BIZARRE EXPLORATION

マトリックスの話ならおもしろい。あの、「マトリックス」の話である。

 

1999年に公開されたこの映画はこの日本においても人気を博した。機械(システム)に支配され、自分たちがそうとは気づかずに支配されている人間たち。彼らは自分たちがシステムに搾取されていることに気づかずに日々を過ごす。

 

実は人間たちは機械たちに完全に支配され、完全に眠らされたドームの中、チューブにつながれ、熱を一方的に搾取されている。彼らが共同で見ているのは機械によってみせられている共同仮想現実である。
 
その世界の中においては、悲しみだけではなく、喜びだけでもなく、いささか脳を刺激にするだけの課題と、適度に実現していく欲望があり、その世界の中で人間たちは生かさず殺さず、搾取されているのである。自分たちに自由意志があると思い込みながら。これを現代といわずなんとしよう。

 

主人公トマスアンダーソンはそのような哀れな羊たる人間たちの一人である。無個性の名前は大衆の一人であることを示す。そんな彼がそのような世界に抗うレジスタンスに導かれ、仮想世界マトリックスの呪縛から逃れ反システムのレジスタンスとして活躍、やがて救世の予言をなぞるかのように、救世主ネオとして覚醒する話。それがマトリックス1だ。
 
(このような話は当時他にも日本で確認できる。共同幻想の話はFF10でも見られたし、主人公が反体制派のレジスタンスに合流する話はFF7でも見られた)
 
そしてこの話は現代社会(管理社会、搾取社会)のメタファーとして、また東洋的哲学(色即是空空即是色)を含んだ、マッチョでちょっと脳筋の従来のアメリカ映画と一線画したものとして人気を博した。
 
一方でマトリックス2、3にあたるリローデッド、レボリューションに対してはつまらないとの評価が圧倒的だった。1では救世主とされたネオだが、2,3においては実は、そのシステムマトリックスによって作為的に作られたもので、その救世主制度すらも、人間たちのレジスタンス活動に対してのガス抜きだった、という救いようがない話に転じたのだ。
 
この話はウォシャウスキー兄弟がウォシャウスキー姉妹になったことと無関係ではないだろう。イルミ案件。

 

この腐敗したシステムの瓦解を、それを主導する救世主への待望すらも、 「お前たちの希望なんて何の意味もない。完全にイルミナティのシステムによるシナリオ通りだ」 とあざ笑う、悪魔的な発想だ。

 

マトリックスレザレクションでは主人公ネオはまた仮想現実マトリックスの中で仮想の中で生きているところから始まる。

 

ネオはゲームクリエイターの人生を送っており、マトリックスという名前のゲームを作っているのだ。ネオの目を真実からそらすために配置されたものたちは言う「世間ではマトリックスは2,3よりも1が重要だったと言っているが俺は違う。1はあまり好きではない」

 

真実から目を背ける設定のものが今回2,3を支持し、1をけなすという作業をしていることを覚えておこう。
 
今回の4が解放への動きなのか、あるいはイルミ側のいつもの「希望を見せ、そして、絶望へと転じさせる」という悪魔的ないたずらなのかは分からない。
 
物語の中でシステムは言う。
「人間は自由意志よりも従属を好む。君らがやっている解放活動はまた徒労にくれるであろう」
と。
 
あるいは我々の真の自由意志を希求する心は、システムの中で未来永劫続く「永劫回帰」の中へと埋没してしまうのか。
 
その希望こそが、作られた永劫回帰の因果をも超克するのか。
 
それは映画というマトリックスを超えた、そして作成者たちの思惑をも超えた
 
この現実によって決定する。
 
トリニティ風にいうならば、だ
 
「感謝をしている。
 
お前たちは私たちに二回目のチャンスをいずれにせよ与えた」