はじめまして。
ゆかりん こと はかまだゆか です。
そういえば自己紹介ってちゃんと書いたことなかったな~
と思って
自分の歴史を自分で振り返りながら
あらためて自己紹介をしたいと思います。
(すんごい長いので覚悟してね~(〃艸〃))
1978年5月25日東京都日本橋生まれ。
3人姉妹の長女として生まれました。
3歳のときに千葉県船橋市へ転居。
父、母、父方の祖母、妹(2歳下)、妹(9歳下)と暮らす。
私は幼少期から
物静かな性格でした。
3歳まで日本橋にいたので
他の子どもと遊んだ経験がなかったせいか、
幼稚園に入っても友達が出来なくて
いつも一人で遊んでいたそうです。
小学校に入ると
友達と遊ぶ楽しさがわかり始め、
特定の友達ができるようになりました。
私は運動、音楽、人前で何かをするのが苦手で
とにかく目立たないように過ごしていたのを覚えています。
通知表には毎年、
「ゆかさんはもう少し自主性、積極性があるといいですね」
と、先生からコメントが書かれていました。
協調性はあるけど、積極性が低い。
そんな小学生でした。
家族のこと。↓
母は専業主婦。
料理が天才的に上手。(感覚で作れる)
田舎育ち。結婚を機に東京に来て、
生活環境が変わりすぎて苦労したと話していました。
そんな母は家事育児に忙しい日々でしたが
友達をつくるために、いろんな趣味スクールに参加したりして、社交的な母でした。
父は仕事が忙しく
家事育児はほとんど母に任せきりでした。
でも、母は仕事をする父を信頼していたし、
父も母を信頼しているように見えました。
父は穏やかなタイプで、
怒ったりする姿を一度もみたことがありませんで
した。
父母ともに
私に勉強しろとか何かをしなさいと
強く求めることは一切なく、
子どもの自主性をひたすら見守ってくれた両親でした。
夫婦げんかもほとんど見たことがなくて
母は父をいつもサポートしているように見えました。
私にとっては
両親は嫌うところのない
理想の両親でした。
そんな両親を見て、私は、
「父と母をがっかりさせるような娘になってはいけない!」
「長女としてしっかりしていなきゃいけない!」
と思っていました。
9歳年下の妹が生まれた時は
母の力になりたくて
誉められたくて、率先してお世話を手伝っていた記憶があります。
そして中学。
人間関係のむずかしさを目の当たりにした時期でした。
私は器械体操部だったのですが
同級生間でのいじめに巻き込まれ
いじめをする側に加担してしまったり
いじめを受ける側にもなってしまったり
しんどい中学生時代でした。
する側される側
どちらにいても
自分がターゲットになるのが怖くて
ただただ周りの子の顔色をうかがって
必死だったように思います。
この時、
私は、いじめに巻き込まれていることを両親にはぜったにバレたくない。
知られたら両親が悲しむから
絶対に言いたくない!
と心に決めて、
結局3年間、親に相談することもなく
中学時代がおわりました。
家で弱音を吐くことができない。
両親に本音が言えない。
しっかりした娘でいなくてはいけない。
この考え方が
自分の中で確立してしまったような時期でした。
高校時代。
中学のころの友人たちがいない学校に行きたい。
海が近くて、弓道部がある高校に行きたい。(これは少女漫画の影響で笑)
そんな理由で、
高校は家から少し遠い公立高校を受験。
無事に合格して入学。
高校は
中学の友人とのトラブルのようなものは一切なくて
楽しかった記憶ばかりでした。
中学までの消極的だった自分を変えたくて
やりたいことを思う存分やってみよう!
いじめのない友人関係をつくろう!
たくさん挑戦した3年間でした。
弓道部も部長をやったり、
文化祭、体育祭とか恋愛も、、、いつも前のめりで過ごしてたなぁという記憶ばかりです(笑)
青春の時期でした。
ただ、そのころ、
同居していた祖母が
アルツハイマー認知症という病気を患い、
認知症状がかなりひどく
在宅介護が大変な状況でした。
母が全面介護をしていたのだけど、
祖母が徘徊、暴力、暴言、ヒステリー、昼夜逆転、失禁など、、、
母は介護がつらくて
泣いていた姿のを今でも鮮明に覚えてます。
そのころは、まだあまり介護サービスが充実していなかった時代だったので
通所サービスに連れて行っても
症状が手に負えないから、という理由で家に帰されたり。
在宅介護の負担は重くなる一方でした。
そのころから、
私の中で、福祉、介護、社会のしくみに、
疑問を持つようになり、
つらい介護生活をどうにかしたくて、勉強したい!
