父の記憶 回想録

- 2年目の夏休み、野球部の合宿に付き合った。顧問の米花先生がこの夏休み東京の大学へ勉強に行くため、責任者である顧問が不在となる。合宿するためには誰か教員の責任者が要る。その役目をひき受けた。
- もともと野球部とは関係なかった。野球は好きだったが、クラブに属したり、指導を受けたりしたことはなかった。道路でキャッボールをやったり5,6人で略式の野球を楽しむだけだった。号弘の野球は遊びだった。
- どうして私にお鉢がまわってきたんだろう?独身で暇だ、と思ったかもしれない。それを訝る声もあった。折角の夏休み、早く帰りたいだろうにと私に言ってくれた人もあり、「ここで彼女でもできたか?」とひやかされたこともある。実際は彼女どころか、月灘で親しくなった若い女性は1人も居なかった。以後も女性にはずっともてなかったなあ。
- 合宿中は真面目に練習しているかを見守ったり、感想を述べたり、多少のアドバイスをする。練習の合間に生徒相手にキャチボールなどはしたように思う。時々、地元の経験者が来て指導してくれた。
- 苦労したのは食事の用意だ。近くの店といえば学校のすぐ前に川村商店があるだけだ。どんなにしたかなあ、自分で食材を調達して、調理したとは到底考えられない。雑用をしてくれる少女が居るはいたが休み中に手足のように使えたか?質も量もよくなかっただろう。すぐに生徒から不平不満がでた。これにはまいった。
- 時々、校長が視察というか見に来た。たまたま相撲部の合宿中であったが、指導していた平田先生の言葉が面白かった、日く「部屋がきたない時にかぎって校長が来る」。彼はまた野球部のキャチャーの今宮が言う「ナイスたま」はおかしい、「ナイスボール」と言うようにと注意してくれた。
- 月中の北は山、南は田圃だった。ファールか何かでボールが時々水田に入る。田圃の持ち主は生徒が水田に入るとかんかんに怒る。田の中のボールを見つけると鎌の先でボールをこつんとやると聞いた。
- 中央中学校へ練習試合に行ったことがある。ここではボールがあらぬ方へ飛んだら海へ落ちる。どこの野球部も苦労していた。それにしても中央中の顧問の先生はいそしく、あっちこち気を配って走りまわっていた。
- 運動会にクラプ対抗リレーがあり、野球部はボールとグロープ持って走り、ボールをバトンとして使った。私がボールを直接手渡さなくても、近くへきたら投げてリレーしたらいいと助言した。昔、どこかの町民運動会でそういう風にしていたのを見たこともあったし、野球の特徴が出ると思ったから。ところが、私が言ったようにやりはじめると米花先生が、走ってきて、両手を大きく振って止めた。競技違反と判断したのだろう。私も学校の運動会と町民や会社の運動会とは同じ校庭を使っても基準が違うと認識した。
- ある年の運動会に平田先生が応援歌として赤胴鈴之助の歌の替え歌を作って、自分のクラスを鼓舞した。歌は非常に良くできていた。
- 平田先生指導の相撲部にはあとで富田先生も副顧問みたいになったし、よく20代の教員が応援に来て生徒相手に相撲をとった。ほとんど先生は生徒には負けなかったが、(間違っていたら、御免)私は1,2度やってみてこれはいかんと諦めた。
- 校庭である生徒(沢田じゃないかな?)がある時「100メートル競争しよう」と言ってきた。まだ中学生には負けんぞとすぐに応じたが僕には意外だったが負けてしまった。この生徒、今津先生、沖先生、吉田先生、などには挑戦しなかっただろう。私はなめられていたのだ。
- 月中の陸上部は強かった。特に〇〇君(名前を忘れた)は強かった。相撲部では「梶原は腰がわれている」と平田先生が褒めていた。言っちゃあ悪いが女子のバレーボール部は弱く試合でいつも負けていた。私は最初新聞部をうけもったがあまりうまくいかなかった。あとを受け継いだ岸本先生は思いきって紙面を一新し、文字も大きくして読み易くした。

