛行機にも日本人乗務員がいる。時代の変化を感じる。
われわれの席は最後尾の40H・Jで二人席、正面に向かって右列、通路を挟んでトイレがあり、その後ろは乗務員の作業ルームになっている。欧州で作られているエアバスの大型機であるが、ジャンボに比べると小さい。この席の位置は少しうるさいかもしれない。いつも翼の上の席を当てがわれて窓からの眺めを得ることができないのだが、今回、飛行中の眺めはよさそうだ。団体ツアーも最近は個人でチェックインするので席を一緒にするのが難しいのだそうだ。前列の席には若い男性と少し濃い目の化粧をした熟年の女性が座ったが、連れではなさそうだった。
「今回は喧嘩しないでいきましょうね」と、裕子は言うが、どうも一つ一つ気にかかる物言いをするので面白くない。私の自尊心を傷つけて平気でいるのが堪らない。我慢、我慢!

(離陸)
離陸体制に入る。耳栓をする。いつもキーンと耳が痛くなるので、耳栓を前回のドイツの旅行の時に買った。耳が痛くならない。効果はある。チューリッヒまで12時間のフライトであるとアナウンスがあった。
12時58分機体が動き始め、滑走路にでる。離陸13時12分。
ぐんぐん上昇していく。太平洋にでて大きく左旋回して北を目指す。冬の太陽の長い光線が窓から入る。まだ水平飛行にはならない。かくして裕子は13度目の、私は10度目の海外旅行の始まり。トルコ10日間10万円!なんと安い。
シベリア上空からドイツ、スイスへと飛行する、天気は良好とのこと。眼下は雲で何も見えなくなった。
今日は時差の関係で31時間起きていることになる。徹マンを朝7時までやって、そのあと昼まで寝て、起きたらちょうどむこうの朝になっているという感じ。機内で眠ってしまうと明日の昼間がつらくなる。今日は寝ないでいるか。やることがなくヒマだ。眠るしかない。

(シベリア上空)
晴れた昼間にシベリア上空の大地を見ながらフライトするのは初めてだ。イタリアもドイツの時も夜だか雲だかで、見ることがなかった。道もない低い山々が起伏をつくる大地が、樹林のあるところは黒く灰色に、ないところは一面真っ白でその眺めには果てしがない。1万メートル程度の上空だと大地に手が届くようだ。人工衛星だって300キロ上空というから、地球のヘリを舐めているようなものだ。川がうねって山々の合間を縫っている。それでも人工的な一筋の線は道路であろうが、人が住んでいる気配などまったくない。
川幅の広い大きな川が眼下にあるが、表面は白い。凍結しているのだ!
15時15分。ウラジオストックの北方の山地を越えて、モンゴル平原の北端のエリアを通過している(のだろう)。機体が少し揺れる。大草原を流れる大河がある。川は四本の筋に別れいずれも凍結していて白い。川幅は2キロ位ありそうだ。多分アムール川だろう。
17時35分。シベリア上空は灯り一つない。大地も真っ暗だ。頭上に星が一つ。金星かな、輝いている。
18時34分。今ロシアは夜。深夜3時ころの時間帯を飛んでいる。スイス時間だと午前10時41分。
映画はロバート・デニーロの「おかしな二人」。あまり面白くない。機内で見るのは活劇がいい。


(トルコという国・イスラムと近代化)
トルコは調べてみれば見るほど面白い国だ。ヒッタイトの歴史、アンカラに近いハットウシャシュやヤズルカという遺跡があり、この国にメソポタミヤ文明後、エジプトを常に脅かしていたヒッタイトの故国がここにあるとは、ガイドブックを見るまで知らなかった。ヒッタイトの歴史的存在だけは知っていたが、まさかトルコとは、である。旧約聖書にも関連が深い。キリスト以前のギリシャ・ローマの地中海文明、まさに古代史の舞台でもあるわけで、ホメーロスのトロイの神話、キリスト教とカッパドキア、ビザンチン帝国の首都コンスタンチノーブル。セルジュークトルコからオスマントルコ帝国時代のイスタンブール。
「アラビアのロレンス」で敗走するダマスカスのトルコ軍の映像が蘇える。そして第一次世界大戦後のアタルチェクの革命を経て、現代の中東イスラム的世界で政教分離をなしとげている唯一の国として、また東西文明の十字路の地域の持つ歴史的遺跡の数々にも興味は尽きない。他の中東イスラム諸国とは異なりヨーロッパ志向政策をとり、NATOに参加するイスラム国である。今回のツアーは古代ギリシャ・ローマの時代、ビザンチン帝国の時代、オスマントルコの時代を垣間見ることができるだろうが、現代のトルコのあり方を見ることが一番興味のあるところだ。なぜに欧州の一員たりえるのか、それが知りたい。今回のトルコの旅には目的を二つもった。

一つは、トルコ軍楽隊の行進曲の演奏を聴くことである。トルコ軍楽隊の味のある音色の行進曲を以前から聴きたいと思っていた。二つ目は、現代トルコはイスラム的世界の中で政教分離ができたのは何故かを、その理由を知ることだ。二つ目のことは、トルコに行くことを決めてからのテーマとなった、と言うより9月の同時テロ事件によって喚起されたテーマであった。
アラブ的イスラム世界の昨今の事情を考えれば、トルコの特異性が際立ってくる。
イスラム教は、紀元632年にマホメットが布教して成立する。キリスト教に遅れること600年である。キリスト教は16世紀に原理主義による宗教改革が起こり、プロテスタント諸派が誕生し、近代思想の震源地となった。イスラムは布教後14世紀を経て、原理主義が叫ばれている。イランの革命や今回の運動に表されるものだが、キリスト教の原理主義運動とイスラムの運動の違いは何だろうか。プロテスタント信者が国家の支配から信仰を守ろうとしたのに対し、イスラムでは宗教国家を作ることを目指しているのが大きな違いだろうか。なぜイスラム世界はアメリカを敵とするのか。それはイスラエルとパレスチナの対立が現象面であるけれど、その根底にはイスラム教の中に理由があると思う。

キリスト教とイスラム教の根本的な違いは、イエスが「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」と、当初からローマ帝国という世俗権力との対抗から、現世にではなく彼岸に救済を求めたことにより、政教分離が出発点からあったことに対し、預言者マホメットは、その原初からアラブ的生活慣習のなかで世俗的権力をもかねていたこと、宗教的原理で世俗的権力を支配すること、マホメットの死後、「カリフ」と呼ばれる預言者の後継者支配が政教一致を前提とした社会をつくりだした。だから政教分離にではなく政教一致の国家体制にもどることがイスラムの原理主義運動になっていく。これは近代西欧社会が作り出してきた秩序とは真っ向から対立する運動になる。この宗教運動を封じ込めて、現実的政治体制を維持するには、権力そのものとしての暴力=軍事力をもつことになる。中近東のイスラム世俗的国家は軍事的独裁的国家的傾向が強い。中近東イスラム諸国のなかで、民主主義的政治風土をつくりだしたトルコは際立っている。これは強調されてよい点だと思う。アラブ的イスラム世界に民主主義は成立するのか。これが問題なのだ。
キリスト教の宗教革命は個人主義の思想を生み出し、現在の民主主義の根底の思想となった。神と一対一の関係を想定する。ところがイスラム教にはこの個人主義的思想を生み出す要因がないのではないだろうか。イスラム教は族長倫理というか血族的共同体を前提とした宗教思想なので、その共同体から離脱することができない。イスラム教のなかにはスーフィズムという宗派があり、禁欲的・瞑想的・修道院的生活をして世俗から離れて神に奉仕し、修行を積むという運動の大衆化が図られてはいるが、主流ではない。個人主義的思想の土壌が無さそうなのだ。
だからアラブ的イスラム世界の近代化は、思うほど簡単ではない。イスラムの思想は現世肯定、伝統主義的、現状秩序の維持である。原理主義運動は常に政治権力に抵抗する宗教的運動となる。イスラム教では聖戦を行うことで天国に行けるという「救済教義」がある。この場合の「聖戦」思想は神の教えを実践する苦難に立ち向かうことを本来は指すのだが、異教徒と戦うことが「聖戦」の思想と解釈されるようになっている。これは600年前のキリスト教の「聖戦」と変わらない。だから今回のテロ活動が優秀な学歴のあるイスラム教徒に受け入れられていく背景がある。

またコーランをイスラム世界では絶対視するあまり、その中の歴史認識の誤謬や科学的認識の誤謬を正せないし、文献的研究を拒絶することによって、解釈が伝統的解釈のままに措かれてしまう。イスラム教からはマルクス主義的思想や近代合理主義的思想は生まれてこない。
西欧では貧しい者を救済するための思想としてマルクスの革命論がうまれたが、イスラムでは豊かな者は貧しい者に喜捨をすることで現状を肯定してしまう。貧しい者は、喜捨によって生きることを恥とも罪とも思わない。悪く言えば「たかり」の思想であり、豊かな者は喜捨することで、搾取していようが不正をして蓄財しようが許されてしまう。ひらたく言えばそんなことだ。イスラムの特徴を見ていると、そんな風に思えて悲観的になる。今もって貧富の差は激しい。ここにも経済的な閉塞感が大衆にはある。
ただ中近東の政治体制は、軍事的独裁的性格のため、大衆には政治的自由がない。イスラエルとの数次にわたる戦争で経済が麻痺し、石油を武器にアラブは戦ったが、アメリカの援助なしには成り立たない経済背景などもあって湾岸戦争に加担させられたのだ。それが更にイスラム教国家の政治的閉塞状況をつくりだして、その噴火口としてテロ事件がおきた。


それらの背景のなかでトルコを見ると、初代大統領になったアタルチェクが政教分離を成し遂げ、文字を変え、文盲をなくし、女性に参政権を与え、西欧的システムを採用しようとした。当初一党独裁であったが、大戦後、選挙による政権交代を平和的に行った。政治的に開かれた制度を作り出した。
経済行動を見ると、イスラムには常に二重倫理があり、建前と本音が違い、どちらかと言えば、人間的に生臭い。「近代」資本主義的尺度で測ることが難しい倫理観がある。その顕著なのが経済活動だろう。定価販売の思想は当初からない。彼らは今もって冒険的資本主義者なのだ。彼らにはヴェニスの商人や、ユダヤ人商人こそよき友であり、競合者なのだ。商業に定価がなければ原価計算ができないし、近代的な帳簿、会計制度も適応できない。経済活動の原理は、イスラム的教義の枠の中にあり、シンドバッドやアリババは生まれても、産業革命を起こすことはできなかった。西欧の「近代」資本主義も次第に倫理性が薄れて、前近代的な投機的資本主義、拝金主義的になるかもしれないが、「近代」資本主義が作った枠組みが壊れるとしたら、高度な技術を駆使した「スター・ウォーズ」の世界になるかもしれない。
今でも近代資本主義的システムが機能しているのは、アメリカと西欧諸国と日本だけだ。この枠組みのなかに生きるのが辛くなったら、また中世のような時代になって、貧富の差は拡大し、中産階級は消滅するかもしれない。中産階級というのは「近代資本主義」が生み出した歴史的には実に稀な階層なのだ。西欧の自由農民、古代ローマの重装歩兵を担った自由農民と同じく、消えていく階層かもしれない。
イスラムの世界観に照らせば、アメリカ的世界こそ異質であって、常に敵対し聖戦の対象となる存在なのだ。
砂漠の宗教を、緑豊かな温暖気候の風土のもとで理解しようとしても困難である。しかし、9月の事件と同時代を生きる者にとって、できるだけの理解はしたいと思う。世界中に貧しい国が多すぎることが本質的問題なのだと思うが、アタルチェクの革命は、トルコの近代化、経済のテイクオフを目指したものと捉えれば、その意味するところは偉大で賞賛に値する。だからその歴史的背景を知りたいと思う。
イスラムについてもっと知りたいが、私は悲観的に見ている。つまりイスラム社会の近代化に対して、否定的である。だからこそ、現代のトルコを知りたい、そんな思いがこの旅には秘められている。


(ヨーロッパ上空へ・ワインの注文)
20時09分。ロシアの真っ白な大草原の中にぽつんと小さな集落の灯りがあった。大海に浮かぶ孤島のようだ。それ以外灯りは窓からは一つも見えない。隣の集落までどれほど離れているのだろう。ロシアは人間が自然に支配されながら生きているようだ、上から眺めてそう思えた。
ロシアの大地を見ながら上空を飛ぶのは珍しい。シートベルト着用のサインも一度もでないし、穏やかなフライトだ。それでもまだ5時間はフライトしなげればならない。日本を発って7時間が経過したところ。20時40分。おにぎりが配られる。夜食のつもり。ヨーロッパ・ロシアに入ってきているのだろう。大地は雪に覆われているが西方の空が青ずんでいる。
昨年の末から髭を伸ばしている。
今日で2週間近くになる。今回は様になりそうな気配。裕子もやめろとは言わない。痩せた顔なので自分でも似合うように思えるのだが、どうも毛穴の密度が薄い。顎の下の髭は白髪交じりで胡麻塩のようだ。髭も可笑しくない歳になったか。
飛行機は今ウラル山脈を越えて行く。テレビ画面に航路が映されているが、モスクワはもっと南だ。
機内でお土産品の販売が例のごとくあるのだが、カタログを見ていると、具合のいい6本セットのワインがあった。いずれもヨーロッパ産である。ちょうど検討しているときに、「コガ」さんが通りかかる。
「古賀さん、トルコのワインは美味しいですか。ヨーロッパのワインとどう?」
「トルコのワインは安いんですよ、ですから現地で飲むのはいいんですけど、お土産はヨーロッパの方がいいんじゃないでしょうか」
「じゃあ、決まり。これにしよう。ありがとう」
出掛けに知り合いの奥さんがワイン好きなのでと頼まれていたなで、特別の3本セットのボジョレイと併せ、6本セットを注文する。帰国翌日には家に配達されるので便利だ。
22時45分。スイス時間14時45分。眼下に大きな町が見えた。海も凍結している。もしかしてサンクトペテルブルグかも。航路図を見ると確かにサンクトペテルブルグの上空を飛ぶようになっている。バルチック海の上なのだろう。
今23時。ヘルシンキの南、リトアニアかバルト三国の上のようだ。あとポーランド、ドイツの上を飛んで、スイスへ2時間だ。長い。


