初めまして、タマちゃんです。
専業主婦14年の後、難病の長男と3姉妹を子育てしながら
年収1億を超えるような保険の営業マンになりました。
裕福で幸せな家庭に育ったわけでもなく、
大学も自分で働いて出て、
特に特別な能力もない一専業主婦だった私が
「どうして年収が25倍にもなるような人生になったのか」
自分でも不思議で振り返ってみました。
やってみた事は本当に簡単で、
これは誰でもできることだと気が付きました。
私がどうやって自分を幸せにし、
お金をたくさん増やしてきたのかをお伝えした方々が、
続々と幸せになっていく姿を見て、
ブログを書こうと思いました。
まずは私の半生を振り返りながら
何をしてきたのかをここに書いていこうと思います。
興味持っていただいてありがとうございます。
たくさんの幸せを一緒に作っていきたいと
心から思っております。
私の人生は、玉のように丸い赤ん坊として
取り上げられた瞬間から始まりました。
助産婦・青山たまさんに見守られ、
「タマちゃん」と呼ばれる愛称がつきました。
このエピソードは、
まるで私の運命を象徴するかのよう。
母の影響が心に影を落とした幼少期
私の家庭は、父が岩手、母が山形出身。
私はとてもパパっ子で、
父は私をとても可愛がっていて、
寝ている私の口にキスを
してくれるような人でした。
(本当は気持ち悪かった)
一方で、母は少し不安定なところがあり、
愛情表現が下手くそでした。
幼い私にタバコを買いに行かせたり、
怒ると(極端な話)牛乳瓶で殴られたことがありました。
その時、私は愛されていることがわかりませんでした。
私には3つ年下の弟がいるのですが、
当時は母が弟だけが可愛いと思っていました。
私の方が勉強ができたこともあり、
母から強く期待はされました。
母の執念と中学受験の合格
母の受験への執念は並外れていました。
「どうしても中学受験させたい」
母の強い思いで、夏の終わりぐらいから
マンツーマンで過去問を解き続けました。
その後、12月の冬期講習から塾に通い、
当時は中高一貫校(偏差値65ぐらい)に合格。
当時を振り返ってみると...
学校から帰ってから、母が分厚いテキストを用意。
漢字の書き方の練習からスタートして
算数の過去問を5年分しかないものを全てやる。
そのあとは、理科と社会の問題になり、
だいたい5時間ぐらい勉強。
夕飯を入れて夜11時ぐらいまで勉強し、
寝るのが夜12時ぐらいでした。
それを夏休みの終わり頃から1月までの
約5ヶ月間続けました。
受験の後半は、その5時間のうち2時間は
算数の家庭教師をつけてくれて、毎日特訓でした。
その他には、冬休みになると冬季講習に行き始めました。
「あのときの母の執念は本当にすごかった」
と驚きます。
今、改めて子どもに中学受験させてみると
こんな短期間では、全く合格ラインに行かなかったです。
なので、当時は反発もしたけれど、
中学・高校・大学と一貫校に通えたことが、
マジで奇跡でした。
これは母に感謝しかありません。
今思えば、そのおかげで、
私の心には世界平和という考え方と
夫と出会って同じ学校で学び、
家庭平和ということを実現できています。
この度、娘が私と同じ高校を卒業し、
私と同じ大学に入学したとき、
全ては私が愛されていなかったと思っていた
母のおかげだと気が付きました。
本当に、本当に、母のおかげです。
ありがとう。
父の家出と母のうつ病の中、
生活をつなぐために働いた高校時代
高校生の頃、さらなる試練が訪れました。
父が家を出ていき、母がうつ病を患い、
電気やガスが止まるような状況に。
それでも生活を続けるために、
高校1年生の夏から私はアルバイトを始めました。
学校の規則でアルバイトは禁止されていましたが、
家計を支えるためには仕方がなかったのです。
母も後にコンビニでアルバイトを始め、
廃棄される弁当を家に持ち帰ってくれるようになり、
