究極の人種差別

  ~Shaudowの ひとりごと134

            2024.07.25 H・A・笑童

 

【差別・第1ステージ】

 紀元前5世紀、ペルシア帝国の遠征軍とギリシア連合軍のあいだで行なわれた戦いを「ペルシア戦争」と呼んでいる。

 現代でもヨーロッパで「歴史の父」とされ、当時を生きたギリシアのヘロドトスは実際に見聞したこの戦争を、自らの著書『歴史』に書き残した。

 その中で彼は、ギリシア人は自由な民であり、対するペルシア人(バルバロイ)は異邦人として描かれているが、そこに人種間の差別を読み取ることはできないとされている。

 そこにみられるのは征服した民を奴隷とし財宝を奪う強い民族が、すべてを奪われ奴隷となった弱い民族を攻撃する戦争の歴史であった。

 

 このようにわれわれ人間は人種と他の人種、あるいは民族と他の民族とを区別する行動を古代から行なってきた。

 そしてその戦争は同じ人種、同じ民族の間でも行なわれており、敗者は身分と財産を奪われ、奴隷とされたが、その行為は一定の人種や民族をターゲットにしたものではなかった。

 しかし、双方に利害の対立がなければ単なる区別というものだが、奴隷を得ることで自由人を主張するギリシア人も、自分たちの利益となっている奴隷の存在を認めざるを得なかった。

 ソクラテス、プラトンと偉人を輩出し、人間として正しい行動基準をもっていたはずのギリシア人には奴隷を所有する理由が必要だった。そこで考え出されたのが奴隷の存在は「戦争の定め」とする解釈で奴隷を正当化することだった。

 ところがこの理由づけに物足りず、新しい論理で正当化しようと考えた男がいた。

 

 それがプラトンの弟子であり、アレクサンダー大王の家庭教師でもあったアリストテレスであった。

 彼は自身の著書『政治学』の中で「理をもってはいないが、それを解するくらいにはそれに関与している人間は自然によって奴隷である」と表現した。

 つまり彼は、自由人と奴隷を隔てるものは知力の差異に伴うものであり、知力を持たないものは生まれながらにして奴隷であると定められているのだとした。

 そして奴隷には奴隷の仕事に適した肉体を、自由人は常に威厳と風格を有しているのも自然であり、この区分は双方に利益を生むとしている。

 すなわち奴隷は奴隷であることが幸せなのだと言っているのだ。

 またアリストテレスは戦争についても、劣っているがための敗者であり、世界は優れた人間と劣った人間が存在するのも自然であると説き、次のように言っている。

 「ギリシア人は、ギリシアにおいてのみならず、世界のどこにおいても絶対的に高貴であると考える。しかしギリシア人は、異邦人は彼らの国においてのみ高貴だと考える」

 この紀元前4世紀にアリストテレスが説いたギリシア民族の優越性と、奴隷がふさわしいとする他民族を蔑視する観念は、対象を変えて現代にも引き継がれている。

 

【差別・第2ステージ】

 中世になると差別の対象が、知性の有無から信仰する宗教の違いによる差別へと変化した。

 当時のヨーロッパには国という概念はまだなく、人を区分するものはキリスト教を信じる者と、そうでない者、つまりキリスト教徒vs異教徒の構図が生まれていた。

 

 キリスト教会は商売に才覚をもつユダヤ教徒との取引を禁止したが、ユダヤ教徒はキリスト教徒が禁じられている金貸し業に進出し、ますます財を蓄積していくことになる。

 もともとイエス殺害の罪を持つユダヤ教徒を敵対するキリスト教会だったが、一般教徒は金儲けをして裕福に暮らすユダヤ教徒を妬ましく思う気持ちが迫害を生み、この異教徒への迫害はヨーロッパ全土に拡大していったのである。

 

 キリスト教会が敵対するもう一つの異教徒はムスリムであった。

 彼らもまたユダヤ教徒と同様、豊かな生活を営んでおり、大義名分はエルサレムの奪還であったが、ここでも一般のキリスト教徒の思惑は違ったものであった。

 キリスト教会はエルサレム奪還を旗印に十字軍を組織し、11世紀から13世紀の200年にわたってムスリムへの繰り返し行なわれた攻撃は宗教的な理由ばかりではなかった。

 

 従って、この時代に見られた差別の動機は宗教戦争の装いをしているが、根底にはユダヤ教徒、ムスリムに対するキリスト教徒の妬みやジェラシーそして恐れがあったのだ。

 しかし、キリスト教徒の崇拝するイエス・キリストはユダヤ人として生れた神の子であるし、なにより、キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒もみんなアダムとイヴの末裔なのだが、新しい差別がこの時代に現れたのも事実だった。

 