(チューリッヒへ)
ポーランドからドイツの上空に来ているのかもしれないが、地上は真っ白である。再び雲の海になる。多分バルチック海の上空かも。
裕子がトイレから戻ってきて、固形のクノールスープとアイスクリームを持ってきた。
「どうしたの、これ?」
「ご自由にお取りくださいって、置いてあったからもらってきたの。みんな気がつかないみたいよ」
私がトイレに立ったとき、確かにトイレのドアの脇の壁にあるテーブルの上に、お湯と一緒に置いてあった。スチュアーデスは休憩中。乗務員用のスペースがカーテンで仕切られていた。
クノールスープは美味しかった。
あと2時間少しとなって、乗務員たちが動き始め、おしぼりが配られる。
23時30分。食事がでる。スイス時間だと午後2時だ。鶏肉を挟んだ丸いサンドイッチが美味しかった。紅茶もおいしくない。コーヒーも美味くない。裕子には大変不評。


(凍結の海)
凍結している海を見ると、ロシアが切実に南に港を求めたのがよくわかる。黒海をめぐってクリミヤ戦争があり、ボスボラス海峡の通行を巡ってトルコには常に緊張関係を強いてきた。だからロシアと戦って日露戦争で勝った日本をトルコは好きなのだ。そんなことを考えながら濃い目のコーヒーを飲む。味がない。
チューリッヒまであと40分。チューリッヒはマイナス4度だという。寒い。ボヘミヤの山地と平野を縫うように高速道路が走っている。車の数は多くない。まもなくスイスの山の上だ。沈む太陽が美しい。茜色の雲や空の色の変化を楽しむ。耳が痛くなる。高度をどんどん下げているのだ。着陸の機内の静寂。大きく右に旋回。レマン湖が左手に見える。チューリッヒ近郊の大地には雪がない。
アルプスの山並みが右手前方に見えて、家が一軒一軒近づく。夕方の茜空の色、暮れなずむ街にライトを照らし始めた車の光の動く光景がきれいだ。まもなく着陸。日本時間午前1時11分、スイス時間、17時11分着陸。やれやれ。


(チューリッヒ空港からイスタンブール)
チューリッヒ空港での乗継時間が三時間。清潔だけどこじんまりした空港内を乗り継ぎのゲートへ移動する。この空港の規模は多分大きいのだろうけれどよくはわからない。長い仮設廊下を通って免税店などのあるロビーで自由行動、ただし8時40分の一時間前に集合とのこと。
まずは免税店を覗く。裕子はお目当ての化粧品を探すが置いていない。私のパイプタバコを探す。『アンホーラ』が6箱、棚の上にあった。
「これ全部買っちゃいましょうよ」
「えー、制限あるよ」
「レジで言われたら返せば」
「とりあえず、4箱にしよう」
一箱に5袋で、18SF、一袋300円くらいの値段。日本で買うと760円。なんと安い。以前ウイーンの空港で3箱買って半年もったから、普通のタバコよりはるかに経済的である。レジでは何にも言われなかった。
「残りも買えば」と、裕子が言うので棚のところに戻ると売り切れていた。
誰が買ったのか。今回の旅で最初の買い物となった。乗り換えのゾーンの店は数も多くなく、一巡りして、待ち合わせ場所にもどった。
古賀さんと移動中に話をする。
「四十人のツアーは久しぶりです。十数人のツアーが多かったですね。でも九月は事件のせいで、一回行っただけなんですよ。アメリカのときは45人からツアーが普通でしたね」と古賀さん。
九月のテロ事件の影響をもろ受けてしまったと言う。今回は110人ほどで、三班に別れ、一つはホテルのグレードアップ組だと言う。私たちのグループが人数的には一番多い。個人参加が13人いると言う。今、日本は午前二時半。眠い。
イスタンブールまでの間に、食事がでると言うので何も食べないで過す。深夜の食事だ。
タバコのすいすぎは血圧によくないので、ほどほどにする。私のパイプタバコはまるで昔のキセルで喫煙しているみたいに、一服二服すればそれで気が済む。
このツアーの参加者は年配の人が多く、若者はいない。午後8時40分出発予定。7時40分に集合とのこと。SR326便、8時45分出発。ゲート74。あと40分ほど時間がある。日本では午前4時になる。
午後8時30分、登場手続き開始。イスラム圏の国に行くフライトにしてはそれらしい人が少ないみたい。中型のA321型のエアバスに搭乗。私達は28EFの席。夜のフライト。
21時15分チューリッヒ離陸。少し遅れている。28ABと29EFの席にはトルコ人の夫婦のようだ。トルコ語の新聞を読み、トルコ語の会話をしている。だが外見は全く欧州人であって、イスラムの感じがない。女性もスカーフを巻いていない。ワインを飲んでいる。本来禁酒の国なのがイスラムなのだが。28席の女性は若くて美しい。目はブルー、ブロンドヘアー。29席の人は年配で、もういい小母さん。小太りで、腕も太い。外は真っ暗だからわからない。
トルコ語はラテン系の言葉ではない。英語との関係はまったくないだろう。発音だけ聞いているとハングル語にちかいように思える。文法もハングルや日本語と同じ、主語が省かれ、動詞が最後にくる。私=ベン、こんにちは=メルハバ、ありがとう=テシュッケル・エデイエム。この「ありがとう」が言いづらい。


(トルコ入国)
トルコ現地時間午前0時51分イスタンブール空港着陸。かなり遅れた。
イスタンブールは雪だ!着陸の際かなり揺れたので、窓から眺めたら、雪。雪だ!雪!まったくまいったなー。とんでもないツアーになりそうだ。15センチ以上の積雪が空港にある。嫌な予感がする。イスタンブールは東京と同じ気候とあったので、安心していたのだが。大雪だ。
嫌な予感は的中した。荷物の受け渡しテーブルに荷物が出てこない。添乗員の古賀さんも空港の関係者に問い合わせに走り回っている。結局30分以上経って荷物が出てきた。まー、よかった。一安心である。でもかなり時間をロスしている。
入国手続きの際に、「メルハバ」と係官に挨拶する。「メルハバ」と返事が返ってきた。なんとなく嬉しい。パスポートを受け取る時に「テシュッケル・エデイム」と怪しく言うと、何とか通じたらしく、にこりと笑って送ってくれた。私もにこやかにトルコに入国。
古賀さんが、人数を数え、確認し終わると、次に両替の説明。曰く「一人一万円ほど両替」したらいいと言う。私たちは1万5千円を両替する。入国するとすぐのロビーに両替の窓口が二つ並んでいた。AKBANKとEXCHENGOFFICEである。OFFICEのレートの方が少し高い。1円=10,525トルコリラ(TL)AKの方は10,440TLで、レートが違う。つまり1万TL=1円という感覚でよい。ちなみに1ドルは135万TLであった。1万5千円は、2000万TL=5、1000万TL=5、500万TL=2、100万TL=3、50万TL=1、25万TL=1の両替で、あと硬貨を二枚くれた。
通路に大勢の人が仮眠している。どうも飛行機が欠航して乗れなかったようだ。出口にでるとここにも多くの出迎えの人たちがいる。もう夜中の2時過ぎなに。タクシーは黄色でアメリカのようだ。空港にはイスタンブールを示すような看板もネオンもない。到着した記念写真も撮れない。
午前2時10分空港をでる。大型バスに乗る。かなりお疲れ気味である。古賀さんが今日のスケジュールを言う。午前「7時30分にモーニングコール、朝食は7時から、荷物出し8時15分、出発は9時になります」とのこと。寝る間がない。

現地ガイドが紹介される。
「オカンとモウシます、どうぞヨロシク。最後までオキャクサマとゴイッショします」と、カタカナ日本語で挨拶する。運転手はミシュリンプさんといい、他にツルガイと言うガイド見習いの女の子と、運転助手のニシハンさんが紹介されたが、みんなどうもそれどころではなさそう。
オカン氏はまだ三十代半ば、大柄で顔立ちは彫りが深いけれど人懐こい感じの男だ。
深夜のハイウエイをホテルに向かって走る。空港がどの位置にあるのかも判らなかったで、どこをどう走っているのか見当もつかないが、道路はよく整備されていて、なんだか東北地方に来たみたいに思える。
「今朝から雪ね、今年一番の寒さになりました。天気予報は明日からずっと雪、少し心配です」と、オカン氏の言。どんな旅になるのかなー?
イスタンブールは坂道が多い。起伏の多い街なのだ。
午前2時53分ホテル到着。大きな回転トビラからロビーに入る。あまり広くないロビーで、少し暗い。トルコ最初の宿はホテル「ニッポン」という名の、いかにも日本人の団体向けのホテルみたいなのだが、中級のシテイホテルである。新市街地の繁華街タクシン広場にも近く便利なところにある。トルコ最後の夜もこのホテルになっている。大通りから一本中に入った道の角にある。到着したのは夜中であり、雪が降り続いて寒かった。部屋は三階、といっても地階から数えるので四階になる。ホテルの部屋のカード式の鍵を各人受け取ると、みんな一斉に部屋を目指して行動する。このカード式が苦手なのだ。ドイツの時と同じようにドアを開けるのに苦労する。
結局、寝たのは3時半であった。裕子は荷物の整理をしていた。長い一日がかくして終わった。部屋は広くベッドも大きかった。安心してゆっくり休める。ベッドに潜り込んだのは3時半近くであった。寝不足でイスタンブールの朝を迎えることになる。



 馬籠は二度目であったが、前に来たときのような感動はなく、むしろ観光臭さが表にですぎて、妻籠の方がまだ地味でいい。藤村記念館は、藤村の実家で、明治二十八年の大火で消失してしまい、現存するのは隠居所だけとなっている。
 あずさは、ふんふんと言った感じで、ちょろちょろと記念館の中を覗いている。あずさにはまだ藤村の文学はまだ早いだろう。私は藤村の自記筆の「夜明け前」の原稿とかをみて土蔵の中を見て歩いた。土蔵を出て裏庭にでると、そこから恵那山がよく見える。半蔵があかず眺めた馬籠の山である。天気は春めいた青空だ。人通り町の中を歩き、藤屋の前までもどると、隣に土蔵造りの喫茶店がある。店の名も「土蔵」である。
「あずさ、お父さんコーヒーが飲みたくなった。あずさは何か飲むか。」
「飲みたーい。」
と、いうことで、ドアを開けて中に入る。重厚な木造の店内は雰囲気がある。長らくコーヒーを飲んでいなかったかのような思いがして、この店での一杯は美味かった。あずさには紅茶を飲ませた。朝の爽やかなコーヒーブレイクになった。店内の奥の棚に立派なこけしが飾られている。大きなものは五十センチもあるようなもので、こけしというよりは木彫りの人形というものである。三段の棚に五体づつ置かれている。そのひとつひとつに作者と価格が書かれている。何十万円もする高価な美術品である。そのこけしの棚の前の席に座り、しげしげとそれらのこけしを眺める。
 中津川までは三時間はかかる。のんびりとはしていられない。昼には中津川に着きたい。十時前に馬籠を発つことにする。土蔵の前の急な坂道を道なりに曲がりながら下ると、宿場の入口で、バス停のある馬籠館の前にでる。「至る中津川」という指導標をみて二間ほどの幅の道を林のなかに入りこむように進んだ。昨日の道とは違い、これからの道は開けた道である。しばらく行くと左に古そうな諏訪神社があって、その脇に藤村の父の島崎正樹の碑がある。それには気がつかなかった。ここから十曲峠への道である。
 十曲峠には新茶屋があり、峠といっても、馬籠からはそんなに上りという程のこともなく、むしろ石畳の道が、杉の森の中に長い下りになっていた。この下り道の手前に、「是より北木曾路」の碑がある。この文字は藤村が書いたという。その近くに芭蕉の句碑がある。


 『 送られつ送りつ果ては木曾の穐    はせを

 「これは達者に書いてある。」
 「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾へんがくずして書いてあって、そ れにつくりが亀でしょう。」
 「こういう書き方もありますサ。」
 「どうもこれでは木曾の蠅としか読めない。」』

