江戸のグルメパーティー
【出版記念】
『江戸流行料理通』文政五年(1822)
小説『鬼平犯科帳』のヒーロー、長谷川平蔵が亡くなって28年後に催されたパーティーだ。
長谷川平蔵が火付盗賊改に就任する五年前、天明二年(1783)に料理本『豆腐百珍』が出版され、一躍ベストセラーになった。
ちょうどそのころ、いまの味醂に相当する「白味醂」の製法が確立された。
はじめ白味醂はアルコール飲料だったが、『豆腐百珍』の三年後にでた『萬寶料理秘密箱』(まんぽうりょうりひみつばこ)で調味料デビューした。テレビのCMでおなじみの「醤油と味醂は、一対一」の江戸料理の味の基本は、これが出発点。
白味醂が調味料としてデビューして36年後にでた『江戸流行料理通』には醤油と白味醂を使った料理がたくさん載っている。
ちなみに、忠臣蔵の事件があった時代には、江戸では醤油は超高級調味料だった。液体調味料として醤油のように使われていたのは「垂味噌」。味噌を水で溶いて煮立たせ、それを漉して作ったもの。語源は、ドリップするとき、ポタリポタリと垂れる」から。
【パーティー会場】
料理茶屋「八百善」 主催者は、四代目当主(栗山善四郎)
いま、「八百善」はどうなったのだろう。以前は、両国の江戸東京博物館の7階に出店していたけど。
【献立】
【メンバー】
当代一流の文化人が勢ぞろい(女性がいないじゃないか)
手前から右回りで、谷文晁、酒井抱一、亀田鵬斎、太田南畝
いま書いている「忠臣蔵もの」には、上記4人のうち、酒井抱一と太田南畝が登場する。
【『江戸流行料理通』挿絵】
見返し 酒井抱一の画
左の「序」は、太田南畝が書いたのかも。
【酒井抱一の代表作】
酒井抱一は、尾形光琳の画風を文化文政の時代に再現したことで後世に名を残した人である。
秋草図屏風(東京国立博物館蔵)
【酒井抱一の父の出生の秘密】
下に書いた「兼春稲荷」は、いまは吉良邸史跡「松坂町公園」内にある。
いまの名は、「松坂町稲荷大明神」。
安産祈祷 大成功
徳川四天王の筆頭とうたわれた前橋十五万石の大大名、酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)家の九代忠恭(ただずみ)には、おるりという妾がいた。
おるりは二度、流産した。そこでおるりの兄夫婦(石原平太夫信賢とその妻)が、本所松坂町二丁目にあった「兼春稲荷」の社守、深川森下在住の円蔵院という山伏に、おるりの安産祈祷を依頼した。
まぐれか、円蔵院の祈祷のおかげか、おるりは享保二十年三月二十八日(1735年4月20日)に、前橋で男子を出産。
八代将軍吉宗の時代のことだ。
妾腹とはいえ酒井忠恭にとっては初めての子で、しかも男子である。自分の幼名と同じ、直之助(なおのすけ)と名づけた。
おるりは2年後の元文二年(1737)に次男、三郎介(さぶろうのすけ)を。その翌年には長女、おていを産んだ。
正室(本妻)も負けてはいられない。
酒井忠恭の正室(榊原式部大輔政邦の娘)は、おるりの子、直之助誕生の3年後の元文三年(1738)に男子を。その二年後にまた男子を。さらに女子を一人産んでいる。
ところが、正室の長男は十八歳で亡くなった。そこで正室の次男、二郎四郎が酒井雅楽頭家の後継者になったのだが、彼も二十二歳で死亡。
ってことで、おるりの産んだ直之助改め忠仰(ただもち)が酒井雅楽頭家の後継者となった。
これも兼春稲荷の霊験によるとしたら、すごいもんだ。
時代が下っておるりの息子、忠仰の跡を継いだのは、彼の長男(おるりの孫)の忠以(ただざね)。安永元年(1772)のことである。
もう一人のおるりの孫、忠仰の次男は、若いころから武術や俳諧に凝り、寛政九年(1797)に京の西本願寺文如の弟子となって出家。
長谷川平蔵が亡くなって2年目のことである。
この忠仰の次男が、尾形光琳の画風を文化文政の時代に再現した酒井抱一である。
上に書いた「兼春稲荷」の由緒書によって、忠臣蔵トンデモ説が広がった。