と思うようになりました。
高校3年生になって、
祖母は有料老人ホームに入所したのですが(しばらくして祖母はなくなったのですが、入所費用が高額で経済的にはギリギリで大変なことになっていたそうです)
そのころに私は福祉を学ぼうと決心し、
福祉大学に進むことを決めました。
祖母の介護体験が福祉の道に進んだきっかけでしたが、
あとになってふりかえったとき、
そこに、
もう一つの理由が隠れていたことに気づきました。
それは
福祉の仕事をして
人のためになるような立派な仕事ができたら
両親は喜んでくれるに違いない。
両親を安心させたい。
両親に褒められたい、認められたい、愛されたい。
そんなことを根底に思いながら
福祉の道を選んでいたんです。
福祉の道に進むと言うだけで、
世間では
「偉いね、すごいね」と言われた時代でしたから。
もうこのころの私は
両親に心配をかけるということが怖くて
本当の自分(ダメな自分)を出さないように
生きるようになってました。
それがだんだんしんどくなってきて、
両親から離れて生活したい、
実家を出て一人で暮らしたい
と思うようになっていたのです。
そして、
宮城県の福祉大学に進学し、
一人暮らしをスタートさせました。
大学ではいろんな分野の福祉を学びました。
介護、保育、心理学も学びました。
海外の福祉についても興味を持ち、
タイやインドを旅したりしました。
4年間を経て、
たどり着いた卒業後の道は
人と直接接する仕事がしたい。
自分の祖母の在宅介護の経験から
高齢者介護に携わる仕事がしたい。
人間心理に興味があったので相談業務をやってみたい。
地域社会のさまざまな福祉サービスに係る仕事がしたい。
大学4年
国家資格の社会福祉士と保育士を取得し、
卒業しました。
2000年
仙台の老人福祉施設(さまざまな福祉サービス事業をやっている大規模施設)に就職。
半年間の介護職を経て、
生活相談員(ソーシャルワーカー)という仕事につきました。
介護が必要な高齢者とその家族の
相談窓口となって相談にのり、
サービスにつなげたり、調整したりする仕事でした。
介護職員のサポートや育成にも
携わるようになりました。
福祉、介護、の世界は、
「生きるとは何か」
「幸せとは」
「家族とは」
と日々考えつづける仕事でした。
そして、それを言葉にして、語り合う。
そんな生活をずっとしていました。
だから、
今、私が心の世界について
考えたり、言語化して発信したり
誰かと語り合うことは
実は、そのころからずっとやっていることなんです。
たくさんの命の終焉にも立ち会いました。
死についても何度も考えさせられました。
プライベートなおしゃべりの場でも、
人生にについてどう思うか
をすぐに語りだしてしまう私。
これは私にとって
日常的なことなんです。
話は戻り、、、
相談業務が主だったので
人と直接会話することが仕事の主軸でした。
相手の思いの引き出し方、
アドバイスやサポートの仕方、
コミュニケーションの取り方
アセスメント、ニーズ、課題分析、、、
などなど
職業柄、研修も頻繁にあり、
学ぶ機会は多かったです。
日々の業務でも実践で学びながら
スキルを身につけていきました。
さらに、役職がついてからは
職員の育成をする仕事もするようになり、
コーチングスキルを身に着けたくなり、
半年間コーチングの学校に通ったりもしました。
高齢者介護の世界の仕事は正直、
楽ではなかったし、
大変なことばかりでしたが、
やりがいはすごくあったなぁ~と今でも思います。
私は
人間が好き。
人と話すことが好き。
心の世界が好き。
この思いが私の根底にあったから
ずっとやりがいを感じて
仕事を続けられたのだと思います。
これは今にも繋がっている思いです。
ですが、
福祉の仕事を続けられたのには
もう一つの理由があります。
それは、
私は誰かの役に立っている
誰かに必要とされている
頼られている
愛されている
それを、より感じたくて
私は福祉の世界に飛び込んだ。
弱者救済。
それをすることで
相手に感謝されたくて。
相手に必要とされたくて。
そう、
そのころの私は
誰かの役にたちたい。
認めてもらいたい、という思いで生きてました。
誰かに認めてもらえなければ生きる価値がない。
それくらいストイックに考えてました。
(これはのちのち
両親(特に母親)に自分を認めてもらいたい
愛されたい、必要とされたいという気持ちの
投影に過ぎなかったことがわかったのですが)
だから、人に
嫌われるのが怖くて
拒否されるのが怖くて
必要とされないのが怖くて
周りが求めるままに
がむしゃらに仕事をしていたし、
認めてもらうために必死でした。
めちゃめちゃハードワーカーでした。
頑張ることは素晴らしいことだと
自分に言い聞かせながら
それを信念に生きてました。
つらいことがあっても
身体が疲れていても
どんなときでも
笑顔でいること。
そのころの私は
「どんなときも笑顔」
それが私のモットーでした。
今思うと
バリバリの頑張り教(頑張ることが素晴らしいと思い込んでいる生き方)で
周りにも常に頑張ることを求めていたし、
自分は正しいことをしていると自負してたし、
正義のヒーローのように
尊敬されたいという気持ちで
生きてたなぁと。
そのときは
信じてたんです
それが私の正しい生き方だ、と。
それが、、、
2009年のある日、
私は
ものすごく信頼していた人に突然裏切られる、というショックな出来事がありました。
あまりにショックで自分が壊れそうになり、どうすることもできなくなり、
その時、母に初めて感情のまま
大泣きしながら本音を吐き出した
という場面がありました。
そのとき私は、
母に弱くて情けない自分を見せてしまって、
母がショックをうけて
ものすごく悲しい思いをするのではないか、
情けない私は愛されなくなるのではないか
そんなことを不安に思ったのですが、、、
母はずっと気丈に、大きな愛で、すべてを優しく受け止めてくれたのです。
そのときにやっと
ああ、ダメな私でも
いいんだ。
母は受け止めてくれるんだ
大丈夫なんだ。。。
泣泣泣ー!