 金兵衛と吉右衛門のこの句碑をめぐってのやりとりである。この句塚の建立の経緯が面白く「夜明け前」の冒頭に、平穏な木曾の風景を語る出来事として描かれている。

 『新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍に芭蕉の句塚の建てられたこ ろは、なんと言っても徳川の代はまだ平和であった。
  木曾路の入口に新しい名所を一つ造る、信濃と美濃の国境にあたる一里塚に近い位置を選         んで句碑を置く その楽しい考えが金兵衛の胸に浮かんだという        ことは、そ れだけでも吉左衛門を驚かした。』

 この句碑は大黒屋兵右衛門、つまり小説の金兵衛が建てた。実在した大黒屋十代兵右衛門信輿の書いた「大黒屋日記」が藤村に「夜明け前」を書かせるきっかけになったという。
 この出だしの長閑さから、あの暗い結末に至るとは思いもよらない。ここを通過した時には、藤村が物語の冒頭にこのようなエピソードを披露していたことなどすっかり忘れている。

 『美濃落合の勝重は旧い師匠を見舞うため、西から十曲峠を登って来た。駅路時代のなごり ともいうべき石を敷きつめた坂道を踏んで、美濃と信濃の国境にあたる木曾路の西の入口に 出た。』


 この石畳の道を私たち親子は、中津川をめざして下る。十曲峠からの石畳の下りの道は深い木立ちに囲まれ、行きかう人もなく静かで、木立ちのつくる日陰が涼しいく、由緒ある街道をあずさとひたすら下る。これを登ってくるのはかなりきつい登りのように思える。
 どのくらい下っただろうか、前方が開け、コンクリートの橋が現れて、この峠の下りがおわった。そこから落合まではゆるやかな山里の下り道となり、昔父が私をつれて歩いたときのように手をつなぎながら、高く晴れた田舎道を歩く。思わず鼻唄もでてくるというものだ。あずさも一緒になって歌う。この美濃の木曾とは違う穏やかな、そして桜の花もところどころにほころんでいる春の温みを背中一杯に受けて歩き続けた。ときどき私の顔を覗くように見上げるあずさの顔は笑っている。
 落合宿は小さな町といった感じで、人家も立て込み馬籠や妻籠の風情からは遠く、現代の生活の中にあった。この落合は中津川と馬籠の間にある宿場町で、本陣の井上家が残っていて、その白壁は大変美しい。当時のままに保存されているとい言う。しかし私たちは外から眺めただけで素通りせねばならなかった。昼ひなた町の中を歩いていても人に出会うこともなく、なにか狐にでもつままれたような面持ちで、この宿場のなかを過ぎた。高校生の頃、四国の宇和島の町を歩いていた時も、武家屋敷の一角で人一人出会わない真昼の静寂を思い出す。
 しかし、国道19号線に出ると、その静寂な雰囲気は一変して、車に遠慮して歩かねばならなかった。しばらく歩き、また途中から古街道の道に入った時はほっとした。
やはり自動車は便利であるが、のんびりと歩く私たち親子には騒音であった。中津川まではゆるやかな下り道が続き、田舎道をのんびりと歩いた。あずさが前になり後ろになりして、中津川めざして歩く。昨日と変わり上々の天気に恵まれて、あずさとの旅は心から楽しいものになっていた。


  道端のたんぽぽ指して微笑む子 青空のなか歩いてる

  どこまでも澄んだ空と菜の花の道 子と手をつなぎ歌いながら歩く


 あずさと三月の晴れた田舎道を歩きながら、親として、私の父がそうであったように、厳しいけれど、優しい父親でありたい考える。この子が成人する時には、私は五十才になる。その時にどんな親になっているだろうか。この子の成長に合わせて、子の気持ちを理解できる親になっているだろうか。これからこの子にしてあげられることは何か。体つきは大きくはなっていても、まだあどけない子供らしさを残しているこの子の能力は、いまだ未知数ではあるけれど、女性として自立する可能性は豊かにあると考えるのが親というものだ。長女にしてもこの子にしても女性という性的な存在の人間として、しっかりと芯の通った考え方をもってもらいたと思う。また持つように育てねばならないと考える。人としてどう生きるのかを考える女性になってほしいと願う。結婚だけが娘たちの全てだなどと考えもしない。愛する人に巡り会うことはとても素晴らしいことだが、結婚はすべてではない。私の家は娘たちが他所に嫁げば絶えてしまうことになる。それはやむを得ないこちだと考えているから、娘たちを家に縛るなどという考えはない。むしろこの子たちが自由に自立してくれることを考える。

 所々で休んだような気もするが、あまり覚えていない。平地に下りてきて、それらしい人家の多い集落やらを通り、中津川の街の一角にさしかかるにつれ、自動車の通行が多くなり、耳障りな騒音が増える。
 この国の田園風景や山々の景色には、やはり瓦屋根が相応しい。落ち着いた瓦屋根古い町並みの通りを歩くと、電柱が目障りだが、あの高層ビルの街にない心の落ち着きが得られる。
 落合から一時間半くらいかかって中津川の街の中に入っていった。こうして木曾路を歩く旅は終わりが近づいてきた。午後一時中津川の駅に着いた。
 中津川は木曾の南の入口にあたる。交通の要衝として向かしから発達した美濃の歴史のある町だ。ところどころに瓦屋根の昔の対者が散見される。私たちのようにのんびり歩いても、三時間程度であつたから、昔の人はもっと早く歩けたであろう。それだけ行き来はかなり多かったに違いない。しかし、これから熱田神宮へいかねばならない私たち親子は、この町に長居することはできない。名古屋まで中央西線で一時間以上かかる。駅弁を二つ買いこんで名古屋行の電車に乗りこんだ。かくして、私たちの木曾路を歩くささやかな親子の旅がこの中津川で終った。


 名古屋で名鉄に乗り換え、熱田神宮まで行く。午後三時、商店街をぬけ、広い道路を横切り、神社の境内に入ると、桜の花が「春だよ、春だよ」と言っているように満開である。広い境内のなか、玉砂利を踏みながら、巫女さんのいる祈願受所に行き、あずさの十三参りの祈願を受け付けてもらう。若い巫女さんの赤い袴姿もいいものだ。


  社は桜にかこまれて赤い袴の巫女の細い指まで桜色


 少し待って、定められた入口から神殿に入り、同じような祈願をする年頃の子どもたちもいて、一緒に祝詞を受ける。あずさも神殿の中ははじめてとあって、口数もすくなく神妙である。神主の祝詞とお払いを受け、玉串を捧げて一通りの儀式は終わる。
 お札を受けると大事にザックのなかに仕舞い、さきほどの受所で御守りを買う。あずさも緊張から開放されて、またくつたくのない笑顔をみせている。それでもちょっぴり大人びたかもしれない。


  うららかな春陽のような笑みの子のすこやか祈る十三参り

                                                                                                                                 (完)




「馬籠は近いですか。」

「あとは下りだし、街道は国道の通りの道だから。そのまま行けばいいですよ。」

激しくなっていた雨も、一ッ時のことのようにおさまり、落ち着いた頃には雨も小降りになっている。

「お世話様でした。」「お気をつけて。」

茶屋の主人と言葉を交して、外に出て、傘を手に舗装道路を歩きはじめる。いままでの道と違い、前方が開けているので、楽な気分で歩ける。あずさは少し疲れた様子であったが、頑張っている。「峠」という集落の中を通る。古い家屋が並ぶ集落で、江戸時代のものだと言う。 

 とっぷりと夕闇につつまれた時分に、私たち親子は馬籠の宿の入口にある高札場に着く。やれやれという思いで十字路になっている宿場の入口に立つ。三メートル幅の石畳の道が明りのついた家並の中へみちびいていく。あたりはすっかり暗く、山合いの深さをただよわせる。



  高札の立つ古宿場 墨色おとす山峡に灯りが浮かぶ



馬籠の宿はかなり急な斜面の上にできている町だ。藤屋は町の半ばを過ぎて、かなり下ったところの左手にたつ特徴のない一軒家の民家だ。

「今晩は、あの予約していた軍司ですけれど。」

声をかけて入って行く。なんとなく旅館と違う、民宿というのは、普通の家に泊まるわけだから、玄関も子供の運動靴があったり、年寄りの履物があったりで、他所の家に上がり込むという雰囲気がする。

「はい、いらっしゃいませ。どうぞ。」と、白いかっぽう着をつけた小太りのおかみさんが出てきた。「どうぞ」と、言われて二階に案内された。六畳一間の部屋で、表の通りに面している。部屋の隅に14インチの古めかしいテレビが一台置かれている。

「今日は寒かったでしょ。お嬢ちゃん。」と、おかみさんは声をかけながら、お茶と茶碗をこたつの上に置いた。宿帳に名前を書いて、とりあえず食事とお風呂をお願いする。荷物を部屋の片隅において、電気こたつだが足を入れると、今日の疲れがどっと出てくるようだつた。

「疲れたか、今日はよく歩いたな。」

「少し疲れちゃった。寒かったし、でも面白かった。」

と、あずさの答えを聞いて、私もにこにこしている。

「お客さん、お風呂と食事とどっちを先にします。」と階下からおかみさんが聞いてくる。

「お風呂を先にお願いします。」

「それじゃ、すぐに入ってくださいな。湧いていますから。」

「はい。頂きます。」

あずさに私が先に入ってくるから、こたつの中で横になっているように言い、階下に降りていく。あ風呂は家庭用の風呂だが、檜の風呂で、冷えた体にはなによりものご馳走である。ゆたり湯につかるだけで、気分がほぐれてくる。あずさを連れて来たことを、湯船のなかで一人で喜んでいる。さっぱりした気分になって部屋に戻るとあずさはこたつの中で寝入っている。可哀相だが起こしてお風呂にはいるように勧める。

「テレビ面白いのやってないんだもの。東京と違ってつまんないから寝ちゃった。」

「いいお風呂だからゆっくり入っておいで。階段をおりたらすぐだから。」

ザックから着替えとパジャマをだして、階段を下りていった。雨はなおも止む気配がない。



 藤村の小説「夜明け前」は、江戸末期からご維新の時代を経て明治政府が確立されていく過程の歴史小説である。主人公青山半蔵は、父吉右衛門の許しを得て平田派の国学を学ぶ。時王政復古の思想の広まるなか、半蔵は、天皇親政の復古と国学の回復に、日本の将来を見、封建制度が変わり、民百姓下々がよくなることを、地方の知識階級の一人として願っていた。しかし、時代の流れは半蔵の思いとは異なる方に向き、彼はやがてその潮流から取り残され、最後は半蔵を理解するものもなくなり、菩提寺である満福寺に火をつけたことで狂人として扱われて、座敷牢に入れられてしまう。そのまま半蔵は五十六才の生涯を終わる。藤村は自分の父が狂い死にしたことを生涯負の負担としていたと思える。


「夜明け前」は藤村の晩年の作品であり、彼は父を死に至らしめた時代と父とを理解したかったのでないだろうか。藤村は九才で上京し、その後は父が上京したおりに会ったきりであったという。心の中に彼が父を求めたとしても当然のことのように思う。「夜明け前」終の章の六で満福寺の和尚松雲が半蔵の不可解な行動の理由を説明する下りがある。それを引用することもないが、その下りこそ藤村が父を理解しようとして、この大小説を書かせた理由であろう。そして松雲和尚に
「今度という今度はつくづくわたしも世の無常を思い知りました。」
と言わせ、時の勢いに個人は抗する術もなく、和尚にもどうすることもできなかった無常を述懐させている。歴史の中の個人などというものは押し並べてそういうものかも知れない。藤村は自分の父を歴史のなかから、また自分のなかから救い出そうとしたのだ。藤村自身が父と深く長い葛藤をくりかえしていたであろう。男にとって父とはそういう存在なのだ。

 ちょうどあずさが持参のパジャマに着替えて、風呂からやれやれという感じで部屋にもどってくる。

 「お茶入れるね。」

パジャマの上から宿の半纏を掛け、身仕度をすると、急須にお茶の葉を入れ、私と自分の湯飲み茶碗に茶を注いだ。タオルで髪を巻くしあげて、首筋もこの子は長くほっそりしている。子供から乙女になる変化期だ。少しの仕種にも、子供ぽさと女らしさとが入り交じっていて、この子の将来を思わずにはいられない。

 食事の用意ができたと言って、料理が運ばれてくる。てんぷらと刺身である。こんな山の中で、冷凍の刺身もなかろうと思ってはみたものの、腹が空いていては文句のつけようがない。あずさがごはんを盛ってくれる。なんでもないことかもしれないが、上の娘はやはり、長女というのは、長男とにていて、総領のなんとかと言うように、どちらかと言えば、気づかいをしない。自分中心のところがある。それに比べると、この子は何かと世話焼きの性分で、母親には似ていない。娘と二人だけの食事もわるくない。



 刺身と言えば、半蔵が下男の左吉を連れて、江戸に出てきたときに刺身を食べる下りがあって、日頃山の中では塩からい魚しか食べていないから、とてもうまいものだと喜んだことが、書かれている。江戸時代、本陣半蔵の家でも刺身などは口にしたことはなかったと思う。五平餅がご馳走のころだ。