次は、太田南畝に登場してもらおう。
『江戸流行料理通』文政五年(1822)
小説『鬼平犯科帳』のヒーロー、長谷川平蔵が亡くなって28年後に催されたパーティーだ。
長谷川平蔵が火付盗賊改に就任する五年前、天明二年(1783)に料理本『豆腐百珍』が出版され、一躍ベストセラーになった。
ちょうどそのころ、いまの味醂に相当する「白味醂」の製法が確立された。
はじめ白味醂はアルコール飲料だったが、『豆腐百珍』の三年後にでた『萬寶料理秘密箱』(まんぽうりょうりひみつばこ)で調味料デビューした。テレビのCMでおなじみの「醤油と味醂は、一対一」の江戸料理の味の基本は、これが出発点。
白味醂が調味料としてデビューして36年後にでた『江戸流行料理通』には醤油と白味醂を使った料理がたくさん載っている。
ちなみに、忠臣蔵の事件があった時代には、江戸では醤油は超高級調味料だった。液体調味料として醤油のように使われていたのは「垂味噌」。味噌を水で溶いて煮立たせ、それを漉して作ったもの。語源は、ドリップするとき、ポタリポタリと垂れる」から。
【パーティー会場】
料理茶屋「八百善」 主催者は、四代目当主(栗山善四郎)
いま、「八百善」はどうなったのだろう。以前は、両国の江戸東京博物館の7階に出店していたけど。
【献立】
【メンバー】
当代一流の文化人が勢ぞろい(女性がいないじゃないか)
手前から右回りで、谷文晁、酒井抱一、亀田鵬斎、太田南畝
いま書いている「忠臣蔵もの」には、上記4人のうち、酒井抱一と太田南畝が登場する。
【『江戸流行料理通』挿絵】
見返し 酒井抱一の画
左の「序」は、太田南畝が書いたのかも。
【酒井抱一の代表作】
酒井抱一は、尾形光琳の画風を文化文政の時代に再現したことで後世に名を残した人である。
秋草図屏風(東京国立博物館蔵)
【酒井抱一の父の出生の秘密】
下に書いた「兼春稲荷」は、いまは吉良邸史跡「松坂町公園」内にある。
いまの名は、「松坂町稲荷大明神」。
安産祈祷 大成功
徳川四天王の筆頭とうたわれた前橋十五万石の大大名、酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)家の九代忠恭(ただずみ)には、おるりという妾がいた。
おるりは二度、流産した。そこでおるりの兄夫婦(石原平太夫信賢とその妻)が、本所松坂町二丁目にあった「兼春稲荷」の社守、深川森下在住の円蔵院という山伏に、おるりの安産祈祷を依頼した。
まぐれか、円蔵院の祈祷のおかげか、おるりは享保二十年三月二十八日(1735年4月20日)に、前橋で男子を出産。
八代将軍吉宗の時代のことだ。
妾腹とはいえ酒井忠恭にとっては初めての子で、しかも男子である。自分の幼名と同じ、直之助(なおのすけ)と名づけた。
おるりは2年後の元文二年(1737)に次男、三郎介(さぶろうのすけ)を。その翌年には長女、おていを産んだ。
正室(本妻)も負けてはいられない。
酒井忠恭の正室(榊原式部大輔政邦の娘)は、おるりの子、直之助誕生の3年後の元文三年(1738)に男子を。その二年後にまた男子を。さらに女子を一人産んでいる。
ところが、正室の長男は十八歳で亡くなった。そこで正室の次男、二郎四郎が酒井雅楽頭家の後継者になったのだが、彼も二十二歳で死亡。
ってことで、おるりの産んだ直之助改め忠仰(ただもち)が酒井雅楽頭家の後継者となった。
これも兼春稲荷の霊験によるとしたら、すごいもんだ。
時代が下っておるりの息子、忠仰の跡を継いだのは、彼の長男(おるりの孫)の忠以(ただざね)。安永元年(1772)のことである。
もう一人のおるりの孫、忠仰の次男は、若いころから武術や俳諧に凝り、寛政九年(1797)に京の西本願寺文如の弟子となって出家。
長谷川平蔵が亡くなって2年目のことである。
この忠仰の次男が、尾形光琳の画風を文化文政の時代に再現した酒井抱一である。
上に書いた「兼春稲荷」の由緒書によって、忠臣蔵トンデモ説が広がった。
次は、太田南畝に登場してもらおう。