大学における学部設置基準の緩和以降、日本では様々な学部や学科の名称が乱立している。それに対して、ア〇大学のバ〇学生なんて揶揄している人さえいて、それはそれで読み物として面白い。
私自身、この現象に関しては悪いとは思っていない。既存の学問分野では追いつかないほどの時代の流れによって、人間だけではなく宇宙全体において、<どうしてよいのかわからない>ということをまざまざと感じられていることであるし、実際この解決に向けて行動を起こしている政治団体や学校が存在する。
これに対して、私が要望することはただ一つ。
学部の名にした限り、教員は学術分野として成立させる責任感を持ち、大学(学部)はそこに存在する教員が一つになって新たな学問分野を追求する機会を与えるべきであるということ。
これに尽きる。
しかし、現状の各大学の現状をみてみると、既存の学術分野をを複合させただけのもの、目新しい名称にし客寄せ(受験生増加)を目指すもの、新たな分野を目指すためにつけたはずなのに実際は既存の学術分野と何ら変わらない理念を持っているもの、、、である。
つまり、新たな学術的分野としての確立を目指そうとするものではないのである。
さて、この動きの中目立つのが、人間〇〇学部という名称である。
人間そのものを追求する、人間の生き方を追求する、人間のさらなる教育を追求する等、である。
しかし、それらの学部で行われていることの実態は、人間を対象にした既存の生理学、発生学、教育学等の複合体である。授業として行われていることのほとんどは、それぞれの教員の専門分野にまかせた各論の繰り返しである。
確かに、それぞれの教員が長年研究してきた成果を学生たちに還元するという基本は崩してはならない。だが、学部に所属していることを考えるならば、その学部の名称を付けた以上、それを学術的に捉え、新たな学問分野を目指した核となる理念をその場にいる教員全体で追求していかなければならないと思う。その核となる理念を置いた上で、人文科学や自然科学を超えた取り組みがなされ、学生をも巻き込んだ大学としての方向が見えてくるように思える。
これの難しさは、自分の(大学の中でのみの)立場や利益のためのみに動き回り、皆で考え抜いた理念やルールでさえ簡単に書き換えてしまう、こんな大学教員があまりにも多いということである。ある程度の立場になると、自分と同列の人間ばかりになる風土がそうしているのか、こんな考えを持っている人は新たな何かに踏み出そうとはしない(この時点で研究者として私は認めることができない)。しかし、研究者であり教育者であるという道を選んだ者としては何ともさみしい話である。
人間〇〇学部とつけた以上、胎児から息を引き取るまでの位置づけの中、今の学生たちをどうするか。そして、学術的に核となる理念はどのようなものなのか、徹底的に追及してもらいたいと考える。そこには、経営者として手腕を発揮してもらえるスタッフが必要なのはもちろんであるが、その話はまた別に書くこととする。
さて、人間の一人である自分、これからどう生きるか。1990年代に日本を震撼させた大きな事件があったとき、警視庁の捜査一課長であった寺尾氏が警察官となった理由について以下のように語ったとある。
「一度しかない人生。人の役に立ちたい。そうした手応えがほしかった」
この言葉に私は何度も勇気をもらえた。
息を引き取るまでがいつかは分からない。だけど、生命尽きるまで今の思いを忘れず、行動し続けてみたい。一度しかない人生なのだから。
