上海市の北東、揚子江河岸に建設された宝山製鉄所(宝鋼)の第1高炉の火入れ式が行われたのは、1985年の9月15日。

改革開放政策で外国技術導入による近代化に踏みだした中国に日本が応じ、「日中友好の象徴」のプロジェクトとなりました。

「貧しかった中国も大きな政治決断だが、我々も技術流出を覚悟しライバルを育てる話でした。だが、中国経済を離陸させる長期的な国益を重視した」。

建設の全面支援をした新日鉄の関係者は語ります。

いま、宝鋼から供給される鋼板を使い、進出した日本企業の技術者が中国人と、中国の消費者にあった製品作りに取り組みます。

飽和した国内から活路を求める地方の中小企業、日本に物足りなさを感じる人々が中国へ渡り、中国人観光客が北海道や銀座に来ます。

政治主導で始まった日中経済交流は四半世紀を経て、民間や草の根の人たちが主役に代わりました。

1985年は、戦後日本の絶頂期を象徴する為替調整が行われた「プラザ合意」(9月22日)の年でもありました。

だが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は長続きせず、いま加速している中国への人やモノの流れは、1%成長がやっとになった日本と、毎年2けた成長を続ける中国との落差を映しています。

人口が減り、国内市場が先細りの日本にとって、中国の巨大市場は新たな飛躍や再生の舞台です。

北海道や東北、新潟などの地方の食品・水産会社にとっても、中国との北日本貿易の推進が、大きな活路となります。

販路と技術力を補い合って日中企業が合弁事業を加速させます。

省エネや安全社会に変わろうとする中国に日本の技術が役立ち、円切り上げ、内需拡大の過程でバブルを生んだ政策の失敗を中国は参考にしようとしています。

だが、拡大する所得格差などへの不満が社会不安につながるなどの中国リスクが顕在化した時、最も影響を受けるのは日本でしょう。

体制の違いや歴史問題が残る中でも、経済のグローバル化は日中を運命共同体的な位置に置き、くしくも2008年9月15日の「リーマン・ショック」は欧米がつまずく中、世界の成長の先導役としての中国の存在感を決定的にしました。
 
日本の「中国づきあい」と、中国が日本との交流を通じてどう変わりどこに向かうのかを世界も注目しています。
 
 
大河平隆哉