そう思えた瞬間でした。
それくらい、
私は、
母親に対して弱い自分を見せることが
ずっと怖かったんです。
このときから
自分が本当の意味で
私は弱くてもいい
情けなくてもいい
しっかりしなくてもいい
ちゃんとした娘にならなくていい
ありのまま、そのままでいい。
そのままでも愛される。
これに気づくことが出来ました。
自分の弱さを理解し、
自分の本当の心の声をきく。
この件が
自分を本当の意味で見つめ始める
スタートになったように思います。
この出来事を機に、
自分の心をもっと理解したくて、整理したくて
初めてコーチングセッションを受けました。
コーチングセッションを受けたことで、
自分自身の気づきの多さに感動し、
コーチングに興味を持ち、
今度は自分が誰かにコーチングをやってみたいと思うようになり、
2010年にコーチングの学校に半年間通いました。
そこでの学びを職場の介護スタッフの育成に活用したら面白くなり、
今の職場をやめて、
もっと専門的に人財育成に携われる仕事をしてみたいと思うようになりました。
同時に、両親とももう一度本音で向き合いたいと思うようになり
実家に戻ることを決めました。
そして
2011年
四月末退職。(東日本大震災を仙台で経験した翌月でした)
宮城県仙台市を離れ、千葉県船橋市の実家に戻る。
このころ、現在の夫と出逢う。
同年8月
有料老人ホーム(全国展開している大手企業)の本社の介護研修部に就職。
毎月100名以上入社していたのでその新入社員の
研修講師や運営、サポート業をするようになる。
スタッフにどんなふうにかかわれば、
スタッフのやる気、モチベーションが上がるのか
それを日々考え、実践するの繰り返しでした。
仕事も順調ではありましたが、
同年の7月に結婚することになり、
転居に伴って
9月に退職。
10月に柏市(現在の住まい)で新生活を始める。
11月妊娠
翌年
2013年8月第一子(娘)を出産。
初めての育児。
ここからがさらなる試練が。。。
初めての土地でスタートした旦那との生活。(付き合って一年くらいで結婚したので知らないことも多々あった)
初めての 妻、主婦、嫁という立場。
ずっと仕事をしてきていたので
初めての専業主婦業。
初めての出産、育児。
初めての母親業。
初めて
の連続。
すべてが不安なまま
手探り状態で
とりあえず自分がこうするべき!と思っていることをこなす日々。
特に育児。
思い通りにならない子ども。
思い通りのいい母になれない自分。
怒ってばかり、イライラしてばかり。
大学の時に学んだ保育理論が全く役に立たない。
目指す母親像は、自分の母親の昔の姿。
母のように自分は家事育児ができない。。
母のように上手にできない。
ああ、私はダメな母親なんだ。。。
自分の無力さや自分責めで
イライラとくよくよでいっぱいな日々。
旦那にも優しくなれない。
妻としてもこんな妻になりたかったんじゃなっかたのに。。。
誰に対してもなかなか弱音を吐けない自分。
義理両親には
出来る嫁でいようとする自分。
嫁なのに、出来ない自分。
ああ、自分が嫌い。
つらい、
しんどい。。。
自分を責めてばかりの日々。
なんとか気持ちを安定させようと、
何かいい方法はないかと答えを探す日々。
子どもから離れられないから
子どもを抱っこしながら
片手間にネットや本、テレビとかを見て
ヒントを探す日々。
そのときあるブログにたどり着き
そこで出逢ったのが
心理カウンセラーの心屋仁之助さんでした。
(現在は歌手をメインに活動されてます)
仁さんの
心についてのブログ。
様々な考え方が
私の心にバンバン響いて
それがまた刺さるように痛かったのをおぼえています。
でも、痛いのは図星だから。
イタイながらも
きちんとそれを受け止めると
いつのまにかどんどん楽になっていく自分。
毎日毎日ひたすら読み続けては
自分と向き合うを繰り返していました。
そしたら
大混乱になっていた自分の心が
徐々に整い始め、
育児も楽になっていき
毎日の暮らしは大きく変わっていないのに
私の見える世界が変わっていったのです。
自分の心を見つめることは
時につらくて目をつぶりたくなることも
多々ありましたが
どうしても自分を変えたくて
楽になりたくて
自分を好きになりたくて。
必死に仁さんの考え方を
吸収しては自問自答を繰り返し、