 5世紀カトリック教会の司教アウグスティヌスの差別に関して残した言葉がある。

 「どこで生まれた人間が誰であろうと、その者の皮膚の色、動作、言葉がどのようであろうとも、またその者の力や生まれつきの四肢や性質がどれほど特殊であっても、クリスチャンは誰でも、その者が最初に創造された一人の人間の末裔であることを疑うことはできない」

 

【差別・第3ステージ】

 そしてここからは大航海時代が始まり、大きく舵をきられた差別は大洋の荒波で増殖する。

 16世紀以降、ヨーロッパ人は大海に進出し、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸、太平洋やオセアニアの島々に上陸し、それぞれの先住民と遭遇して彼らの皮膚の色、身体的特徴をみて驚いた。

 

 ヨーロッパ人は、初めて聞く言語や生活様式を観察して彼らを「野蛮人」と呼んだ。

 戦争を繰り返すことで文明を手にしたヨーロッパ人の価値観からすれば、この判断は当然なのかも知れない。

 学者たちの中で「彼らは人間なのか?」は真剣に議論されたし、1754年にスコットランドの哲学者ヒュームは「ニグロ及びその他の人種は、生まれつき白人に劣っている。白人以外の皮膚の色をして文明を発展させた国はかつてなく、もちろん傑出した個人も出ることはなかった。また芸術も科学も彼らにはない。しかし白人は教養がなくても、生活水準の低い者でも以後の環境によって立身出世ができる。ニグロや他の人種に才がないのは、自然が人種によって最初から違いを設けているからだ」と述べている。

 

 ヨーロッパでの有色人種はアフリカのニグロが代表的な存在であったが、19世紀に入ると武力はもたないがヨーロッパ人と同様に歴史と文明を有する存在を認め、彼らを東洋人と呼んだ。

 しかし、ニグロより勝るかもしれないが、白人と異なる肌の色は劣った人種であることに間違いなく、やはり東洋人も蔑視の対象であることに変わりはなかった。

 

 さらにこの頃、白色人種の優秀性を理論武装する書物が刊行され、欧米でベストセラーになった。

 イギリスの生物学者チャールズ・ダーウィンが1859年11月に出版した『種の起源』がそれである。

 ダーウィンは「生物は環境に適応するように、適者生存を繰り返しながら変化する」と述べ、「適者とは生物が持つ性質は個体間で違いがあり、それは遺伝されるが、有益な個体は維持、存続するが無益な個体は消滅していく」とした。

 この適者生存の思想が人間世界に持ち込まれ、従来から受け継がれてきた優秀な白色人種は生存し続け発展するが、下等な有色人種は消滅するのが自然の法則であるとする人種差別を審判した。

 

 19世紀アメリカ人医師で解剖学の講師でもあったサミュエル・モートンは人間の頭蓋を収集、研究してヨーロッパ人、特にイギリス人とドイツ人の祖先をもつ人々は他の人種よりも知的、道徳的、身体的に優れていると発表した。

 加えて、モートンの信奉者であったやはりアメリカの外科医ジョサイア・C・ノットは「白人は支配者となる宿命を創造主から与えられており、ヨーロッパの発展が自然の法則であって他の人種が支配されることは人類のためである」と説いた。

 イギリスが囚人の流刑地としてオーストラリアに入植したとき、もちろんそこには先住民はいたが、イギリスはオーストラリアを「空き地」として占拠し、女王の土地と宣言したのも白人至上主義の結果といえる。

 

【差別・第4ステージ】

 さて、大航海時代を経て差別の対象が明確になり、優秀な白人が支配者で、劣っている有色人種が被支配者と区分された人種差別の構図が確立された。

 ところが20世紀に突入すると、ある民族を狙い撃ちする差別が現れる。

 それは19世紀末、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世によって広められた黄色人種への恐怖が発端だった。

「黄禍論」と名付けられたそれは、世界中へ出稼ぎに行く4億人のマンパワーをもつ中国と、着実に力を付けつつあった日本帝国が手を結むことで、新たな脅威が世界の勢力均衡を崩し、白人社会が脅かされるというものであったが、当時の白人社会に暮らす一般民衆の中では現実のものとして受け入れられていなかった。

 

 しかし、その後、日本帝国は1894年~1895年の「日清戦争」、1904年~1905年「日露戦争」と立て続けに勝利してしまった。

 アメリカ国内では日本労働者に対する不満が広がっていた時期である。

 特に西海岸では、日本人移民への不平不満が怒りへと増殖し、街なかでの暴力事件が目立つようになり、ついに政府が介入することになる。

 サンフランシスコの教育委員会は1906年(明治39年)、日本人学童を公立小学校から隔離し、東洋人学校に通学させる決議を採択したことで、全米に日本との開戦説が沸き上がっていった。

 さらにこの時期、シナ大陸への進出がヨーロッパ列強に一歩も二歩も遅れたアメリカは、日本帝国が進めていた満州鉄道への経営参加協力を断られたことも要因の一つになったのであろう。