中学生だった食べ盛りの弟と高校生の私は
本当に助かりました。
そのコンビニのオーナーさんが母の友達で、
その後に母がセブンイレブンをやったことがあるのですが
廃棄品はオーナーさんが購入しているものだとわかり、
私たち家族はその方に命を繋いでもらったんだなと
ものすごく感謝しました。
こんな生活が5年も続きました。
そうした日々を通じて、私たち家族は
少しずつ前に進むことができました。
高校3年生の夏休み開けに
「内部推薦の試験」を控えているから、
私は一生懸命に勉強しました。
その結果、なんと一発で試験に合格。
その直後、気が抜けてしまったのか、
めまいや体調不良が生じて
立ち上がれなくなることもありました。
それでも、なんとか高校を卒業し、
大学に進むことにしたのです。
接客業と営業で成績トップになった大学時代
大学進学後も学費や生活費を
自分で賄わなければなりませんでした。
バブル期という時代背景に助けられ、
塾講師や飲食店でのアルバイトを
掛け持ちしてやりくりしました。
その後、夜の仕事にも挑戦。
飲食店で働きながら、
キャバクラでもバイトを始めました。
そのときに
「キャバクラはお客様に夢を売る仕事」
だと教えられました。
私はなぜか、その言葉が素敵だと思いました。
仕事に疲れて、女の子と話をして、癒されて帰る男性や
出会いがなくて、ここで女の子と話すのを楽しむ男性がいたり。
どんなシチュエーションでも、
ここにいる時間お客様に楽しかったな
と思ってもらえることが、お金になるって、
なんですごいことなんだろうと感じました。
これは今でもお仕事の中で、
相手の幸せを増やすという観点は
この頃に気づいた営業の最大の指針だと、
今でも感じています。
最初は不安もありましたが、
持ち前のコミュニケーション力が活き、
指名数や売り上げでトップの成績。
当時の収入は月70万円から80万円に達し、
これを学費や生活費に充てられました。
その後、貯めたお金を使って、半年間アメリカに留学し、
帰国後、学研の学習教材を販売する仕事を始めました。
小学校6年生の子どもたちに
中学校3年間分の教材を提案します。
私は塾講師の仕事を大学1年〜3年間やっていたので、
子どもたちがどこでつまづくのか分かっていました。
教材はつまづくポイントを丁寧に解説するものでした。
「この教材があれば、勉強に困らない!」
そんな自信がありました。
だから、親子で楽しい未来を想像してもらえました。
一番高い教材は140万円ほどで、
その販売額の一部(50%)が
コミッションとして収入になる仕組みでした。
当時は名簿をもとに一軒一軒訪問する
いわゆる飛び込みという営業するスタイルでしたが、
私は苦になることなくできました。
私がなぜ苦にならなかったのかというと、
「今日はどんな人に会えるんだろう」
という気持ちで、
なんとなくワクワクしていたからです。
もしも、5分でも話しを聞いてもらえたら、
子どもを呼んできて、
「今、算数で一番難しいことは何?」
って聞いてもらうと、
分数とか割合とか小数点と言います。
じゃあ、それを図に書いて示してあげると
こういう説明が私が持ってくる教科書に沿った
ガイドブックには書いてあるから、
困った時に助けてくれるよ
そんな風に子どもの悩みを聞いて、
お母さんの前で解決してあげると
これから先もずっと助けてもらえる
という安心感を販売していました。
その結果、私は大学生なのに
営業専門のおじさんたちを軒並み追い越し、
営業成績はトップ。
そして、収入も大きく伸びました。
これは、キャバクラでの仕事も教材の販売も同じで、
「相手にとって楽しいと感じられること」
「相手をワクワクさせること」
を提供することが基本なのです。
もう1つ言えば、同時に安心感も買える。
お得感が増します。
その後、不動産会社への就職して、
結婚・出産することになります。
