私は機能不全の家庭で育ったのかもしれない。。。
父はバツイチ1人子連れ(兄)で母と結婚し、私と妹を儲けた・・・
私は結婚し娘を出産する頃始めてその事を聞かされた。
聞かされたときはちょっとショックだったけど、兄も苦労したんだな~と泣けてきた。兄と母との関係は良かったけど、それなりに兄は子供の頃から色々と気を使ってきたと思うと可哀想で。
母は貧乏子沢山な家庭で育ったため、ハングリー精神旺盛な我慢強い堅実な母親、父はお坊ちゃんで女兄弟の中、大事にされていたから、ダメンズ。。。
母は苦労していたのだろう。私が小さいときは母のストレスの行き先は私になっていた様に思う。
小さい時、父がいない時に叩かれたり、ハンガーで殴られたりした記憶もあって、機嫌が悪くないか発言にも常に母の顔色を見ていた気がする。
母は貧乏子沢山な家庭で育ち、長女という事もあり、昔は家庭第一で爺ちゃん(母のお父さん)は修学旅なども行きたくても行かしてもらえず家の手伝いをしなさいと言われ、こっそり学校に行くとお爺ちゃんは学校にまで来て引きずり回されて怒られて連れてかれたらしいです。お爺ちゃんはお酒が入ると、ダメで、お酒を飲まないと凄く優しくて、お弁当はいつもおじいちゃんが作ってくれてたらしいです。
母は「ご飯が食べれるだけでも幸せだと思う。」とよく言っていた。そんな母だから、我慢強い母だから私達のために父とは離婚しなかったんだろうし。世間体や常識やルールに凄く拘る人でした。小さい時は厳しくて怖い母だったけど、今となっては結局、何かの時に助けてくれるのは母だし、母も一人の人間、子育てで失敗や間違いがあって当然だと思います。
でも私は母の様には娘を育てたくないと常に思ってました。子供の可能性に限界を作らず、世間体など気にせず、事由に伸び伸びとほめて育てたいって。
でもやはり育てられたようにしてしまう事もあって、娘は目にいっぱい涙を溜めて「暴力ー私もママに一緒の事するよ~ママがしていいって事は私もしていいって事でしょ。」って鋭い目で訴えてました。
私が中学の頃は父と母の会話が全く無い事が多かった・・・兄は高校卒業と共に家を出た。
私は高校に上がった頃は自分の居場所は何処にも無いような感じになっていて、妹はまだ小学生で私はいい子で我慢していた分反動と反抗とで家にも帰りたくなくて家出をしたり、ほとんど家にいる時間が少なくなっていて、高校も行きたくなくて、早く働いて、家を出たいと思い続けていた。
高校を卒業し両親を説得し、家を出て、遠くに行った。そのときはなぜか親から離れなければ私はダメになるって、ずっと思い込んでた。
その後母の満たされない心とと、ストレスはきっと妹へ全て注がれたと思う。家族が不仲だと子供なりに凄く気を使っている事は親はもっと理解しないといけないと思う。気を使う食事なんておいしくない。常に伝言役。伝言役が文句を言われる。
妹は父親の事が大嫌いになってしまった、人に対しても心を閉ざしがちになってしまった。
私は仕事をしていたので娘は小学校に通うようになってから、学校から帰ってきてからはじーじと曾ばあちゃん(じーじの母)と殆ど過ごして、夕飯も毎日用意してくれて。私は正直、甘えてました。娘は曾ばあちゃんと過ごす時間が凄く好きで、こっそり曾ばあちゃんの部屋に行っては、曾ばあちゃんの横にちょこんっと座ってました。きっと時間の流れとかお話のゆっくりさが合うんだと思いました。
小学校2年生の時に曾バーちゃんが亡くなって、娘は寂しくなっちゃいました。今でも曾ばあちゃんに教わったように、うんこが出ない時、右の鼻を人差し指で押さえて、腰をトントントンってして、曾ばあちゃんの話をしています。怖がりの娘はいつも曾ばあちゃんにトイレに付いて行って貰ってたのです。
曾ばあちゃんがなくなった後は、じーじが毎晩、夕食の用意をしてくれてました。娘は「じーじのお料理おいしい、じーじいつも色々してくれるからじーじも何処かたまには連れて行ってあげようよ。」娘はじーじが家で孤立してる事を凄く気にしてるんです。
でもじーじが用意してくれても妹も食べません。一緒に食事も絶対しません。
じーじが一緒に何処かに行くとなると妹は来ません。じーじとばーばの会話してる所は娘はほとんど見たことはありません。
娘が不登校になって、とにかく2人の生活を見直し、私が手抜きをせず、食事を作るようにし、実家にもほとんど行かなくなりました。じーじはきっともっと孤立し、唯一、娘の食事が遣り甲斐だったのに、それも無くなったら、寂しいだろうなと思い気にはなっていますが。。。どうする事も出来ません。
娘は「とにかく自分の発表会だけはじーじも呼んであげようね。妹が嫌って言っても呼んであげてね。」って・・・
ここまで10歳の子に気を使わす大人って。。。と思いますよね。