 ともかく食事を済ませる。おかみさんがやってきて「お粗末様でした。」と型通りの挨拶をして、お膳を下げてもらう。あずさも何かと手を出して手伝っている。あかみさんもにこにこしてあずさを見ている。

 後は寝るだけとなった。

「ふとん敷く。」と、あずさ

「敷いたほうがいいな。もうあずさは寝ていいよ。」

「こっちに私が寝るから。」

とか言いながら、ふとんをパタパタ動かしはじめる。

「ダータはこっちでこたつのそばで寝なさい。」

と、私の分までふとんを敷いてくれる。私は内心嬉しくてたまらない。「ほんとにいい子だ。可愛い子だ」と思う。勿論親馬鹿丸出しであるが。それでも娘に世話を焼かれるのは、まだ子供と言っても悪くない。しかし、これもいつまで続くか、恋人でもできたらそれでお仕舞い、それまでのことだろうなどと、寂しいことも考えてみたりもする。そんな自分がまた面白い。あずさは「おやすみなさい」と、言うがはやいか、軽い寝息を立てている。しばらくその寝顔を覗きこむ。



 青山半蔵の長女粂が、祖母おまんの斡旋で、伊那の稲葉家への結婚話が起こる。粂が十八の時である。しかし縁づく直前に、粂が自殺を図り、村中の騒ぎになったことが描かれている。粂は縁談の日が近づくに従って、無口になり、何か物思いに耽って行くようだとあって、母の民は少し気にしていて、父親から意見してくれるように言う場面がある。自殺するまでの娘の気持ちが分からなかったことを半蔵は後に悔やんでいるが、やはり、父と娘という関係は、男とは異なるものがある。あずさの場合は、多分そんなことはないだろう、何でも話をしてしまう子で、隠し事のできない性格だから。仕事にかまけて娘を顧みないのはよくない。折に触れて子どもと旅に出たいもの。半蔵の娘粂のような思いをさせてはならない。



 灯りを消した部屋は真っ暗闇で、コトリッとも音もなく、雨の音だけが外から伝わってくる。暗やみのなかで、もう一度あずさの寝顔を覗いて私も目を閉じた



  子が敷いたふとんに入り子を見れば見飽きぬまでの寝顔である



  山の宿 沈んでゆく夜に聞こえてくる闇の雨音



 半蔵の生涯は何であったのだろうか。半蔵は自分を社会の底辺において時代の変化を把え、国学思想の影響により起こった王政復古の運動による維新の達成とその成果は、徳川時代の支配体制より、下層の百姓たちには受け入れられるものと思っていたのだが、半蔵が伊勢と京都の旅にでていた折り、廃蕃置県が行われた尾張蕃が名古屋県に変わった中津川一帯で農民一揆が起こり大変な騒動になったことを帰路の途中で聞き、尾張蕃の治世では起きなかった一揆が、この新体制になってどうして起きたのかを考えさせられる。

 馬籠に帰宅して出入りの百姓から経緯やら心情を聴こうとするが、百姓達は半蔵であっても本音は言えぬと答え立ち去る。半蔵は表層でしか百姓を見ていなかったことを思い知らされ、自分が志した学問のもたらした王政復古は半蔵が求めたものとは異なる結果を生み出している。この維新とは一体何であったのか。神社行政の変遷とともに、彼は精神的に一人深い山の中に取り残されていく。

 底辺の者に心傾けた半蔵は、その心傾けた人々からもまた時代からも疎外され、そして半蔵が志した学問にも裏切られるという幾重もの挫折感を味合わされたであろう。半蔵は四十半ば、本来なら人生の実りの時期である、なおのこと受けた衝撃は耐え難いものであったに違いない。


 この半蔵の心情は痛いほど私に訴えるものがある。人間はやはり幾度かは狂いたくなる時があると思う。それは狂うのではなくて狂わされてしまうだ。時代は変わろうとも、理想と現実との落差の狭間で自分をどうやって理解したらよいのか、理想への思いが強ければ強いほど、現実を受け入れることが難しくなる。自分の思いを通そうとすると半蔵のような行動に出てしまうのではないだろうか。嫌な言葉ではあるが、現実とどう妥協するかが様々な人生の結末をもたらす分岐点なのであろう。強靱な精神力とか、恵まれた才能をもたないとすれば、無知を装うか、耐えるかそのどちらかの選択しか、現代でもないのではないかと思う。耐えることの中から、何かを見つけて行かなければならないのだろう。
 シーンとした冷たい部屋の空気のなかで、昨日の心地よい疲れが暗い闇に吸いこまれ、一本の細い弦が指ではじかれて響くように目が覚めた。まだ朝は夜の淵にあるようだ。

  軒端よりやまず雫の落ちる音にふと目覚めれば夜の明ける前

 あずさが眠い目をこすりながら、「もう起きるの。」と頭を布団の中からもたげて私の方を見る。「よく寝たね、起きようか。七時だからね。いやー、今日はいい天気だ。」
二人とも布団から這い出し、私は窓を開けて、昨日の雨模様が嘘のような青空を見渡した。



『「お民、来てごらん。きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかね、木曾川の音が聞こえるかねえ。」

「えゝ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河のすぐそばではありませんけれど。」「妻籠じゃそうだろうね。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手にとるように聞こえますよ。」

「それでも、まあよいながめですこと。」

「そりゃ、馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい火は、遠い伊吹山まで見えることがありますよ」』



姑おまんと半蔵に嫁いだばかりのお民との会話に、この馬籠が位置が語られている。

今日は、この会話のようによく晴れわたった朝で、窓を明けると、澄んだ空気が部屋一杯に入ってくる。部屋の窓からは恵那山は見えないが、西の方がひらけて明るい。

 あずさは布団を手際よくたたんで押し入れにしまうと、顔を洗いに下におりていった。天気のせいかあずさも浮き浮きしている。

 今日は馬籠の町を散策して、中津川への道を歩き、名古屋へ出る。あずさの十三参りのために熱田神宮に行かなければならないので、馬籠を早めにでることにする。

 藤屋のありふれた朝食を済ますと、そさくさと荷物をまとめ世話になった礼を述べて宿を出る。来た道を引き返すように、町の中へもどり、藤村記念館を見学することにする。まだ午前八時なのだが、日曜日とあって人の出は早い。早朝から賑やかである。



 時には、伊勢神宮の講中にまじる旅の婦人の風俗が、あだかも前後して行き過ぎる影のように、半蔵らの目に映る。きのうまで手形なしには関所も通れなかった女たちが、男の近親者と連れだち、長途の旅を試みようとして、深い窓から出て来たのだ。そんな旅姿にも、王政第一の春の感じが深い。そのいずれもが日焼けをいとうらしい白の手甲をはめ、男と同じような参拝姿の風俗で、解き放たれて歓呼をあげて行くかにも見えていた。



 「夜明け前」で描かれた維新後の木曾街道の通行の風景である。高校三年の夏、大学受験の講習を御茶の水の研数学館で受けたおりに、国語の例題としてこの文章が出た。その時の講師が、この女性の旅姿の描写に維新後の開放感がみごとに表現されていると、その読み方を教えられた。厳格な封建制度が崩れ、明るい時代が来たかのように思える一節で、文章表現の精緻さ、文学における描写、表現技術の巧みさなどに感動したのである。このような時代の明るさと、その時代の変化に裏切られていく半蔵の悲劇とが対比されるのであろう。

 いずれにせよ私が表現の技術に感動を受けたのはこの時であったと言える。この木曾を舞台にした島崎藤村の「夜明け前」という小説は、このような表現技術に圧倒されて、文学はとても私の及ぶところではない世界のように思えたのであった。そのような思い出につながる文章が先に引用した部分であって、今でも記憶に残っている。

 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

 十時過ぎの電車で松本を発ち、塩尻から木曾に向かう。雨はしょぼしょぼと降っていて、温度差で窓も曇る。南木曾駅までの車中、娘と同じ年頃の男の子と一緒になった。中学生の一人旅で、名古屋をまわって今日中に東京に帰るのだと言う。一日乗り放題の「青春切符」を利用しているが、普通列車にしか乗れないので一日中乗り通しだと言う。あずさを意識してか、恥ずかしそうに話す。窓のくもりを手で拭いて外を眺める。生憎の天気だ。私がその子のように一人で旅をした時も、年配の人に何処までいくのか聞かれた。あの時は、その子とは違って、松本から長野、柏崎、弥彦、新潟を回遊する旅で、一日中汽車に乗っていたと思う。

 塩尻をでて、ほどなく電車は木曾川にそって蛇行し、山合いを縫うように走る。奈良井、藪原を過ぎる頃には、「夜明け前」の冒頭の有名な一節「木曾路はすべて山の中である」が、その通りだと思えてくる。あずさは夜行の疲れか、私の肩に頭をあずけるようにして寝ている。各駅の普通電車の中は木曾福島をすぎてからは乗客もまばらになり静かなものだ。立ち寄れなかったが、木曾川にそって広がる木曾福島の町並みは、車窓から眺めると雨にしっとりとした山合いの関所に相応しい町に見えた。今日の目的である妻籠へは、南木曾駅から歩かねばならない。「南木曾」と書いて「なぎそ」と言う。

 十二時前に到着する。さきほどの男の子とは、ここで別れた。あずさは少し眠ったので、すっかり元気になった。南木曾の駅前は数軒の店と家があるだけで、寂しい駅前である。妻籠への観光案内の看板が、駅前の広場の脇にある。妻籠への道は自然遊歩道になっている。

「田舎だね、お店もないし、なんにもないね。なんかすごいとこに来たみたい。」

「そうだな。」

あずさが半分嬉しそうに、半分驚いたように、目をまんまるにして私の顔を見る。あずさにしてみればこれからどこへ行くのだろうかという興味と、なんだか遠くに来てしまった不安とが半々なっているようだ。見るからに寒々しい駅前の光景で、駅に降りたのは私たち数人で他に人影はない。霧のような雨のなか、案内図に従って、いよいよあずさと傘を並べて木曾街道を歩きだす。

 かつてこの木曾の山の鉄路で活躍したD51の蒸気機関車が置かれている公園の前を通ると舗装された道はすぐ終わり、車一台も通れない農道のような畠の中の道となる。ぽつんぽつんと三分咲きの梅が道端に寒そうにある。早春の山里、まさにその匂いがする。「ここを大名やお公家さん達が通ったんだねえ」と、娘よりも私のほうが驚きの思いであずさに話しかけるが、あずさはそんなことにはお構いなく、足取り軽くと言うように妻籠への山合いの街道をすいすい歩いていく。声を出すと、吐く息が白い。

  山峡の駅に細い雨 子と傘をならべて歩きだす木曾である

時代劇の映画に出てくるような街道よりも更に狭い畑中の道を、時には民家の庭先を歩くかのようにしながら、小一時間ほど平坦な山里の道を歩く。妻籠の城跡があると案内図があったが、寄らずにまっすぐ妻籠にむかう。。

 路地に入りこむようにして小さな橋を渡ると、目の前に低い軒の家が二間ほどの道幅をはさんで並び、実際にタイムスリップしたように江戸時代の宿場町の家並みがそっくり出現している。私もあずさも立ち止まり、古い宿場町を眺めやる。

「どうだ時代劇にでてくるみたいだろう。これが昔の宿場町だよ。」

「こんなところがあるんだね。」

と、あずさの寒さを払いのけるような喜んだ声が返ってくる。あずさの目の前の光景は初めて見るもので、東京のコンクリートの建物に見慣れた目にはびっくりしたに違いない。


 島崎藤村は小説「夜明け前」で、木曾街道十一宿の下四宿の一つ、木曾川に近く位置する妻籠宿の地勢の特徴を

『馬籠の峠ともちがい、木曾も西のはずれから妻籠まではいると、大きな谷底を流れる木曾川の音が日によって近く聞こえる。』


と描いている。主人公青山半蔵の妻お民は十八のとき、この妻籠の本陣の青山家から嫁ついでくる。妻籠の町並みの裏手には支流である蘭川が流れていて、妻籠城跡付近で木曾川に合流している。いまではよほどでもないかぎり、木曾本谷の音は聞こえてこないのではないか。小雨まじりの静かなこの日、支流の川瀬の音ですら我々には聞こえてこなかった。しかし、戦後まもない頃までは聞こえていたに違いない。


 電柱とかコンクリートの家などはまったくなく、出梁(でばり)造りや卯建(うだつ)という防火壁の落ち着いた造りの家に統一されている。この街も一度火災にあって立て直したものだと聞いている。しかし保存はよく、下町、中町、上町、寺下、尾又の町内に区分されている。小さな橋を渡った入口に高札場があり、その左には水車がかたんことんと回っている。道に面した家はそれぞれ土産物屋や、お菓子屋とか、飲食店になっている。中町には昔の脇本陣が奥谷郷土館として開放されている。あずさはそんな歴史のことよりも、お腹の空いていることに気がむいているようだ。

 「あずさ、見てごらん。ほら郵便ポスト。黒だよ。」

 「ほんと、どうして。」

と怪訝な顔でしげしけとポストを覗きこむ。

 「この町の景観に合わせて造ったのかな。町並みに合わせてね。」

 郵便ポストが、この街では法律に定められた赤ではなくて真っ黒であるのは、例外的に明治時代の色が認められているからなのだと言う。小説によれば、妻籠で最初の郵便局になったのは、お民の兄の寿平次である。つまり藤村の母の兄である。


