娘に振り回されて毎日が終わっていく今日この頃です。

 

最近は園でも療育でも「ママー」と泣き叫んで、切り替えが難しいようです。お迎えにいくと泣いていることが多くなり、園の入口の自動ドアが開くと、娘の「ママー」という泣き声が響いており、ぎゅーと辛くなります。

 

「ずっと泣いていたのか」、「いつまで続くのか」、「昼寝の迷惑になっている」。

 

毎日毎日、形を変えて、終わりのない悩みが突きつけられているようで、ため息がでます。

 

そして、この「ママさがし」は愛着が出てきたらからなのか、ママという「御用聞き」を探しているのか、果たしその両方か。

会話がない娘の要求の根源を探るのは毎度、「想像の範疇」を出ず、解決策が見つからないまま、次の困難が生まれるだけなのです。

 

STの先生に「娘の発達に少しでも役に立てばと体を動かしに毎日のように公園に行ったりしているが、私が疲れ果てている」と話すと、それは「お母さんが療育をしたいというよりも、娘さんが泣くから、癇癪を起こすから、要求に応えているという対処療法です。この先、娘さんが泣いても要求が通らないということになれば、もっと癇癪を起こしたりして、娘さんもお母さんももっと辛くなりますよ」とやんわり注意というか、私にとっては耳の痛いアドバイスでした。

 

恐れていた「誤学習」を知らないうちに毎日にように「娘のために」という大義名分でやっていた私。「よくやっておられるから娘が安定している」という自分に都合のいい言葉ばかりを選んで、娘の癇癪やわがままにきちんと対応してこなかった事実に反省しています。

 

ただ発達年齢がまだ認知面では2歳にも言っていないので、どこまでできるのかわかりませんが、癇癪を恐れず我慢させることも必要なのかと冷静に受け止めています。

 

厳しい言葉ですが的確な指摘だと思います。娘が知的に遅れているからといって、許容するスタイルだと私は疲れ果てるし、娘はそれ(要求に応えてもらうこと)が当然になってしまいます。

 

だからといってすぐに実行に移せるか自信はありません。

 

息子と違って、障害のある娘の癇癪はとても疲れます。現実はこうなんだよな〜と思います。黙って従う方しかできない自分が嫌になるけど、1対1で向き合っても道理が伝わる相手じゃないんだーと泣けてきます。

 

要望を突き通すまで続けるという娘の執念が凄まじく、これはもう感情をつかさどる部分が故障してるんじゃないの??の毎回思います。小さい子の癇癪とは違う、なんだろう本当にただ暴れ喚き散らして、攻撃しようとする態度。自傷になりそうで結局応じてしまう。

 

故障、いやそもそもそんな部分がない?成長していない?それが障害の正体なのか?

 

そして、毎日祈るのです。

 

どうか「娘の感情をつかさどる部分が成長しますように。」と。

 

リアルになってきた願いごと。七夕はこれだな。

 

毎日、自分の人生の何かを引き換えに差し出せば、娘の障害が治るなら差し出します。と思っています。

 

叶わぬことを思う時、そんな風に考えてしまう自分に呆れてしまいます。

 

娘への目標も夢も希望も遠過ぎて、見えない。

 

でも生きていくんだ。自分への希望だけは失わないようにしないと。