 

 この時期、アメリカが仮想敵国としたのは複数国あり、セオドア・ルーズヴェルト大統領は1904年(明治37年)、それぞれに色分けされた極秘の戦争計画をスタートさせている。

 すなわち対・日本は「オレンジ計画」、他には対・イギリスは「レッド」、対・ドイツは「ブラック」、対・メキシコは「グリーン」などとといった具合であった。

 ちなみにアメリカのオレンジ計画がスタートしてから3年後の1907年(明治40年)、日本もアメリカを仮想敵国にし、西太平洋でのアメリカ艦隊を襲撃する計画を帝国国防指針で策定している。

 

 当時の世界の一等国はイギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパの国々でアメリカはまだ発展途上の国であった。

 同様に世界の一等国の仲間入りを目指していた日本は、アメリカにとって最も目障りな国であり、恐れている国であり、しかもイエローの有色人種である。

 避けられない日本との戦いに向けて、アメリカ国民の命と財産を守る重要な任務を果たさなければならない大統領として、当然の「オレンジ計画」であった。

 

 陸海空軍がそれぞれにシミュレーションしながらの戦いの進め方はもちろん、いかにして戦争に持ち込むかも重要課題であった。

 すなわち、正義のアメリカに対する悪魔の日本帝国、民主主義のアメリカと独裁主義・軍国主義の日本、あるいは白色人種と有色人種などの構図をつくることが不可欠であった。

 そのためには日本を「悪者」にして世界から孤立させなければならない。

 日本とシナとの分断も必須であるから、シナへの文化的援助を通して中枢部を飼い慣らし、シナ国民には反日思想を植え込み国民運動とする、などが決議されていく。

 他には、戦後の日本をどうするか、すくなくとも二度と立ち上がれないようにしなければならない。

 等々の議論が、以降、継続して繰り返され、修正されながら実際の開戦まで続けられることになる。

 

 そして、アメリカ国内では1907年、サンフランシスコで反日暴動が起こり、多数の日本人が殺傷された。

 1908年には日本を威嚇するため、1万トン級の戦艦16隻(日本海軍の2倍)が横浜に入港した。

 船体が白く塗られた戦艦群は、幕末の黒船になぞらえて白船と呼ばれた「白船事件」は、「日米開戦か!」と世界中で大騒ぎになったが、例によって現代の日本にこの種の事件が伝えられることはない。

 当時は日露戦争の直後で体力も財力もなく窮地に立たされた日本政府だったが、このときアメリカ国旗を手にした国民が「白船艦隊大歓迎」、と見事にこの大事件をスルーしてしまった。

 

 この後も1913年、カリフォルニア州で日本人の土地所有が禁止される「第1次排日土地法」制定。

 1917年、アジアからの移民を排斥する「米国移民法」制定。

 1920年、カリフォルニア州でより規制が厳しくなった「第2次排日土地法」制定。

 1924年、アメリカ国家が日本人移民を禁止する「絶対的排日移民法」制定。

 こうしてアメリカ政府は国民の声と一体となって「悪魔の国・日本」を仕立てながら日本人を排斥していった。

 

【差別・第5ステージ】

 当初のアメリカはオレンジ計画を含め国別に想定したカラー計画を作成していたが、1939年2月、それらを統合して「レインボー計画(1~5号)」と改めた。

 そこにはアメリカ合衆国の一等国への仲間入りから、「世界覇権」に照準を転換した姿があった。

 1938年12月、新しく発見された新型爆弾をドイツより先にアメリカが開発するよう、ドイツ人化学者がアメリカに亡命していたアインシュタインに訴えた。

 1939年8月、大統領宛の手紙にアインシュタインが署名。

 1939年10月、新型爆弾の開発に向けて、諮問委員会を設置し調査・研究を進めることを決定。

 1940年7月、新型爆弾が悪魔の兵器になることを知るアインシュタインを開発チームから除名、完成に向けて研究が加速する。

 

 計画通り日本の孤立化は進み、輸入に頼っていた資源が閉ざされた国民の生活は困窮を極めていくこととなる。

 こうした時代背景のなかで日本による真珠湾攻撃が勃発した。

 「帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」の一報がラジオから流れたとき、多くの日本国民はこの放送を待ち望んでいた。

 決して戦争を待っていたのではない。

 日に日に食生活が困窮していくなかで、国民は真っ黒なトンネルの中に一筋の光を見つけ、「これで生きていくことができる」、と新しい明日を予測したのだろう。

 そこには戦争の恐ろしさなど微塵もなかったに違いない。

 しかし、アメリカが周到に準備した下工作は日本国民はもちろん、軍部や政府も想定できるものではなく、圧迫された国民生活も、各戦地で繰り広げられていた激しい戦闘も、真綿で首を絞めるように日本と日本国民を追い詰めていった。

