ターコイズブルー
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彼女と最初にあったのは、RBCという沖縄の放送局のロビーだった。
若くて元気いっぱいな女性が、花束とプレゼントを持って、僕が帰るのを待っていていくれた。
二度目にあったのは、全駐労というところの創立何周年かの記念大会に歌と講演のゲストに呼ばれたとき。
全駐労というのは、在日米軍基地労働者の生活と権利を守るために組織された労働組合で、二階席の一番前で一番ノリノリに踊っていたのが彼女だった。
それからは、沖縄のいまここ塾に100回以上来ただろうか。
いつも一番前に坐っていた。
彼女は基地の中で、米軍兵のための洗濯をするのが仕事だった。
仕事場の環境は決して良いとは言えず、朝から晩まで40度を超える室温の中で働いていると聞いた。
換気が悪いからと改善を求めると、変わりはいくらでもいると言われたそうだ。
女手一つで二人の子供を育てる身であり、本土に比べさらなる就職難の沖縄では、仕事があるだけでもマシだったかも知れない。
そんな彼女に癌が見つかったのが今年の初め。
夏ごろには余命数か月と宣告された。
それでも入院する直前まで、毎週吉の浦会館に通ってくれた。
入院してからは、友人のピーちゃんから彼女の容態を聞いていたが、あまり思わしくないようだった。
秋になって、病院を退院し、山原のホスピスに入ると聞いた。
もちろん本人はあきらめたわけではなく、民間療法で最後まで戦うつもりだった。
死を恐れているというよりは、残された二人の子供のためにも死ねないという覚悟に見えた。
退院の直前にお見舞いに行った。
癌治療の副作用で、髪の毛はほとんど抜け落ち、見る影もないくらい痩せこけていたが、終始笑顔で対応してくれた。
彼女とはそれが最後になった。
訃報が届いたのは、それから間もなくしてからだった。
妹さんから聞いた話だが、彼女は最後の最後に、子供たちにこう言ったそうだ。
「お母さん、頑張った」
しかも元気に微笑んでこう言ったそうだ。
「私は頑張った~!!」
そして亡くなった。
彼女は本当に頑張ったそうだ。
激痛に耐えながらも、最後の最後まで頑張ったのだ。
彼女は「死」は存在しないことを理解していた。
しかし、肉体を離れれば子供たちが残されてしまう。
だから頑張ったのだ。
生きることは凄いことだ。
時には壮絶な戦いを強いられることもある。
しかも自分のためではなく、愛するもののために。
限界まで頑張っても、死は無情にもその時を待ってはくれない。
死ぬときは死ぬ。
激痛と戦い続けた彼女に、僕は何を伝えてあげられただろうか。
僕の言葉は、ほんのわずかでも役に立っただろうか。
いま思うのは、彼女は何もかも理解し、覚悟し、人生の最後に立ち向かったということだ。
死を目前にして、「生きる」ということを強烈にやってのけた。
お葬式には出られなかったが、とても安らかな顔だったという。
彼女からは、「生きる」ということを教えてもらった。
ターコイズブルーのご冥福を、心よりお祈りしています。
彼女と最初にあったのは、RBCという沖縄の放送局のロビーだった。
若くて元気いっぱいな女性が、花束とプレゼントを持って、僕が帰るのを待っていていくれた。
二度目にあったのは、全駐労というところの創立何周年かの記念大会に歌と講演のゲストに呼ばれたとき。
全駐労というのは、在日米軍基地労働者の生活と権利を守るために組織された労働組合で、二階席の一番前で一番ノリノリに踊っていたのが彼女だった。
それからは、沖縄のいまここ塾に100回以上来ただろうか。
いつも一番前に坐っていた。
彼女は基地の中で、米軍兵のための洗濯をするのが仕事だった。
仕事場の環境は決して良いとは言えず、朝から晩まで40度を超える室温の中で働いていると聞いた。
換気が悪いからと改善を求めると、変わりはいくらでもいると言われたそうだ。
女手一つで二人の子供を育てる身であり、本土に比べさらなる就職難の沖縄では、仕事があるだけでもマシだったかも知れない。
そんな彼女に癌が見つかったのが今年の初め。
夏ごろには余命数か月と宣告された。
それでも入院する直前まで、毎週吉の浦会館に通ってくれた。
入院してからは、友人のピーちゃんから彼女の容態を聞いていたが、あまり思わしくないようだった。
秋になって、病院を退院し、山原のホスピスに入ると聞いた。
もちろん本人はあきらめたわけではなく、民間療法で最後まで戦うつもりだった。
死を恐れているというよりは、残された二人の子供のためにも死ねないという覚悟に見えた。
退院の直前にお見舞いに行った。
癌治療の副作用で、髪の毛はほとんど抜け落ち、見る影もないくらい痩せこけていたが、終始笑顔で対応してくれた。
彼女とはそれが最後になった。
訃報が届いたのは、それから間もなくしてからだった。
妹さんから聞いた話だが、彼女は最後の最後に、子供たちにこう言ったそうだ。
「お母さん、頑張った」
しかも元気に微笑んでこう言ったそうだ。
「私は頑張った~!!」
そして亡くなった。
彼女は本当に頑張ったそうだ。
激痛に耐えながらも、最後の最後まで頑張ったのだ。
彼女は「死」は存在しないことを理解していた。
しかし、肉体を離れれば子供たちが残されてしまう。
だから頑張ったのだ。
生きることは凄いことだ。
時には壮絶な戦いを強いられることもある。
しかも自分のためではなく、愛するもののために。
限界まで頑張っても、死は無情にもその時を待ってはくれない。
死ぬときは死ぬ。
激痛と戦い続けた彼女に、僕は何を伝えてあげられただろうか。
僕の言葉は、ほんのわずかでも役に立っただろうか。
いま思うのは、彼女は何もかも理解し、覚悟し、人生の最後に立ち向かったということだ。
死を目前にして、「生きる」ということを強烈にやってのけた。
お葬式には出られなかったが、とても安らかな顔だったという。
彼女からは、「生きる」ということを教えてもらった。
ターコイズブルーのご冥福を、心よりお祈りしています。