出だし早々、駅の列車非常停止のブザーが鳴り響きました(~_~;)
1983年5月で廃止になった路線があります。
東武鉄道熊谷線、熊谷〜妻沼間10.1kmの路線です。
今年で廃止から40年にあたるので、全線を巡って見ることにしました。
ちなみに移動は、電動アシスト付きのシェアサイクルです。
熊谷線の熊谷駅は、秩父鉄道のホームを間借りして発着してました。
線路の一部が残る踏切のすぐ先にあるのが上熊谷駅です。
ここも熊谷駅同様、秩父鉄道のホームを借りて発着してました。
今の熊谷線側はフェンスが設置されていて、JRの架線柱が立っていますが、それでもレール跡がくっきりと分かります。
上熊谷のからさらに下ってくると、今度はレールが手付かずのまま残されています。
土地は秩父鉄道の持ち物ですが、この踏切を越えると・・・
少し先から右側へカーブして、いよいよ熊谷線単独の用地へと入っていきます。
熊谷線単独の線路(用地)は、10.1km中6.3kmしかありません。
遊歩道も此処からスタートです
熊谷線は速度の遅さから『かめ号』と呼ばれていたので、その名にちなんで遊歩道の名前も『かめのみち』となっています。
途中には活躍したディーゼルカーを模した倉庫があり、今は備蓄倉庫として活用しているようです。
しばらく進むとJR高崎線と交差する場所な辿り着き、ここでかめのみちは一度途切れます。
当時はここを乗り越えていた写真をネット等で見ることができます。
高崎線を見下ろした場所は遺構として残されています。
JRの踏切を渡り少し進むと2本の道路と交差しますが、熊谷線はここも橋で乗り越えて下り勾配になっていたようです。
両側のコンクリート製の柵が、鉄道の用地だった事を物語っていますが、かめのみちは途中で終わりを迎えます。
左右にあのコンクリート柵が見えてくると大幡駅跡になります。
完全に住宅地に飲み込まれた所から一転して、鉄道の痕跡が見えてくるとうれしくなります。
この先もほぼ一直線で終点の妻沼駅を目指します。
綺麗な舗装路と引き換えに、痕跡は無くなってしまいますが
途中、道路脇に用地の所有者を示す杭が残されています。
欠けてはいますが『東武』と彫られた杭が路線の跡を示す所だということがわかります。
周囲は水田だとばかり思っていたのですが、麦が栽培されていました。
熊谷は麦の産地であることを、この時初めて知りました。
ひたすら自転車を漕ぎ続け、街のような感じになってきたここが妻沼駅跡になります。
残念ながら、妻沼駅跡を示すような物は何もありませんでした。
写真は撮り忘れましたが、この立っている場所にバス停がありますが、背後には屋根付きの駐輪場があります。
駐輪できる数は少ないですが、この駐輪場が鉄道代行バスの名残りかなと思っています。
この交差点から少し先へ進むと、熊谷線で活躍したディーゼルカー、キハ2000が保存されている妻沼展示館に着きます。
館内は熊谷線の資料が多くはありませんが展示されていて、活躍当時の内容を知ることができます。
続いてキハ2000の車内へ。
通常は施錠されていますが、受付に申し出れば車内を見せていただけます。
網棚が木製で、網棚と言うより板棚みたいな・・・いや、棚かな?(^^;;
東武の路線案内は当時物かなと思います
熊谷線もしっかり載っています
たった3両しか製造されなかった車両であり、現在唯一現存する東武のディーゼルカー。
全体的に劣化具合が心配されますが、いつの日か綺麗に修復されることを願うばかりです。
妻沼展示館をあとにして、さらに先へと向かいます。
利根川を渡り群馬県側に残されている熊谷線の遺構。
橋台?橋脚??
本来は鉄橋を通して、群馬県側を走る東武小泉線の西小泉駅を結ぶはずだった熊谷線。
終戦と同時に未成線となりました。
これが渡っていたらどうなっていたのか?
元々軍需路線だっただけに、渡っていたとしても遅かれ早かれ廃線になっていたかもしれませんね。
探索は以上で終わり。
復路は道の駅で昼食。
うどんの小麦は熊谷産と書いてありました。
シェアサイクルはこの道の駅にも返却できるので、ここからバスで帰ろうと思うも、運悪くバスが行ってしまいました、、、、
次のバスの時間も考えて、残り10kmほどを再びシェアサイクルで戻ることに。
お陰様で、往路では気付かなかった橋の名前『東武橋』
何の変哲もない交差点で
東武の杭を見つけることができました。
最後に移動距離等を測っていたので集計
30km以上漕いでいたのには自分でも驚きました。
電動アシストはやはり楽ちん!
楽しいひと時を過ごすことができました。
お暇でしたら動画もどうぞ