家族に尽くした1年 その2 娘の妊娠と父の入院 | hachiのブログ…from time to time

hachiのブログ…from time to time

今の気分、きまぐれに

昨日

なんとなく近況報告のつもりで書き始めたのですが

自分の覚書もかねて

また ここに来てくださる方も そろそろ親の介護が見えてきた方や 絶賛介護中の方も多いと思うので

なにか参考になることがあるかとも思うので

詳しく書いてみようと思います。

 

私も 介護に関しては お客様をはじめとする 経験者の話が 一番参考になり

励まされ 慰められたので。

 

 

その1から 続きます。

 

 

2022年 1月 

呑気に過ごしたお正月が終わり

店はセールや年に1度の一番大きなイベントに追われました。

 

2月上旬

娘から 「リッツカールトンのアフタヌーンティー」に行こうよとのお誘い

久しぶりに婿なしで娘に会いました。

 

そうしたら 妊娠の報告

結婚が25歳と早かったので しばらくは仕事するから作らないと言ってたのでビックリ

本人たちも予想外だったらしいですが

娘は ずっと水の中のスポーツをしていて

極度の冷え性でしたので もしかしたら出来にくいのではと

内心、心配してたので 嬉しいというより 安心しました。

 

ただ私と一緒の食べづわりがひどく 

ずっと食べてないと気持ちが悪くなるそうで

食べ物も ダメなものも多く 作るのも出来ないというので

そこからは 4~5日分のおかずを作っては 車で1時間の娘宅へ配達が始まりました。

 

平日は仕事で忙しいのでできないので 週末に買い物に行き 

たくさんお惣菜を作って届ける

冷凍したら美味しくなくなるし 献立が限られてしまうので

凍らせずに日持ちの良いもので 娘が食べたいもの。

なかなか大変でした。

こっちに帰省してくれたら楽ですが

娘は仕事もしていたので そうもいかず・・・

 

いったいいつまで続くんだと思った2月の下旬

 

母から電話で

「お父さん 具合が悪くて寝込んでる。」と

当日午前中まで 母と仲良くデイサービスに行っていたので

驚きでした。

 

母の脳出血以来 7年老々介護で 母を支え続けた父ですが

年々 体力は落ちてきていて 私が様子を見に行く回数も増えていたのですが

元気そうに見えていたので 驚きました。

 

 

「すぐ行こうか」と行ったら おかゆを少し食べで薬を飲んで寝てるので

明日で良いよというので 明日行けばいいかと気軽に考えてました。

それより明日は 娘のおかずも作らないといけないし どうしようかくらいに。

 

明朝早くに母から また連絡があり

「お父さん 昨日は夜中にトイレにも行けなくて 大変だったの」と。

熱はないとのことで とりあえず母に頼まれたものを買って 行ってみると

ぐったりしている様子で これはダメだと。

 

夜中にパジャマや下着を何度も汚していたので

着替えさせ(私が父に介護らしいことをしたのは この1回きりとなりました)

「おれはもうあかん」というので

娘の妊娠を安定期に入るまで 黙っていようかと思ってたのですが

ここは曾孫の誕生が 生きる励みになると

「お父さん、曾孫が9月に生まれるんだから 弱音を吐いてる場合じゃないよ!」

と  慌ててカミングアウトしました。

 

契約している訪問看護師さんに電話をすると すぐに駆け付けてくれました。

看護師さんが到着して検温すると 38度台に上がっていました。

 

看護師さんから 救急車を呼ぶので 家の電話を貸してくださいと言われ

電話をしてもらうと とりあえず受け入れ先があるならと すぐに救急車到着

 

このころ コロナ患者が増えていたころで

熱くらいでは来てもらえなかった時期だったので

訪問看護を契約していて 本当に良かったと思いました。

 

救急隊の方が 看護師さんの所属の病院に連絡して

コロナでなければ受け入れ可能との確認を取って 救急車出発

私も救急車のあとを追って車で出発しました。

 

母は日曜日で デイサービスのない日でしたが

一人で大丈夫というので とりあえず 留守を任せました。

実家から電車で2時間のところに住んでいる兄に 

やっとこの時点で連絡

ホテルの支配人をしている兄は 仕事中は ほぼ連絡が取れないのですが

この日はすぐ連絡が着き 私がいつ戻れるかわからないので

なるべく早く母のもとへ来てほしいと依頼

 