 

 開戦後の経緯については改めて書き留めることもないだろう。

 ここで紹介したいのは、この日米の太平洋戦争を実際の開戦より16年も前に予言し、ことごとく戦局を的中させた書籍が刊行されていたことであり、しかもそれが日本で翻訳されてベストセラーになっていたのである。

 『The Great Pacific War(太平洋戦争)』と題された本は1925年に刊行された。

 著者はヘクター・C・バイウォーターという米国系イギリス人で新聞記者を経て軍事評論家となった人物だった。

 書では1931年2月の日米国交断絶から1933年2月の講和条約まで、実際の戦争とは10年のズレがあるが、その内容は今の時代に読んでみても驚くほど事実と酷似しており、史料としても一級品で、著者はアメリカ軍幹部とつながっていた元イギリスのスパイとも言われている。

 書の内容には、商船の爆発によるパナマ運河の航行不能や、ハワイ日系人の反乱など実際には起こっていない事件も含まれているが史料としての価値は十分すぎるものである。

 ところが『太平洋戦争』にも書かれていない重大な出来事があった。

 それは「原子爆弾投下」である。

 もちろん書が発行された頃はまだ新型爆弾は開発もされていなかったので当然かも知れないが、仮に製造されていたとしても「悪魔の兵器」が使用されるとは思わなかったのではないだろうか。

 

【そして究極の人種差別へ】

 アインシュタインが恐れていた悪魔の兵器「原子爆弾」は完成し、1945年8月6日広島へ、8月9日長崎に、投下された。

 原爆投下を支持するアメリカ人は現代でも過半数を超える。

 それはトルーマン大統領の「戦争の早期終結のため」と「双方の犠牲者を減らすため」という2つの声明によるものだが、本当にそうだろうか。

 

 アメリカ軍の日本本土攻撃は1942年4月から始まり、当初は高所からのものであったが、地上からの攻撃がなくなってからは、人が目視できる高さからの日本向けに開発された焼夷弾の投下であったり、逃げ惑う女・子供への機銃掃射であったりと、戦争とは異なる残虐行為であった。

 新型爆弾の完成を待っていたスティムソン陸軍長官の日記に次の言葉がある。

「我々が原爆投下をする前に、アメリカ空軍が日本を完全に爆撃し尽くし、新しい武器の威力を示す正当な機会を与えられなくなることを心配している」

 

 そして日本を攻撃する対象がなくなってきたため、11月1日に予定されていた九州上陸(オリンピック作戦)をスティムソン長官は急がなくなった。

 7月16日、完成した原子爆弾の実験がニューメキシコ州アラモゴードで成功する。

 7月17日、科学者約70名の署名を集め、原爆の対日無警告使用に反対する要望書を大統領に提出すべく取りまとめるも、その願いが届くことはなかった。

 

 すでに抵抗する軍事力も気力もなくなっていた日本だが、アメリカには原爆を投下しなければならない理由があった。

 学問的には新型爆弾の威力は想定できていたが、実際に使った場合の人体への、建物への、あるいは自然への影響等々については何も分かっていなかった。

 新型爆弾を使ってみたい気持ちもあったであろうし、世界制覇に向けてアメリカの力をソ連はもちろん資本主義社会にも示しておかねばならない。

 イギリスにはすでに日本に使用することは了解をとってある。

 

 1年前の1944年9月18日、ニューヨーク州のハイドパークでアメリカ大統領ルーズヴェルトとイギリス首相チャーチルは原子爆弾の使用について協議を行なった。

 ドイツが降伏したのは1945年5月7日だから、連合国の敵は日本とドイツであったが、原爆の投下は日本に特定された。

 2人が署名したハイドパーク覚書には、原子爆弾の投下は日本が降伏するまで継続して行なわれるべきと書かれている。

 しかも覚書には、日本ではなく日本人に使われるべきと、はっきりと書かれているのである。

 

 ナチスのホロコースト以上に残忍な兵器を、米英のトップが日本人に使用することを決めた。

 日本人になら原爆を使っても大丈夫だ、日本人なら原爆を使った我々も悪魔にならなくて済む、そのための準備を今までやってきたではないか、後は東京裁判で戦争犯罪人を裁き、最後は占領期に日本人を改造するだけだ。

 

 そして戦後、74年を経過した今日、あらゆることに無反応な日本人が出来上がった。

 究極の人種差別である原子爆弾を投下されたことにも、ただ逃げ惑う女子供を機銃掃射するアメリカに抗議することもなく、しかも日本人が悪いことをしたからだと信じて疑わない日本人ができあがった。

 

 我々はもう何もすることはない、何も恐れることはない。

 これからも日本人自身に任せておけばいい。

 我々は完璧だった。