自分の心を徹底的に見つめた気がします。
その後は、
仁さんだけじゃなく
心屋塾のカウンセラーさんたちのブログを読んだり、
オープンカウンセリングに参加したり、
仁さんの講演会や武道館ライブにいったり。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、
自分の中の心の整理をしながら
前に進んできました。
(※2015年からこのアメーバブログを書き始めました。
私の心の葛藤、変化、詳細を書いています。
興味ある方はぜひ読んでみてください。)
私の過去のブログでも変化が読み取れるかと思いますが、、、
昔の私は
自分のことよりも人のことばかりが気になり
認められたい、愛されたい思いから
相手に自分を合わせるような生き方をしてきてました。
それが最も幸せな生き方だと思ってました。
他人軸で生きていました。
でも、その生き方をし続けていたら
いつのまにか
自分を見失っていきました。
自分が何が好きで何をしたいのか
自分の個性ってなんなのか
自分で自分がわからなくなりました。
相手に認められなければ自分は生きてる価値がないい。
嫌われるのが怖い。
そんな自分が大嫌い。
そう思って生きてました。。
ですが、心屋仁之助さんをきっかけに
自分の人生はこのままではいけない!
と自分ととことん見つめなおしていったら、
自分が自分をちょっとずつ好きになり
自分が何が好きで何をしたいのか
それを叶えてあげられる人生をおくりたい
と思える心に変わっていったのです。
他人軸の生き方から
自分軸の生き方へ。
自分の人生は
自分で決めていいんだ。
自分の心を軸にして
自分が生きたいように
生きていいんだ。
それがわかった今。
私の人生は
つらいものから
一気に面白いものへと変わりました。
世界は自分の見たいように見ていい。
人生は
心のありかた次第で
いかようにも面白くできる。
今の私の根底にある思いです。
2019年5月第二子息子出産
2020年
育児真っただ中でしたが
自分の中で
「カウンセラーになりたい」という思いが募りました。
カウンセラーになって
自分の心だけじゃなく、
誰かの心のサポートができたらいいな。
仁さんが私に
心の在り方のたくさんのヒントをくれたように
私も誰かの心に
自分らしく幸せに生きられるようになるためのヒントみたいなものを
届けられたらなと思うようになったのです。
2021年1月より、心屋塾マスターコース(カウンセラー養成コース)のんマス126期受講開始。
同年7月26日心屋リセットカウンセリングマスター認定。
心理カウンセラーとして活動を開始する。
現在、主婦業をしながら、日々心の探求も継続中。
心の探求活動の一部↓
Happyちゃんのイマココプログラム受講中。
FBCワーク初級・中級・上級受講。現在マスタークラス受講中(一般社団法人フルフィル協会の心理学ワークショップ)
松浦有珂さんのライフクリエイトアカデミーオンラインサロン受講中。
心の学びを自らもしながら、心理カウンセラーとしてカウンセリング活動もしています。
趣味で、チャイ(インド式ミルクティー)キット販売やチャイ講座などもしています。
日々、泣いて笑って怒って喜んで、
心は天気のように変わります。
悩むことも葛藤することも今もたくさんあります。
そのたびに自問自答しながら
自分の心と向き合っています。
それが生きることだと思うから
きっとこの作業は死ぬまで続くでしょう。
でも、その心の天気に
自分が振りまわされる人生ではなく
自分が心の天気を活用する、楽しむ、動かしたい。
「自分の人生、どんなふうにしたらもっと楽しいものになるかな~」
と思いながら生きてます。
そう考えると、人生、とっても楽しいです。
私と一緒に楽しく人生を送りたい方いませんか?
よければ一緒に探していきませんか?
興味を持ってくれた方、ご縁が出来たら嬉しいです♪
長い長い自己紹介。
これでも、文章まだ未完成だなぁと思っちゃう私ですが、
とりあえず公開しちゃいます。
最後まで読んでいただけて嬉しいです。
ありがとうございます!
今後もどんな人生をたどるか
ブログ更新していきますのでお楽しみに。
ゆかりん(はかまだゆか)
~自己紹介 その②(趣味、特技編)~ゆかりんってどんなひと?
(2023、1、12更新)
※この自己紹介ページも、定期的に更新していく予定です♪