《良薬(良言)口に苦し。耳には障(さわ)る。》
教育制度が諸悪の根源。
(例えば、あなたは英語で習った仮定法過去と仮定法現在の違いを説明できますか?それが生活する上で何の役に立つのかも含めて?これは村上春樹の「ノルウェイの森」に出てくる話です。
記事でも書いていますのでブログ内検索して読んでみてください←これは氷山の一角にも満たないほんの一例、モンテーニュがうまいことを言っているのですが、こういうのは「本を背負ったロバを養うに終わってしまう」、と言うのだそうです。
つまり本はロバの血肉には全然なっていないということです。完全に分離している。金八先生が、「私たちはみかんを作っているんじゃないんです。人間を作っているんです!」とかつて言いましたが、これは間違いで、正解はロバを作っている、です。なぜロバかというと、背負った本の内容は卒業すればすべて忘れるからです。
本を背負ってもいないからただのロバ。
(だけど重い本を背負っていたという記憶、からっぽの空間だけは残っているから、それが下で僕が言う、インチキくさい精神性となる。)
分厚い、字のギッシリ詰まった参考書とかを学生時代に読めるのは、それが嫌でしょうがなくても、学歴という自分の利益になるということをちゃんと知っているからです。だけど一旦卒業してしまうと、
例えばブログとかでも、バカみたいに行間の空いたものしか読まないようになるわけです。それが自分の利益にならないことを知っているから(利益になる可能性を感じられないから)。
このように、
実は自分の利益になるもののためにしか行動しないくせに、「私たちは人間を作っているんです!」とかいう綺麗事には簡単に感動したりして、自分は精神性を持っていると全く勘違いしているわけで、それはやっぱりロバというしかないのです。(*自分は、「自分の利益になることにしか絶対頭を使わないのだ」、と信じたくないのなら、この長い文章を読み続けてください。)
過去に行われてきたすべての変革も、
駄目な大人に教育された子供が、大人になって考え出した(言葉の概念に制約された)、駄目な変革に過ぎない。教育したものには責任はない。その人たちもただその前の世代の大人たちにそう教育されている、というに過ぎないのだから。
人間の馬鹿さが連鎖しているのです
(科学技術の異常な発展で、この馬鹿さに拍車がかかっている)。この連鎖はどこかでいつかは断ち切らなければならないものです。その、もはや変革とも呼べない、断絶、をいつやるか?
今でしょっ(笑)!
『あらゆる人間の知識のうちで最も有用でありながら、最も進んでいないものは、人間に関する知識であるように思われる。』
ジャン・ジャック・ルソー(1712~1778、フランス)「人間不平等起源論」
いまだにこの言葉は通用するでしょう?
人間は、動物性(感情)を抑える理性(知性)的なものという人間観か(こんなもん大昔からある)、それに反抗する弱肉強食説派か(こっちも大昔からある)、このどちらかに、ほとんどの人が含まれてしまうのでは?
僕に言わせれば、このどちらも同じ穴の狢(むじな)。
せめて人間について知らないのだということを知るべきでしょう。
(*「利益になることに頭を使うだけ、というののどこが悪い」、と開き直る方は、僕の書いているものを全部読んだ後ももそう開き直れるか、試してみてください。)
道徳の授業の教科化、などということを言う人の人間観の惨めさについては、ここでわざわざ触れるまでもないでしょう。
こういうのは、教育制度の生み出した一種の化け物(犠牲者)、といっても過言ではないでしょう。
*今、高校倫理の授業で使われる用語集で調べたのですが、ルソーは、「エミール」という物語形式で書かれた本で教育論を展開しています(岩波文庫、上、中、下巻)。
この中では、子供の自然性の発現を保護する消極教育が説かれている。
ルソーは啓蒙思想家の一人だったが、啓蒙の世界にあって、封建社会のみならず、文明社会そのものに対しても鋭い批判の矛先をむけた、まさに異色の思想家であった、と書いてあります。
「自然に帰れ」というのがルソーの思想をあらわす標語。
ということで、ここにルソーの上の言葉を持ってきた僕のチョイスも、あながち間違ってはいなかったということになるでしょう。なぜなら、ルソーは、古いものに対してだけでなく、新しいものに対しても疑いの目を向けているからです。
(ここからはある日の記事から抜粋)
僕は全体の95%ぐらいの人はもっといろんな種類の本を読むべきだと思います。
なぜなら、ほとんどの人がこの記事の追記で僕が書いている、ゲーテが言ってること、
「感覚が欺(あざむ)くのではない、判断が欺くのだ。」
(↑この言葉は、上で僕が書いた、ほとんどの人(学者とかも含め)がそれを信じている、ありきたりで浅はかな、動物性、感情(感覚)を知的、理性的判断で抑える、という人間観をひっくり返しているのです。)
ということを全く想像さえできないでいると僕は思うからです。
たぶんほとんどの人は、スマップの「世界にひとつだけの花」などを聴くと、「みんな違ってていい、ってその通りだな」、
とか感動したりするのだと僕は思うのですが、
もしみんなの違いを認めると言うのならなら、犯罪者の特性もひとつの違いとして認めなければならなくなります。
それができないのなら、
そんな歌聴いて無節操に感動してたりしてはいけないのです。本当の人の違いを、本を読んで知らなければならない。
僕がブログタイトルの下の欄に書いている、パスカル(1623~62、フランス)の、『人は空想を心情ととりちがえる。』という言葉は、ゲーテの、『感覚が欺くのではない。判断が欺くのだ。』と同じことを言っています。
パンセの言う「心情」がゲーテ(1749~1832、ドイツ)の「感覚」に当たり、『空想』が『判断』に当たります。
(前にも書いたとおり、僕のブログはどこを切っても同じな金太郎飴(あめ)ではないので、前の記事を読んでいない方は読んでくださいね。
僕は情報を発信しているのではないのですから。
「情報発信」という言葉をよく耳にしますが、情報というのは新しくないと意味がないものです。
前に僕は、ブログを更新するときの難しさについて記事を書いたことがあって、その記事はブログテーマからすぐ読めるようにしているのですが、
その中で僕は、これは人が新しいものにしか価値がないと無意識的に思ってしまっているからなのではないか、ということを書きました。
人が前の記事にまでさかのぼって読んだりできないのは、人が「情報」を求めているからなのではないかと僕は思います。もっと言えば、情報しか求めていないと。
情報というのは、主に株の取引のときの判断材料などのことに使われるのが王道ではないかと思うのですが、株取引の材料としての情報など、
もちろん新しくなければ意味がないですし、
誰もがそれを知っているものであっても意味がないし、ただそのとき
一時的にだけしか必要としない、使い終わったらさっさと忘れてしまう、というような類の知識です。
「情報発信」などという言葉に踊らされている人は、結局のところ、そんなものにしか興味がないのではないでしょうか?)