 『翌朝になると、寿平次の家では街道に接した表門のところへ新しい掛け札を出す。
  信濃国、妻籠宿、郵便御用取扱所
              青山寿平次
  こんな掛け札もお民としてははじめて見るものだ。』

と、第二部の上巻に書かれている。本陣跡の前にある小さな郵便局のその前のポストにしばし感心しながら、町筋を見ると、春休みの土曜日とあって、かなりの人の往来がある。みんな観光客で、カメラをもってあっちの店、こっちの店と覗き込んでいる。

「ダーダ。お腹すいた。」

あずさが催促をする。「ダーダ」というのは、私つまり「父」への呼び方で、我が家では、ほたかが物覚えついたころから、英語の「ダディ」が鈍って「ダーダ」になってしまった。母親は「マミー」である。妻の実家でも、私は「ダーダ」である。

「おそばを食べよう。いいかい。」

あずさは無邪気な顔をして「うん」と頷くような仕種をする。まだまだ子供だと思う。このままでいて欲しいとも思う。

 吉村屋という店に入って、山菜ソバを注文する。あずさはこういう時には、こまやかな気をつかう子で、テーブルの上の湯飲み茶碗を二つとって、備えつけのポットからお茶を入れる。この子の気づかいがうれしい。

 女だからというのではないが、やはり女らしさというのはないよりあったほうがいい。私が子供に「女らしく」とか、「女だから」と、言うと妻はいつも差別するような言い方はよくないと、私を非難するが、やはり男から見た場合、女は小まめで、可愛いほうがいい。やはり好かれるということは大事な要素だ。それと女の自立とはまた別問題だと思っているのだが、我が家での私の立場はどうも弱い。私の女性観をもって娘を教育することにはどうも妻の同意がえられそうもない。従って、家ではあまり煩いことを言わないようにしている。

 山菜のにがりが少しこたえたが、蕎麦は美味しかった。外は肌寒いので、店でのお茶はほっとするものがある。

 「おやき」を売っている店の前で、「いい匂いがする」とあずさが言うので、そこを避けては通れなくなって、おやきを二つ買い求めた。



  小雨にけむる妻籠宿、武士町人の旅人にまぎれて歩く

  旅にあって昔の人も食べたと思う昼さがりの山の蕎麦

  妻籠宿にだんご焼く香り、子に引かれ店前に立つ



 観光客の往来に妻籠は静かななかに賑わいがある。町の半ばまでくると道が急にくびれ、二股になっている。桝形跡といって上町の石灯籠、これは昔常夜灯だったという、があるあたりで、石垣が組まれ、道がわさわざ直角に曲げてある。説明によると外敵を防ぐために曲げてあるのだという。その手前に大きな忠魂碑があって、その隣に昔の学校か集会所のような形の建物が観光案内所になっていた。石段をあがって引き戸越しに部屋に入ると、右手が職員質で左が休憩所になっている。受付のカウンターの当たりにNHKドラマ「夜明け前」のポスターが貼ってあった。

「NHKでやるんですか。」と中の人に聞いてみる。

「この十月に放映される予定です。先日もロケ隊が来て、大変だったんですよ。主演の女優さんもきたりして。町の人みんな総出で協力しましたからね。二時間ドラマだと言ってました。是非見て下さいよ。」

 係りの人は、女優の大原麗子が来たと嬉しそうに話しをしてくれる。観光地としていい宣伝になるし、自分の郷土を誇れるのはまた格別にいいものだ。

 早春の日はまだ短い。これから馬籠峠を越えて、馬籠宿まで行かねばならない。あまり妻籠に長居はしていられない。残念だけれど、いずれまた来ることを思いながら、あずさと街道を急ぐことにした。宿場の家並みを抜け、しばらく舗装された道を行くと、左に伊那への道を分け、また来たときのような山里の道が馬籠宿にむかう道になる。しかしまだ人家がある。大妻籠という集落を通る。妻籠は修復・保存の手がかかっているそうだが、この集落はほんとうに江戸時代からの建物が残っているという。注意をはらって見たわけではないが、古い家は、壁と直角に塀のようなものが出ている。これが卯建(うだつ)と呼ばれるもので、防火のために造られたという。そしてこの卯建は身分の高い家でなければ造れなかったことから、「うだつが上がらない」といことが「出世できない」という意味になってきていると、これは書かれたことの受け売り。


 大妻籠をでると、たちまち山道となり、これが江戸時代の五街道と称せられた道かと思うような細道である。登りもきつく、つづら折りする道である。ところどころに梅が山合いの遅い春をつげているが、山道には枯れ葉が濡れている。時には傘を杖にして歩く。勾配はよりましてきつく、疲れをきづかいながら、時々行きかう人にあいさつを交わしす。道幅はほんとうに山道の幅しかなく、この道を籠や、輿を担いで通ったとすれば、昔の行列は大変なことであったに違いない。

「この道を昔は大名が、三勤交代のために通ったんだよ。学校で習ったでしょ。江戸時代の重要な街道なのに、こんなに細い道だったのかね。ほんとうに。」

「マミを連れてこなくてよかったね。きたら大変だよね。」

あずさはにこにこしながら先を行き、母親の足の遅いことを知っていてそう言った。都会育ちの妻には、こんな処を歩かせたら何を言い出すやら。それでも妻は、なかば私にだまされて新婚旅行で屋久島の宮の浦岳に登らされている。それ以来、山に行くとは言わなくなった。だから娘の言う通りだとひとり苦笑いをする。雄滝・雌滝の案内があったが、寄らずに先を急ぐ。

 

 枯葉踏むつづら折れの山道は傘杖にして子の後を追う



 滝を過ぎ、自動車道路と交差するところが、峠入口。そこからしばらく行くとしだれ桜の大木がある。百年以上の桜だと言われる。そのあたりから、雨が少し強く降りはじめる。

「寒くないか。手袋を忘れて失敗したな。大丈夫か。もう少しで峠だからね。」

「大丈夫、大丈夫よ。」と、生意気ぶって答える息が白い。

傘をもつ手がかじかんでくる。冷えこみがきつくなる。鬱蒼とした樹林帯の中に道は入って行く。ちょうどその頃がもつとも雨足が強くなってきた時で、雨の音だけが森の中に響く。早く峠にでないかと、気が焦る。春とは言え、山の三月だ。冷えこんでくる。周囲もうす暗くなってくる。大きくつづら折れになった杉の間の道を登ると、ひょっこりと舗装道路の走る峠に出た。ちょうど午後四時。ここが馬籠峠で標高八O一メートルという。今まで登ってきた道は南木曾町で、ここからは山口村になる。峠の茶屋が一軒雨の中にある。

「あずさおいで。」と言って、傘の雫を払いながら茶屋の中に入る。

「今日は、少し休ませてもらえますか。」

「どうぞ、火にあたっていってください。寒かったでしょ。」と、親父さんが声をかけてくれる。茶屋の真ん中に、ダルマストーブが赤々と燃えている。まわりが急に暖かくなってくる。ともかくホッとする。「あずさ、こっちにおいで。」ストーブのそばで、濡れた体を暖めさせた。さすがに最後の登り道は、雨にたたられてあずさも疲れた様子である。しかし、茶屋で暖をとれたのがよかったのか、紫色の唇で、冷たく青くなっていた顔が、赤味を帯びてきて、何とかなりそうだ。くつくつとおでんが煮えて、温かそうな湯気が鼻をつく。一皿おでんを盛ってもらい、二人で食べる。腹の中に温かいものが入っていくと、気分も落ち着く。あずさの顔にも余裕がでてくる。

  みぞれ

  霙に暮れる峠道 飛びこむ茶屋に赤々燃えるだるまストーブ


 


 


 


 


 


 


 


 

早春の旅    昭和62年3月
                     

  母に先立たれた父は、私のマンションに近い以前からの家で一人住まいをしていたが、二度軽い脳溢血を起こして以来、足の弱り方がひどく足をひきずるように歩き、よぼよぼとした感じが強まり、このまま一人で生活を続けさせるのは心配で、かと言って3DKの家では父を同居させることもできないので、父ともよく話し合い、親戚にも相談した上で、東京都の老人施設に入ってもらうことにした。大森の福祉事務所に相談に行ったところ、係の人の話では希望の施設に入るのに一年近くかかるとのことであったため、まあ、気長に待つことにした。ところが申し込んでひと月も経たない二月末に、当の福祉事務所より希望する施設に空きがでたので至急手続きをして入居して欲しいとの連絡がきた。今回を逃すと順番が先送りにされ、いつ入居できるかわからなくなると脅かされ、取るものも取り合えず秋川市にある東京都の松楓園に父を預けたのが昭和六十二年三月のはじめであった。
「おじいちゃん、おじいちゃん」と幼い頃は甘えていた私の娘二人も、高校生、中学生になる年頃になり、自分たちの世界をもちはじめて、祖父との会話も減りつつあって、父は寂しがっていたと思うのだが、口に出して言うことはなかった。それでも孫の顔が見られるのを楽しみに、夕食と晩酌を我が家で取ることになっているので、父の様子は常に分かっていた。父を施設に入れることは父の身体の状態を考えると安心するものがあったが、私には言うに言われぬ寂しい気持ちと無念さが残った。

 父の松楓園への入居の手続きを済ませ、一段落したころ、三月の半ば、無性に父と過ごした私の子供の頃のことが思い出され、父と出かけた旅のことなどを妻に聞かせていた。その頃の父の年齢にいつか私も至っている、「そうか私もそんな歳になったのだ」と実感し、いずれは離れていく子供たちと何か思い出をつくっておかなければならないという感情が湧いてきた。「あずさと二人で旅にいこうかな、どう。いくかな。あれも今なら言うことを聞くだろう。」「そうね、ちょうど春休みだし、いってみたら。」
「夜行列車に乗せて、鈍行の貧乏旅行も悪くないだろう。あずさは行くかな。木曾の馬籠と妻籠はどうかな。まだ寒いかもしれないけどね。」
「あずさなら行くわよ。」こんな夫婦の会話から、私とあずさの小さな旅が決まった。家族そろっての旅はあったが、二人だけの旅ははじめてなので、内心私のほうがうきうきしていた。娘をつれて父親が、二人で旅をするなどということは、なかなかできることではない。娘とならんで歩く父親の後ろ姿は、どこで見ても背中が笑っている。それほど父親というのは、息子にはない感情を娘にはもっているように思う。私には息子がいない、時にはキャッチボールをする息子がいたらと思う時がある。娘には腫れ物にさわるような思いがどこかにある。
 次女あずさは、長女のほたかとは三才違い、昭和五十年三月の生まれで、この年に十二才になるが、早生まれのせいかどことなく幼さがまだある。長女とは違いあずさには幼い頃、仕事にかまけてかまってやれなかったという負い目があり、いつか帳尻を合わせておきたいという気持ちがあった。

 あずさは中学に入学する春休みの最中でもあり、夜行列車に乗るのもはじめてのことで、私と行くことを喜んだ。松本の城を見せ、木曾街道を歩き、歴史にも触れさせてみたいと考え、馬籠の民宿に一泊することにして、松本と木曾を訪ねる計画を立てた。あずさが数え歳にして十三才になるので有名な神社でお参りをして欲しいと妻から注文を出されたので、帰り道名古屋に出て、熱田神宮によりあずさの十三参りをすることを計画に加えた。春休みではあったが上手く馬籠の「藤屋」という民宿を予約することができた。
 午前零時一分新宿発の上諏訪行の電車に乗ることにして、午後十時すぎに家を出た。あずさはジーンズに紺のダッフルコート、襟巻きをして、白いスニーカー。私もジンーズにグレーのキルティングコートにスニーカーといういでたちである。あずさはこんなに遅い時間に外にでることはないので眠そうであったが、着替えとお菓子を詰めた小さなリュクサックを背負う娘の心を、好奇心と興奮が支配していた。新宿駅は登山に出かける若者達が大勢いて、その昔、私もあの中の一人だったのだ、その青春の日々はいまでも心の奥に秘められていて、アルプスのあの高嶺を再び歩きたいと、その頃を懐かしむ思いで彼らを眺めていた。しかし、今は娘と旅することに言いあらわせぬ喜びを味わっている。 

