タイトル :
なぜ民主主義を反論可能性で考えているのか
内容: 民主主義っていうのは、確かに多くの人の声が届くいい政治だとずっと思ってきた。が、最近だんだん頭が混乱してきたのも事実。 その理由は、古代アテネとソクラテス以降のアテネの状況である。 確かに広場に集まってアゴラだっけ、アゴラという広場に集まってみんなで議論する。で、みんなで決めていく、みんなで責任分担する。 なんか非常に理想的な政治のような気がする。もちろんそれができたのは、ある程度スケールの小さい都市国家だからなんだけど、 また、奴隷制というちょっと負の側面がある経済的な状況、議論する時間がそうやって作られたということ。 そういうこともあって、民主主義が進んできたけど、有名なソクラテスの死ぐらいからなんかおかしくなってくる。(でも、ソクラテスの裁判自体には、本人の反論の時間がちゃんと用意されている。)扇動者、恐怖政治、そういったものが混じってくる。そして周囲と違う意見が言えなくなってくる。つまり、反論可能性が失われた。これが民主主義が民主主義でなくするのだ。表面上は形式上は、それは民主主義かもしれない。だけど、そういう怖い政治がどんどん出てくる。 これが何がどう違うのかっていうのが最初の僕の出発点でした。で、時代は飛んで、今のネット。 ネットとマスメディアの攻防みたいなものをリアルタイムで見続け、で、ネットの前に実際僕はもういい歳なので、ずっとマスメディアを見てきた。 で、マスメディアは確かにいいことも言うし、取材力はほぼ独占的だ。でも言論空間の健全性が反論可能性だとするとストレスが溜まってくる。マスメディアが変なことというか、どうしようもないことも言うと思いながら見てきたが反論の機会はあるのだろうか。その時に、ふと、「え、ネットってちゃんと反論するじゃない。 ネットってマスコミにも反論する。ネット同士も反論する。これって民主主義じゃない? 」そう。で、そこでもう一回メディアに戻ると、え、このおかしい記事、おかしい番組って、よっぽどおかしいとしばらく経って謝罪かなんか言い訳みたいなものが出てくる。 だけど、流した放送そのものは変更がないし、頭の中で植え付けられた情報は変えられない。その責任なんか取れないじゃないよね。 その点、ネット文化、ネットのメディア、ネットの 社会ではデータ書き込みは、動画は残る。これ。ずっと残る。消しても実はネット民の意地悪な性格からか残る。いわゆる魚拓みたいな形で残る。切り抜きみたいなので残る。 すごいね。だからごまかしが効かない。それがネット。 最近tiktokみたいなすごく捏造や悪どい偏向みたいなものを増長するネットが出てきてるってことを知り、ちょっと不安感を感じているが、それを除けば僕はもうほぼネットっていうXとYouTubeが中心だけど、その2つを中心にネットの世界の方がメディアの世界よりもずっと健全だと思う。 そっから出発して、歴史的にはどういう発展をするもんなんだろう、経済的にはどういうもんなんだろう、政治的にはどういうもんなんだろう、メディア的にはどういうもんなんだろう、ということを考えながら考えついたのが、反論可能なネットデモクラシーなんです。 メディアっていろいろなことを正義ぶって書いているけど、変だな、おかしいなと思っても、せいぜいメールか電話かくらいしかできない。だけどそれいうことを言ったって、反論は絶対可視化されません。返答ももらえません。議論、反論とまた反反論という議論もできません。 一方通行、基本的には一方通行じゃないか。だからtiktokみたいな反論の場を実質削ったものを除けば、ネットの世界の方がよっぽど健全だと僕は思う。だから、僕は民主主義を反論可能性で考える。考える材料と反論の場があればいい。他人の正義はいらない。
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