病院に着くと すでに救急車は到着していて

車内で 抗原検査マイナスだったため 処置室へ

 

今 PCR検査と その他の検査をしているので

説明があるまで 処置室で待つようにといわれました。

もしPCRでプラスが出た場合は コロナ専門の病院に転院することになるとのことでした。

 

あとから 同じ時期に親が救急車で運ばれた友人と話していてわかったのですが

平日だと 付き添いの家族は 別室に隔離されて 待つことになったそうで

私は休日だったため 父の近くの処置室の隅に居させてもらえたので

父に声も掛けられたし 様子も分かったので すごくありがたかったです。

 

 

処置室では 結局 4時間くらい過ごしました。

処置をされるたびに うめき声をあげる父を見るのが とても辛かったのを覚えています。

 

母曰くは 痛がりな父でした。

胃潰瘍などの病気で 何度か入院したことのある父ですが

いつも母が付き添っていたので そんな父の姿は ほとんど見たことがありませんでした。

 

糖尿病や心臓など いくつかの既往症のある人で

大阪市内にある ずっと昔務めていた会社の病院に 86歳まで 電車に1時間乗って通ってました。

 

母の介護をしていたので

そうやって月に1度 大好きな電車に乗って出掛けて 外で昼ごはんを食べて帰るのも

良い気晴らしなんだろうと 付き添うこともしていませんでしたが

コロナ禍になり 父から初めて付き添いを頼まれました。

 

行くと 診察の後に 私だけもう一度呼ばれて 主治医から

「コロナもありますし お父様がここまで来られるのは そろそろ難しいと思うので

ご近所に転院されては?」と勧められました。

 

帰りに 病院のすぐ裏手にあるホテルで食事をしようと言われて

ホテルに向かいましたが 歩いてほんの5分のところを

父の脚では 15分以上かかり 知らぬ間に父がこんなに弱っていたことを知りました。

 

父の口癖は

「もう俺は死ぬる」で(中国地方の方言のようです)

そういいながら なんだかんだ元気で 

しょっちゅう「腰が痛いんや」と騒ぐし 

私も兄も 「また言ってる、ほんまにお父さんはおおげさ」と笑ってかわしていたので

このときのうめき声は 本当に辛そうで 何もしてやれなくて身の置き場がありませんでした。

 

先生から 呼ばれて

まずは コロナではないが、肺が真っ白な事

治療は抗生物質の点滴と週明けにドレーンを入れて水を抜くと告げられました。

話し方が 2年前に胸膜炎で入院した母の時に比べて 淡々としていたこともあり

(母の時は 高齢だし 何があるかわかりませんと言われて 延命治療についても聞かれた)

すぐ治るもんだと 疑いませんでした。

 

入院手続きの説明では 高齢なので せん妄などの可能性の説明等があり

治療によって 体力が落ちることは聞いてましたが 母のこともあったので

それでどうにかなるとは その時点では 考えませんでした。

 

コロナ禍なので 入院中は会えなくなるとは覚悟はしていましたが

そこはなぜか

「長い時間は会えませんが 連絡をくだされば 15分くらいなら会えるので いつでも連絡ください」と言われました。

 

ただ 今思えば それくらい重篤だったんだと。

前述の同時期に親が同じ病院に入院した友人は 一度も合わせてもらえず

着替えだけ 届けていたそうで よく考えるとわかることなのに

「優しい病院だな」としか思いませんでした。

 

 

入院や 貸出しの寝間着や生活用品(コロナ禍ですべて持ち込み不可)の書類に 膨大なサインをして

入院病棟に運ばれていく父とは エレベーターの前で 別れることになりました。

 

まさかここから帰れなくなるとは この時は思いもしませんでした。

 

ただ87歳という年齢を考えると

病気が治るまでに 体力が激しく落ちるので

すぐ家に帰るのは難しいだろうと リハビリ施設などをどうしよう、

その間 母はどうしよう

そんなことを考えながら 父には「頑張って!」と声を掛けました。

 

その3へ続く