    
  連れ立つ子は十二才 訪ねてゆく信濃は浅い春


 あずさの背丈は妻にはまだ足らないが、155センチ位でほっそりしている。色は少し浅黒いが、涼しい目鼻立ちをして、器量はなかなかよいと親ながら自慢に思っている。近所の年配の方に「きれいな娘さんね。」と言われることもたびたびあり、「お父さん似かしら。」などと言われると「いやぁ」などと返事に窮していた。顔の輪郭は私の骨相だと思えるが、目は切れ長の比較的はっきりした眼をして、眼が長女のほたかとも似ているので私似だと思えるが、鼻は、私の鼻でも妻のような小鼻のぷくっとした感じではなく、すっきりして高い。唇もまた大きくはなく小振りで肉質も厚すぎず、薄すぎることもなく、きりっとしている。妻の傾向というよりはこれも私の傾向かもしれない。しかし、全体的には、長女のように、はっきりと私似であると指摘することが難しいくらいに、また妻にも似た特徴というのもはっきりしない顔で、なにか隔世遺伝でもしたかと思うようなつくりで、小さいころは姉に良く似ていたのだが、しだいにその違いのほうが大きくなってきていた。性格は姉に比べるとやはり妹の性格が出る。姉よりは言いたいことをすぐ言うので、小生意気なところがないではないが、なかなか可愛い。感受性が強く感動するとすぐ涙がでてくるのが特徴で可愛いく、物怖じしない明るい子である。
 肌寒い三月の深夜、我々は信濃に向けて旅立った。娘には冒険にも似た旅でもあろう。
 幸い列車の座席を確保することができたので、あずさを窓際の席に座らせ、目をつむってねむるように言い聞かせた。発車するころには通勤客も乗りこんで混雑してきた。それでも走り出すと、窓の外を物珍しそうに眺めている。天気は生憎の雨で、この様子では信州は雪かもしれない。列車が走り出すと、あずさは窓から暗やみの外を興奮する面持ちで眺めている。明日のことを考えて、眠るように言い聞かせた。八王子を過ぎるころから頬をまっかにしながら眠りだした。私もあずさの寝顔をみながら目をつむり、列車の揺れに身をまかせた。この子が大人になった時、再びこうして旅にでることがあるだろうか。きっと年とった父親など相手にもしなくなるだろうなどと思いながら、娘の様子を見てはうつらうつらと私も眠っている。あずさも時々、薄目をあけては私を確かめるように見ている。やわらかな背中を撫でながら、いずれこの手から離れていくのだななどとも考えていた。甲府で長い停車時間があったが、あずさはぐっすり寝ている。寝顔は可愛いものだ。信濃境を通るころ雪であった。午前五時ごろ上諏訪の駅に到着する。諏訪駅のホームには温泉の出る洗面所がある。あずさと並んで温かいお湯で顔を洗い、夜行の疲れを拭う。「温かい。」とお湯に喜んだが、それでもあずさはまだ眠そうな顔である。


  夜汽車にてはじめて旅する子はじっと闇の流れる窓を見つめる


  子は頬を紅くさせて眠る 夜汽車の揺れにもたれて眠る

  夢うつつ私を見てはまた寝入る浅い眠りの子の背を撫でる

  子とならび湯で顔を洗う諏訪の駅雪に曇って朝が明けない


 諏訪は私の小学五年と六年生の担任だった先生の故郷だった。小国先生といい、教育熱心な先生で、無着成恭の「やまびこ学校」を朗読しながら、感激のあまり涙声になってしまい、聞いている我々生徒がびっくりしてしまつたことがある。その後特殊学級を担任されたりしたが、若くして亡くなられてしまった。中学に入る前の春休みに、小国先生の家を訪ねて一人旅にでたのが私の旅の最初だった。その頃は蒸気機関車の牽引する列車で諏訪はとても遠かった。鈍行で一日がかりの旅だったと思う。その一人旅の折り、松本から長野へ抜ける篠ノ井線の婆捨山駅で、夜汽車がすれ違う時の光景、スィッチバックの待避線で交換列車を待つ峠の駅で、遠方に善光寺平の点々と白く町の明りが闇のなかに灯り、空には満天の星、そのなかをあの真っ黒な機関車がドラフトを響かせながら遠くから「ボッツ・ボッツ・ボッツ・ボッツ」と喘ぐように、白い煙りを吐きながら急な坂を他を圧倒する轟音で近づいてくる。そして「ポォォォォー」と永遠の空の彼方に物語るような汽笛を鳴らして、私の目の前を通りすぎて行く。私は子供心にもその一瞬の美しさと逞しさに酔いしれていた。いまでもその光景は忘れられないものになっている。今となってはもはや見だすことのできない旅情であろう。

 三月の午前五時過ぎ、外はまだ暗く夜は明けていない。おまけに小雪も舞っている。目がまだ眠っているようなあずさとベンチに座り、「寒い寒い。」と言いながら電車を待った。松本行き四両の電車に乗り込むと、ホッとしたがそれでも車内の暖房は効いていないので、コートで身体を包むようにして座る。明けきれぬ紺色の空の下に諏訪湖が眠っている。「ほら、諏訪湖が見えるよ。」とあずさに指さした。今日は一日晴れそうにもない寒空が続く。
 松本は小雨、街はまだ浅い眠りの中にあった。昔の木造の駅舎とはがらっと変わって、近代的な駅になってしまって、時間の経過を思い知らされずにはいらねなかった。松本は、山の思い出の街でもあり、恋の思い出の街でもあり、仕事の思い出の街でもある。駅前の大手スーパーの進出に関わる苦い思い出がある。思い出のある地方の街がいくつか私にはあるが、この松本は、何よりもアルプスに近く、特に好な街である。二十歳の夏、穂高の涸沢で事故にあって国立松本病院に三週間近く入院したのもはるか昔のことだ。結婚して四年目の夏、家族で最初に旅をしたのが松本であった。長女のほたかが二才、あずさは妻のお腹の中にいた。サンルートホテルに泊まり上高地と乗鞍岳に遊んだ。梓川に遊ぶほたかが古い8ミリフィルムに撮られている。その時、松本の路地を歩き妻が骨董品屋で気にいった皿を何枚か買った。それらの皿はしばらく大事に使っていたが今は一枚も残っていない。
 午前七時過ぎ松本に到着。駅前の喫茶店が開いていたので、そこで軽く朝食をとる。しばらく時間つぶしをして、八時半頃に街の中を歩きながら松本城公園に行き、城の開門をまった。灰色の空の中に黒塗りの城は立っていた。奇妙に静寂な朝で、城の周囲には誰もいなかった。時折空から小雪が降る。九時の開門を待って城に入り最初の入場者となった。城内は森閑として、靴下から伝わる木の床のひんやりとした感触がこの城の時代を感じさせる。
「足が冷たい。」とあずさが言う。武者溜りの部屋の飾りのない無骨な造り、城の床は黒光りしている。鎧冑に身を固めた侍たちが、「ご免」とでも言いながらすれ違うような錯覚さえ覚える。武器倉で弓や槍や鉄砲の検分をし、戦の準備の最中かもしれない。「暗いね。」とあずさ。見物人は二人。その静寂の中で朝の森閑とした空気が城の雰囲気を弓を一杯に絞ったときのような緊張感で包んでいた。天守閣はまぎれもなく要塞なのだ。天守閣に上る階段の間隔が四十センチ位もあり、しかも急なので大股で階段を昇らなければならないことに娘と私は驚いた。女性が着物でこの階段を昇ることなどなかったのではないだろうか。天守閣から眺める街は、雪雲りの空の下に穏やかであった。晴れていれば、この街からは常念岳や、後立山の峰々が見える。しかし、今朝は生憎の小雨で、十時近くなってもどんよりとしている。時折小雪、風が冷たい。春は名のみの春である。濠をめぐる庭園には、梅の花もまだ六分ほどで、私たち親子とおなじように、濠を渡る冷たい風にふるえている。
 
  雪空にたたずむ城とむきあう二十歳の青年の消えた影を追う


  春にふる雪の、恋はかつて梅の蕾で、冷たい風に耐えていたのだ



平成元年1月18日、父は静かに旅だった。80歳の誕生日を間もなく迎える直前であった。



父の死

四国の旅より帰り、九月に入ると、父は墓参りに行きたいと言い出した。私の都合が中々つかないために、墓参りは十月にすることにした。しかし、十月になって水戸に行く段になって、ホームから父の具合が悪いと連絡があった。すぐに妻とホームに行くと、風邪気味だと言う。また、四国から帰って来て以来、急に衰弱してきたように見えるとのことであった。墓参りは取り合えず私と妻と行くことにした。父は行きたがったが、大事をとることにした。毎週のようにホームには様子を見に行った。
しかし、十一月に入って間もなく、父が吐いたので、病室に収容したとの連絡を受けた。病院に入院することの打合せもした。
十五日、ホームより家に病院に入院させるとの連絡があった。出勤する前であったので、入院する病院に直接行くことにした。

この入院後、一週間後に癌であると宣告された。癌には一年前の九月頃からかかっていたと、先生は言われた。食事が美味しくないと言って、食べなくなった頃からのようだ。ホームに移ってから半年後のことであったのだ。
六十二年の三月にホームに移った。六十三年の正月、父は高萩の叔父に宛てた年賀状に

        新年やめでためでたの多摩の里   (昇)

と詠んでいる。父にとっては秋川のホームは悪いところではなかった。
入院して以来、週に二回は父を見舞った。十二月にはいってからは、衰弱の度合が進行した。医者は以外とその時期が早いかもしれぬと、私に伝えた。
正月を家に帰って過ごしたいと願ったが、無理とわかってからか、死を悟ったみたいであった。大晦日店の応援をすませてから父の病室を見舞った。元旦には、家族で見舞ったが、その後一週間見舞えずにいた。
一週間ぶりに、見舞った時、父は「なかなか死なないな」と言った。その言葉のように、父はすっかり痩せ衰え、話すこともなく、私の言うことに反応を示すだけで、言葉も弱々しかった。急に容体が悪化していることがわかった。十六日、親戚の皆が見舞ってくれた。しかし、それが最後のお別れとなった。
十六日その日は、販売部の新年会を伊香保でやることになっており、私も招かれて午後七時過ぎ会場のホテルに着くと父が危篤状態だという知らせを受けた。高速道路は渋滞していたので、八王子まで一般道路を行くことに死、途中妻に連絡をし、病院に向かうように指示した。私は十一時過ぎ病院に着いた。妻は三十分ほど遅れて病院についた。父の容体は、とりあえず小康状態を保っていた。その夜は、病院で一夜をすごしたが、夜一旦家に帰ることにした。十八日の朝、危ないからとの連絡を受け、午前九時病院に着いた。もうほとんど口をきくこともない。かすかに反応するだけであった。目を開いたままで苦しそうな状態であった。、


平成元年一月十八日、午前十一時四十五分父は眠るように、今まで開いていた目を閉じた。七十八歳。

        両の手を我に託して父逝けばありがとうありがとうと囁きぬ
        短日のひざしや淡く父の死に顔
        病室に父をみとりぬ冬ひざし

裕子は少しの差で、会うことができなかった。村山のお母さんも来てくれた。葬儀は八王子の梅洞寺で取り行うことにした。十八日は仮通夜とし、十九日に通夜、二十日告別式とした。梅洞寺は禅宗の寺で、葬儀屋が宗派を聞き違えて手配してしまったことが、後になってわかった。しかし、八王子では由緒のある寺で、鐘楼も立派である。その寺の離の庵を借りた。仮通夜は、私達夫婦とほたかとあずさの四人だけで父を見守った。小雨。こんなに静かな夜はなかった。何年ぶりかで得た時間であった。

        子と孫が父を偲ぶや火燵かな
        白菊の白さも白し夜寒かな

翌日は通夜の為、その準備に何とはなしに忙しかったが、夕刻より、三々五々親族が集まり、午後六時より通夜の法要を営んだ。村山のお母さんだけが残ってくれて、十時頃には、五人だけになった。雨。

        線香や氷雨の寺の通夜の鐘
        灯明の明かりほのかに通夜の雨
住職の心づかいがとても嬉しく思え、よい寺で法要ができることを喜んだ。大森ではこうは行くまいと思われた。

        住職の心やさしき寺にいて安らぎのうち旅にたたれよ
        祭壇の花に微笑む父の顔

二十日告別式。会社の方も見えて、それなりの葬儀になった。福島の内山さんが見えた時には、本当にびっくりしたが、とても嬉しかった。

        お経詠むお坊の声のやさしくて父の遺影ををじっと見つめ入る
        白菊や永久の別れに石もてり子には見せらぬ涙なるかな
        お父さんありがとうね偉かったよ頑張るからねとさようなら言う

一時過ぎ八王子の火葬場にて火葬する。

        さよならの言葉も言えず泣きおりて火入れの時や孫近寄らず
        我を愛し我を育てしその人の骨をひろいぬ骨をひろいぬ
        逝き去りて子の不孝をば想い入る壺に納まる父を抱きしめ

        西方の浄土の空に手を合わせ迎え賜えや南無阿弥陀仏

梅洞寺にて、お清めをすまし、夕刻家に帰り着く。父にとっては一年半ぶりの帰宅である。

        冬暮れて帰りましたよと壺を置き

葬儀の済んだ翌日から、妻は疲労のため数日寝込んでしまった。私は整理に追われ、一週間があっと言う間にすぎ、翌週の月曜日から出社した。

父の四十九日の法要は三月五日とすることにした。三月五日日曜日、雨。肌寒い。納骨。

        雨ふりて寒さもつのる墓地の道
        梅の寺ふるさとの土に父かえる
        父母を刻みし墓誌に氷雨かな
        人の世は仮の旅路か父母はいま黄泉の客となるかな

三月二十一日、板橋の栄子さんとともに水戸へ、初彼岸の墓参りをする。晴。幹夫さんの墓にも参る。赤門の寺の裏道には、畠の脇にかわいいすみれ草が咲いている。芭蕉の句をそのまま頂いて一句。

