達磨さんが転んだ -2ページ目

08年12月30日

9時起床。
しばらく「ごくせん」の再放送を観る。二度寝して17時起床。
ワイズマート、セブンイレブンで買い物。夕食はアメトークを観ながら冷蔵庫の余り物で作った鍋とオムレツ。
彼女と電話で話す。
「朝まで生つるべ」を観る。毎年恒例の番組だが、鶴瓶さんの話術はすごい。様々な分野の人とも親交が深く、愛されている人でないとここまでの話はできない。途中、ウィキペディアで鶴瓶さんについてのエピソードを観て感動。なんて濃い人生であろうか。更に鶴瓶さんが好きになった。

08年12月29日

16時起床。
26、27、28日と日記が滞ってしまった。後で一気につけてしまおうと思ったのが失敗だ。やはり日記というものはその日のうちか、遅くても次の日にはつけないと詳細なところまでは忘れてしまう。いつもならここで止めてしまうのだが、ここは踏ん張ってつけてみよう。

昨日、父親から電話があり、祖母の容体がよくないとのこと。今のところ呼吸器をつけ抗生物質、点滴をうっている状態だという。現在97歳。最後に会って1年以上は経っている。歳を考えるといつ何があってもおかしくないと思って覚悟はしていたが、いざそんな連絡がくると「とうとう来たか」となんともいえない不安な気持ちになった。祖母とは俺が14歳の時から東京に行く19歳まで一緒に暮らしていた。一緒に暮らすまでは1度も会ったことはなく、暮らし始めた時には既にアルツハイマーの症状があった。体は丈夫であったが、数年前から老人ホームに入り、ここ最近は歩けなくなり、全く喋れなくなっていた。小さい頃元気な祖母と接して、楽しかった思い出があればもっと感傷的な思いになるのであろう。おそらく祖母も俺が自分の孫ということもしっかり理解はできていなかったように思う。もちろん祖母がいなければ、俺は存在していなかったわけで、感謝しているのだが、すぐに駆けつけてあげたい。というような感情にはならない。そんな自分が理解はできるのだが、好きではない。それはアルツハイマーというものが、家族にとっては辛いものでしかないと感じているからであろう。ただその中にも様々な家族の愛情を自分なりに感じていたことも事実で、そんな中で祖母との楽しかった思い出が少しでもあったのであれば、もう少し受け止め方が変わっていたように思う。祖母と血が繋がっているということで、大事な人という意識が生まれて、なんともいえない不安な感情に繋がってくるのであろう。

夕食はゴーゴーカレー。その後ダラダラとテレビを観て過ごす。夜食に生ハム、オムレツ、ごはん。明日からバナナを食べないと流石に腐ってしまう。起きたら改めてバナナダイエットをはじめよう。途中、明日会う予定であった友人から連絡があり、子供が水疱瘡にかかってしまったということで帰省できないことに。残念だが仕方がない。そういえば自分は水疱瘡にかかったという記憶がない。大人になってからかかるとかなり症状が重くなると聞いたことがあるので、記憶違いであることを祈りたい。

08年12月25日

15時半、イクスピアリにて彼女と待ち合わせて、プレゼントを買いにショッピング。先に食事を済ませ、店を回る。ちょうど彼女が欲しかった服がセールになっており、プレゼント購入。セールになっていることにさらに喜んでいた。こちらの懐事情も知っているだけに気にしてもらって有り難いことだ。俺へのプレゼントは飲み代をごちそうしてもらうことに。俺自身物欲がないので、これで充分だ。2人で飲み屋で4時間程しゃべりまくり、24時帰宅。