        墓参り何やらゆかしすみれ草

お彼岸なので、さすがに墓参りが多い。どの墓にも花と線香が手向けてあった。いいことだと思い、嬉しくなった。
        そこかしこお彼岸花のにぎわいて
        妻ときて花酒手向ける初彼岸
        父上よ酒召し上がれ墓につぎ
        線香を手向けるだけか墓参り

翌日三月二十二日、長崎の一ノ瀬さんが上京されて、家に寄られ線香を上げて下さった。父と同い年であるがとても元気で、今回は老人会の旅行で、昭和天皇の御陵への参拝に来られた途中であった。
        いくさち
        戦地で生死過ごせし仲なれば仏となりし友に語りぬ
        戦争の中に送りし青春は半世紀もの彼方になりぬ

父の青春はまさに戦争と切り離せない。昭和とともに自分の人生を終えたのであった。
                                       
 平成元年 四月  記

父との最後の旅  瀬戸大橋・高知・室戸岬         昭和六十三年八月十日、
父が予てから見たいと望んでいた瀬戸大橋への旅に出た。私の都合で夜八時、東名高速を走り瀬戸に向かうことにした。瀬戸まで行くのであるから、土佐の高知にいる戦友の森下さんを訪ねるようにすすめ、前もって連絡だけはしておいた。私にとっても一人で運転して行くのであるから、少々心配ではあった。私は昭和六十年に運転免許を取得したので、これほどのロングドライブは初めての経験になる。一晩中運転するわけにもいかない。用心して途中滋賀県大津に近いサービスエリアにある宿泊施設で、父とともに仮眠することにした。季節柄満員であったが偶然一部屋空いたので、シーツの取替えなど自分がやるから、ともかく泊めて欲しいと頼み込んだ。仕事から戻ってすぐに出て来たので、眠りたかった。午前二時頃であった。

  瀬戸海に架かりし橋を見たいと言う父の願いに盆の旅かな

午前四時過ぎ、二時間ほど仮眠して、再び東名を走り、明け方中国道に入る。京都以西は初めての道である。父は車に乗っていると眠らないのである。かなりきつい旅なのだが、話しかければ答えるが、それ以外は黙ったままで、眠っているかと思って横から見ると目を開けている。私の方が心配になって、「眠りなさい」とばかり言って走った。

 小学三年生の頃、父と旅行をした。奥多摩の小河内ダムの建設中に、東京でも山深い氷川町、今の奥多摩町を訪ね、細い山道をバスに揺られて走った。また、五年生の頃かと思うが、冬に佐久間ダムを見に豊橋から飯田線の箱電で、天竜川に沿って旅をした。佐久間ダムも大きかったが、天竜峡の温泉宿に泊まった夜、外に干したタオルが凍りついたのが印象的であった。帰りは中央線の辰野に出て、準急「白馬」に乗って帰った。当時の国鉄で、急行料金は高く、準急でも贅沢に思えたのだが、切符に赤い線が斜めに一本、急行だと二本引かれているのが欲しくて、父にせがんだのだ。蒸気機関車の牽引する列車は、超満員でスキーヤーや登山者、東京に帰る人で立錐の余地もないほどであった。幸い私はやさしい人達に囲まれて、四人座席の足元に入れてもらった。今では特急で三時間で松本に着くが、当時辰野から新宿まで準急で五時間もかかったのだ。子供心にも、この時は父に甘えたて無理を言ったように思う。旅が好きになったのも父のおかげである。中学になると私は一人で旅行をするようになったが、父は許してくれた。親と旅をすることはとても大事なことなのだと思う。あれから三十年余年が過ぎ、私がもう四十三才になっているのだ。父はもう七十九才になる。
 母が癌で亡くなってから、七年が経ち、父の衰えも年々際立ってきた。一人住まいさせることの危険を思い東京都八王子にある老人ホームに運良く入居したのが、この年の三月であった。父も一緒に老人ホーム施設を見て気に入ったところであったので、比較的元気で、毎週父のところには顔をだした。その父が瀬戸大橋を見たいと夏に入ってから言い出した。施設の許可を貰い、前日から大森の家に連れてきておいて、私が仕事を終えて、帰宅するとそのまま出かけたのだ。正直そんなに楽しい旅ではなかった。「仕方がない」という思いの方が強かったが、今となっては父との掛替えのない旅になったのだ。私はこの父のお陰で生きていけることになったのだから。

その昔父に連れられ旅にでた いま父を庇いて旅にでる夜

高速道路を乗り継ぎながら、明石を過ぎ、姫路の街を左に見やりながら、十時頃岡山の街に入る。瀬戸大橋の表示を得てほっとする。児島のインターからいよいよ瀬戸大橋に向かう。天気は晴。雲が白い。緑の山合いを少し走ると瀬戸の海の近づいてくる感じ。トンネルを抜けると、橋の鉄塔が見えてきた。そして目の前に大きな橋が姿を現す。圧巻である。

夜を抜けて瀬戸内のきらめく海にまむかう親子の遍路
「大きいね」私。
「大きいな」と父。
パトカーが停車してはいけないと、マイクで注意しながら前を走る。どの車も先を急ぐ気配がない。橋の大きさ、夏の景色に魅入られている。のどかな風景の中に、この橋は人工のものでありながら、風景に溶け込んでいるように見える。与島のサービスエリアに下りる。強い日ざしの中、ここで大橋を堪能することにした。
 
     後ろ手に海越える橋仰ぐ父「大きいなあ」と夏帽子が笑う               大橋を仰ぐ人の群れのなかにいて 夏陽に一人父の影がほそい
     パラソルの椅子に座る父 地蔵のような顔をしている
     「来てよかった」と言って立つ父の背に大きな大きな瀬戸の大橋
     
瀬戸の大橋を渡るJRの列車の通過する音が大きく響く、確かにニュースに取り上げられるほどの騒音なのだ。観光にはいいが、生活には大変な音であろう、まして夜は尚更のことだと思えた。父とレストランでカレーライスを食べ、昼食とした。今回は金銭的には全く余裕のない旅で、それが父を連れて出かけるのを渋った一因でもあったわけだが、ともかく来てよかった。ここまで来たからには、ままよ高知まで行け。森下さんに電話する。何枚かの写真をとった。足の弱り方は、以前にも増して弱っているように思える。階段は必ず手をとって支えた。表情は飄々としており、変わることがない。
「来てよかったかい」と問うと、
「よかった」と、しごく満足そうに答える。
しばし瀬戸内海を跨ぐ巨大な橋が青い空と海を背景に架かっている様を眺めている。父の願いを聞いてここまで来てよかった。ただ青空の輝くような陽射のなかでは父の脚をかばいながら歩く姿は、悲しかった。
海を見て父の願いを叶えたと思えばうまし煙草くゆらす
                    よすが 
    久かたに父と連れ立つ四国路を遍路の旅に似た縁かな
  老いてゆく父の姿や空の青海の青さに溶けず悲しき

午後一時与島を出て、土佐に向かう。四国の山は落ち着きのない雲にいつの間にか覆われて、瀬戸の海の上だけが青く抜けている。大橋を渡ること約十五分、左右に穏やかな内海を見、行き交う船も長閑な情緒にあふれている。

     この橋を渡れば土佐の盆祭り
 
四国に入る。一路高知に向かう。道標と地図が頼りとなる。琴平山を遠く右にみて走る。田舎道となり、やがて吉野川に出会う。山にさしかかるや山時雨となる。大歩危、小歩危を走る。高校生の時に一人で旅行したことが蘇ってくる。あの時列車で通った鉄路は、吉野川に沿って危な気に見える。、

 高校に入学する春休みに、一人で九州の長崎の一ノ瀬さんの家を訪ね、長崎や雲仙を案内してもらい、平戸を回って、山陽路の尾道から松江に渡り、佐多岬の突端までバスで行き、九州の国東半島を文語海峡を挟んで間字かに見た。そして伊予から田宮寅彦の小説で有名な足摺岬に行き、高知から讃岐に出て、岡山、倉敷をめぐり、大阪から紀伊半島の勝浦、伊勢へ、伊勢神宮に参り東京に帰るという大旅行をした。四国を訪ねたのはその時が初めてであった。
 伊勢には昔、父が銀座のスエヒロに勤めていたころ、松坂牛の肉を運ぶトラックの運転をしていたので、それに便乗して行ったことがある。当時は高速道路もない時代で、国道一号線を一日かけて走ったのだ。これも小学生の時であった。道中に見た菜の花畑の美しかったことが印象に残っている。
父は明治四十三年の生れで、水戸の出身で昇といい、、兄光夫と弟三郎の三人兄弟であった。三郎は昭和ニ十一年三十三才で死亡している。母はフク、父は由三といい、由三は大正十一年一月に亡くなっている。早くに父親を亡くした。兄弟二人の子供時代の写真があり、兄光夫はスーツを着ていたが、父は丁稚姿の和服に鳥打帽子であった。早くから奉公に出されたのだ。父は妻となる高萩久子の母の姉あきに育てられ、母フクよりこのあきさんを親のように大事にしていた。父が水戸に墓を作ったとき、この高萩あきの名を墓標に刻んだ。遺骨はないにもかかわらず。
軍司の家は本家は水戸でも由緒ある家で、江戸時代天保八年十一月に初代軍司富右衛門が七十九才で亡くなっている。水戸の偕楽園の石碑に水戸藩に何か寄付を行ったとして名前が残されていて、父と水戸へ墓参りに行った折に、誇らしげに案内してくれたものだった。それが父の祖父の段階で相続が長男から末弟に移ったために財産を貰えなくなってしまい、正統から外れてしまったという。
もしそうでなければ、水戸に何がしかの土地を得ていたのだと言っていた。それ以前に軍司は水戸で呉服屋「越後屋」という暖簾で大きく商いをしていたが、父の祖父の代の折、浅草の芸者に入れ揚げて身上を潰してしまったのだと言う。この軍司の家の物語は小説になる。
母フクは助川といい、水戸大工町の角の大きな鰻やの娘であった。もともと身持ちの良いほうではなかったようで、亭主が死んだあと女郎屋にいたという話もある。勝手気ままな母親を父はあまりこの母を好いてはいないようであったが、戦後、大森で一緒に暮したので、私も知っている。年寄りにしては艶っぽさがあったと、子供心に思ったが、孫として可愛がられたというほどの思いはない。
父は苦労して成人し、軍隊に入営する。自動車の運転をどこで習得したのか聞き損ねたが、昭和初期から自動車を運転していた。天皇の観閲式で宮様を乗せて車両を運転したことが自慢で、兄光夫も宮様を乗せて行進したのだが、車が途中でエンコしてしまい、それ以来光夫は二等兵のままで昇進することなかったという。
 父が母久子と結婚したのは昭和十一年、ニ・ニ六事件の起こる数日前で、伊豆大島の新婚旅行から帰ってくると東京が騒然としていることに驚いたと言う。久子は三人姉妹と弟一人の兄弟の長女で妹二人と弟とは母親が違い、先妻の子であった。もともと磐城の炭鉱で働いていた父親について九州に移った娘時代に陸軍中尉の家に奉公にあがり、そこの奥様に躾られたという。次女はとても若いときはきれいで当時の映画から誘いがあったという。確かに若い三人姉妹の写真を見たことがあったが、美人であった。しかし美人というのはどうも男運に恵まれない。後年二人の夫とも死別し、病もちの生活をおくった。
父昇と久子は許婚であったという。所帯を港区芝に持ち生活をはじめたというが、隣が映画館のためよく映画を盗み見していたそうであった。結婚した翌年十二年に軍隊に召集され、中華事変で派遣され、十六年に一旦除隊した後、軍属で自動車の助教として軍隊にいた。南京で終戦を迎え、上海で引き上げの時期を待ったという。中国では妻久子とも一緒で、中国軍から残留して欲しいと望まれたそうだが、昭和二十一年に帰国し、大森駅の近くに住んだ。子の頃、母の割烹着姿に抱かれている私の写真がある。そして大森駅を通る蒸気機関車を見ては興奮していた。ところが人の良い父は家を買う金を騙しとられてしまい、やむなく大森の小さな長屋の一軒に移り住むことになった。大田区大森ニ丁目百七ニ番地であった。その後地名が変って、大森本町ニ丁目となったが、いまではそこが私の本籍である。そしてそこで私の人生、物心がついてからの人生が始まったのだ。

 小歩危、大歩危の渓谷沿いに車を走らせる。対岸をJRの特急列車が見え隠れしながら過ぎて行く。列車は窮屈そうに谷を走る。トンネルを出たり入ったり、車としばらく競争していた。大歩危をすぎて、祖谷にむかった。平家の落人の集落という山深い集落を訪ねることにした。昔行き損ねたかつら橋を見に立ち寄った。今やこの山奥も観光スポットとなって土産物屋が軒を連ねている。以前に思ったほどの感動はなかった。早々にして立ち去り、再び32号線を吉野川に沿って南下する。ますます山路は険しくなってくる。

     雨降りて危しいい道に吉野川細りて土佐へ導ける
国境のトンネルを幾つか抜け、下り道にかかると南国土佐に入った。雨も上がり、午後五時頃高知の駅前に着いた。観光案内所にて安宿を紹介してもらい、荷を置きに行く。ホテルから森下さんに到着の電話を入れる。高知はちょうど祭りの最後の日とかで、賑やかな雰囲気が漂っていた。森下さんご夫妻がわざわざ迎えに来て下さって、家まで案内して頂いた。森下さんの娘さん家族と一緒に、近くの中華料理店で豪華に夕食を頂く。徹夜に近い運転であったのでかなり疲れていたが、この一時はとても楽しかった。
森下さんとは上海で日本への帰国を待つ宿舎で一緒であったという。九州長崎の一ノ瀬さんもその時の知り合いである。森下さんは父より若く、森下さんの奥さんが母久子に,遠藤を良く見てもらったのだといい、当時のことをとても感謝しているのだ。とても明るい性格の女性で、しゃきしゃきしていて豪快な面もある。

父が中国に単身でいた頃、軍曹になった頃に従軍看護婦と一緒に撮った写真があった。母はその写真を見て、看護婦の手が綺麗なので、「これは芸者ではないか」と言ってかなり悋気を起こしたようで、その後、母は中国に渡ったという逸話がある。小柄ではあるが、私の母は燐として品があった。あの陸軍中尉の奥様に躾られたものだと思う。終戦の戦地にあって、多分母は混乱の中にあっても他人を思いやり、自分を失わないで明るく振舞っていたのだと思う。母からは当時のことを聞く機会がなかった。父は母には頭が上がらなかったと思う。不器用に母を愛しているのが私にはよく判っていたし、母も父を大事にしていた。小学三年のころだろうか、夕食の時に父がお膳をひっくり返して、母を起こったのか、ともかく一度だけ物凄い夫婦喧嘩をした。夜遅く私は母に手を引かれながら、大森海岸の高萩の実家にとぼとぼと歩いて行った。京浜急行の踏切を無言でうつむきながら渡った夜を覚えている。そんな時が一度あった。

昔話に花が咲き、お酒も程よく回って、父は上機嫌で楽しそうだった。やはり高知まで来てよかったと思った。この時森下さんがビデオを撮った。それが父の最後の姿を残すものとなった。父は料理もあまり多くを食べなかった。ビールは飲んだ。食べないことの方が気がかりであった。
                                                     
大陸に生死をともに賭けたれば顔くしゃくしゃにして語りをり
     遥々と訪ねて友と交わす酒元気であれと父はげましぬ

夜十時頃、明日のこともあり、父の身体も気遣って、楽しかった森下さんの家を辞してホテルにもどった。一息ついて父と風呂に入った。父の痩せ衰えた体を見て、老いの著しいことに驚いた。それでも父が病気であるとは考えても見なかった。私の不覚である。弁解の余地もない。もうすでに癌に犯されていて、年齢のため進行がはやくないので判らなかったのだ。父の皺皺になった身体を見るのは辛かった。いつまでも親は元気だと勝手に思いこみたいのだ。やはり悲しい。

     病とは思いもせずに盆の旅痩せた父の背を洗う
     安宿をえらんて悔やむ祭りの夜素泊り用の狭き部屋かも

翌朝七時に起きて、木賃宿風の朝食をとり、出かける。森下さんの家を訪ね改めて礼を述べ、再会を約して室戸岬に向かう。今日は太平洋に沿って走り、徳島、鳴門から淡路島に渡り明石へのコースをとる。天気は定まらず、南洋のスコールが降るような雰囲気のままであった。ひたすら室戸へと走る。午前十時頃室戸市に入る。漁船が並ぶ港町である。街中を抜けさらに二十分ほどして、岬の公園に入る。しかし灯台は見えない。はるか昔に旅行した記憶も定かではなく、中岡慎太郎の銅像があったことだけを覚えていた。バス停のそばの小さな売店に入って休憩する。売店のおばさんに、父が戦前三越百貨店で室戸岬の観光紹介があったこと、それはとても盛況で、その時に展示された室戸岬の朝から夕方へと一日の変化を表した模型がとてもすばらしかったことを思い出して、その時の興奮を伝えるかのように珍しく多弁になって話す。聞いている方は想像もつかないが、急に思い出したのだろう。父は室戸岬にきたことは無かった。話した後で牛乳一本を飲む。店を出てから、父に灯台からの雄大な太平洋を是非とも見せたいと思い、灯台への道を捜した。以外とわかりずらくて迷ってしまったが、人がいる処をここだときめて歩くことにする。
「オヤジ、灯台見に行こうよ。ここまで来たんだから、ゆっくり歩けばいけるよ。」
「ここにいる。いいからカツミ行ってこい。」
「そんなこと言わないで、手を引いていくから、太平洋を見ようよ。」
雨が今にも降りそうな感じであったし、少し急な坂道になっている。熱帯の樹林の中を歩く面持ちである。灯台まではその樹林の中を行く。父にはきつい道である。いかないと言ったが、ゆっくりでよいから行きましょうと言って、歩きだした。傘を杖代わりにして一歩一歩進む。最初の坂道は五十メートルほどであったが、何度も休みながら進んだ。平坦な場所で立ち止まり、坂道を振り返る。父もうれしそうに振り返った。あとは平坦な道であった。灯台の白い姿が木の間から見えてほっとした
  
岬への坂道足ひき歩く父 振り返り大きな深呼吸する
  背おいても父に見せたし灯台は大海原にただ真白なり

灯台の管理事務所のすぐ下に灯台はあった。さらに急な坂を下りないと灯台にはいけないので、事務所の庭から灯台と太平洋を眺めることにした。
「ここからは急だから、どう太平洋は。でも天気が危ないな」
「・・・・・」
しかし、天気がついに崩れて、ポツリポツリと降りだした。海上は晴れているのだがスコールのようになってきた。楽しむ暇もない。樹木から落ちる雫は大粒である。

  大粒の雨 足ひく父にさす傘がない 父の手を握りしめる
少しでも濡れないように父の肩にタオルをかけ、足元が覚束ないので傘を杖にする。笠を差すわけにもいかない。
「背負うかい。歩くの大変だから。」
「いい、歩く。」がんこに言い張る。
見っとも無いことなどできないと言う、明治男の自負みたいなものがある。それは分かっているのだが、風邪にでもなったら大変なので、私も気が気でない。時折強く雨が降るが、両足を摺るようにしか前に進まないので、濡れるしかない。少しでも早く車に戻りたかった。他の観光客の人達も大変ですねといいたげに目で挨拶して小走りに通る。帽子は被っていたので頭は濡れずに済んだ。わずかな短い距離がこの時ほど遠くに感じられ、雨を恨んだ。宿るところもない岬の山道。背負うと言うと歩くと言う。背負えば恐らく啄木と同じ思いをしたにちがいない。ようようの思いで車に辿りつくや、タオルで父の服を拭き、身体が冷えないようにと膝掛け用の毛布で包んで座席に座らせた。この時ほど裕子がいればと思ったことはなかった。

  濡れた父をタオル毛布に包む、風邪めされなや旅の雨なら

雨も間もなく穏やかになったが、降り続いている。ほうほうの体で室戸岬を後にした。
一路徳島に向かう。雨は降ったり止んだり落ち着かない。海岸線の道は車を走らしていても、中々飽きることがない。空は鉛色に鈍よりとしているが、太平洋の広がり、波の白い色がくすんだ藍色の海にアクセントをつける。
「寒くないかい。大丈夫?」
[ああっ。・・・]
途中太平洋に大きな虹が現れた。父は車に乗ると、前を見つめているだけで、「虹がでているよ」と言っても興味を示さない、が父の様子を見ると大丈夫そうなので、やれやれと思った。昼時分、途中の田舎の食料品屋でパンを買い、昼食とした。レストランのような飲食店など少ない田舎の国道を、休むことなく車を走らせ、ともかく鳴門に着きたいと思った。

父と私は三十六才離れている。私が高校を終わるときには五十四才になっていたことになる。京浜急行の平和島駅で新聞の売店の権利をフクから引き継いで母と二人でやっていた。私は家が豊ではないことを知っていたので、就職しようと思っていたが、クラスの男子で就職希望は私と淵君だけだった。朝日新聞の大田区の印刷工場で月給が一万六千円だった。当時この条件はとても高い方で、男で一万ニ千円、女子だと九千円くらいの相場であった。高校では生徒会活動で二年執行委員長、所謂生と会長をやり、大森高校では名物生徒であった。
私は父に大学を一つだけ受けさせて欲しいと頼んだ。入学金と授業料は心配するなといわれたが、私は一番授業料と入学金の安くて特徴のある学科を持っている大学を探し、神奈川大学の商法学部貿易学科を受けた。もしこの時、大学に行けなかったなら、私の人生は本当に変わってしまっただろう。運良く合格したこともあったが、この父の許しがなったなら進学はできなかった。その後も大学院まで進んだのだから、修士過程を終了したのが二十五才、父は六十を過ぎていた。そこまで親に負担を掛けた。その頃は深くも考えずにいたが、人並みに世間に出られたのも父のお陰なのだ。
やさしい父であったが、その父と二十歳を過ぎて、一度だけ衝突したことがある。二十一の夏、きっかけが何であったのか思い出せないのだが、私が松本の看護婦の女性と結婚したいと思っていた頃で、原因がそのことであったか定かではない。ただ母をとても心配させてしまった。
父は少年野球にも熱心で、子供たちから「監督さん、監督さん」と慕われて、まだまだ元気で頼り甲斐があった。あれから二十年が過ぎて、いま傍らに無口でおとなしい老人となった父がいる。

吉野川の河口の橋を渡り、徳島の町中をすぎ、鳴門橋の案内標示を見たのは、午後二時頃であったろうか。鳴門橋は、本土とつながっていないため、通行量はそれほど多くもない。橋も瀬戸の大橋のように派手さもなく、おとなしいたたずまいであった。瀬戸の海はここでも晴れて、土佐とは違っていた。しかし、渦潮を見る余裕はない。淡路島のサービスエリアで小休憩をとる。父は相変わらず飄々としている。疲れているのかそうでないのかよくわからない。朝から車の中では眠ってはいない。こちらの方が心配になる。淡路島の海岸線にそって岩屋へと向かう。下り車線の車が多い。帰省のせいであろう。父は乗っているだけで、多くを語らない。午後四時頃岩屋に着く。二十分ほどの待ち合わせで明石へのフェリーが出る。フェリーに乗り込む。ドラがなり出航。静かなものだ。二十分ほどで明石到着。車の中で過ごす。明石港に着いたと思った時、父が
「山が動いている」と、突然言い出した。
「えっ、何、船が動いてるんだよ。いま船が揺れてるの。」
港に着いていままで揺れることも無かった船が上下するのだ。向こうの六甲の山が動いているように見えたのだ。
「明石に着いたんだよ」とを言うと、
「船は動いたのか」と聞く。
「港に着いたよ。」
「そう、あまりにも静かなのでわからなかった」
「静かだったからね。」
フェリーから降り、桟橋から再び車を走らせる。
「何処にいくのか」聞く。
「帰るのだよ。明石に着いたのだから」
「ああっ」と父。

「山動く」と言う父に言葉なく改めて知る老い深まるを
     この旅が父と最後になるのか 言葉少なくハンドルをにぎる
     闇のなかを逃げるように走る 父よあなたの老いが救えない

明石よりは国道を走り、西宮より東名に乗る。午後六時。吹田のエリアで休憩し、食事をとり、東京に向かう。走りに走り、その日の十二時に家に着く。もっと余裕のある旅を父に与えたかった。これより三ヶ月後、父は入院し、癌と判明し、翌昭和六十四年一月、年号の変わった十二日後に他界した。

                               
 平成元年四月記

<山靴の歌>というのは私が山関係のブログに着けてきた名称です。

このたびアメーバーブログで統一することにしました。FC2で作っていたのですが画像と映像の取り込みが思ったようにいきません。

「雨のち晴れの記」で長くつきあってきたアメーバーブログで新新・山靴の歌です。

2010年から投稿してきたヤマレコを退会はせずにアカウントだけは残しておいて、投稿は停止します。コラボした場合の記事だけ参加になるでしょうか。


体力的にヤマレコのレベルで登山するのは難しくなってきたし、ヤマレコをメインに考えて行動もできませんので自分の洞穴に潜るように、このブログを育てていきたいです。

日本百名山の登山記と映像の作成が長年の夢で、自分のやりたいことに向かって、残りわずかな時間をつかいます。


本来ならホームページを作りたいのですが、まずはブログで整理していきます。

もうこの歳になると何事もマイペース、それが一番よろしいようで、ストレスをためず、張り切りすぎず、いつもニコニコして過ごせるような日々を過ごしたいと思います。


やはり山そのものと縁は断ち切れないでしょうから、それなりに身体に見合う程度に大事にしていきます。

それよりもビデオ撮影と編集に趣味としてのかかわりを強めていきたいですね。

素人芸ですがそれなりに楽しいですからね。

ビデオ撮影と編集の対象の一つが山を通しての自然ということになるでしょうか。

人間関係は、また別個に長続きできるおつきあいを心掛けてまいりたいですね。

2013年の年賀状をいただいた方とは、おつきあいをお願いしたいと願っています。


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hagure1945のブログ