Write,Wrote,Written

Write,Wrote,Written

なんでも書く人です。

Amebaでブログを始めよう!

 

 

なんやかんやとしているうちに、ひとつ年を取った。

前後でわちゃわちゃと情緒に響くようなことがいくつかあって

その都度ブログに残しておこう、そう思ってつらつら書いたりしたのだけど

結局どの記事も途中でお店が忙しくなったり、「はて、何をそんなに憤っていたんだっけな?」となったりして

いたずらに下書きが増えただけになった。

 

本当はそういう自分の思考や情緒の動きを文章にあらわす練習を兼ねてこのブログをしているのに

こんなことじゃあいけないな、と思ったりするのだけど

現状まだ四の五の言わずにとにかく書いてみる!という習慣にはほど遠い。

なんだかつらい、みたいなことがあったときはそうそうに布団に潜り込んで、夢の中に逃げ込んでばかりいる。

周りの諸先輩たちから「そんなに眠れるのは今のうちだ」みたいなことを何年も前から聞かされ続けているのだけれど

いったいそれはいつになったら訪れるのだろう。

相変わらず寝ても寝ても、わたしは夢の世界が恋しい。

思い返せばうちの母も、なにかというと昏昏と眠るような人であったので

ひょっとするとこのひたすら眠る、というのは我が家のお家芸なのかもしれない、とも思いはじめている。

 

昔は誕生日やお正月みたいな節目というものがとてもスペシャルで

なんだかそれを気に自分が生まれ変わるような気がしていてわくわくしたものだけれど

さすがに30うん回もそれを繰り返しているうちに、どうやらそういうわけでもないらしいということに気が付いてしまう。

同じような現象はスケジュール帳を新調したときにも起こる。

今年はすでに夏の疲れの閉そく感が出始めた時期、9月はじまりのスケジュール帳が少しロフトに並んでいたのをきっかけに

まだまだ使い切っていない、セサミストリートのほぼ日手帳に別れを告げた。

並ぶ新しい手帳たちをみていたら、もう一刻も早く新調したくてたまらなくなったので

9月はじまりを血眼になって探し、結局雑記用の文庫サイズの分厚いノートと、無印良品のシンプルなカレンダーメインの薄い手帳を買った。

 

誕生日やお正月、そしてスケジュール帳の新調。

それらは確かに気持ちをわくわく、背中をしゃきっとさせてくれるものだけど、年々持続力がなくなっていくのが少し寂しい。

だけどそれは別に100%ネガティブな感覚ではなくて、こだわらずにいつだって自分を奮いたたせれば良いだけのことなのかもしれない。

誕生日やお正月は何度もは作り出せないけれど、例えばスケジュール帳の新調、みたいなことなら自分でもたくさん起こせる。

 

急に寒くなってきたので、毛布や秋物の服を引っ張り出して

いただきもののとっておきの柔軟剤でゴウンゴウンと洗濯をした。

空気が乾燥して洗濯物の乾きが良いので、ついでに白カーテンも洗う。

もちろん、とっておきの柔軟剤で。

なんだか部屋の中も良い香りになって、乾きあがった毛布たちはふんわりと柔らかい。

迎える季節の準備がたのしいなんて、思ってもみなかった。

これも気持ちをわくわく、背中をしゃきっとのひとつだ。

長いお酒の酔いからさめて、精神年齢や生活年齢が年齢のわりに幼く未熟ままで何年も過ごしてきたけれど

わたしは私なりに少しずつ、大人として暮らせているのかもしれない。

そう思ったら少し、うれしくなった。

自分の機嫌を自分でとれるというのは、大人への一歩だ。

 

今年のお誕生日は、パートナーと私の15年来のお友達と三人で食事に行った。

個室の鉄板焼きで、こんなに贅沢して良いのだろうか・・・とあんぐりしたりもしたけれど

なによりも大好きなひとたちに囲まれて、お誕生日を祝ってもらえるというありがたさにしみじみと感謝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月初めには入口とお手洗いに置いているお塩を取り換える。

前は月の中日にも取り換えていたのだけど、如何せん営業日も少なくなったもんで「あれ、今何月何日?」みたいな感じで忘れてしまうようになって

気が付けば月に一度となっていた。

月初めもいつも「あれ、いつの間に次の月に・・・?」となるのが常なのだけれど

お店にくれば大家さんがお店の前にお塩とお米を撒いていてくれるので、店先を掃除するときに「あ、今日月初めか!」と気が付くことができる。

大家さんのお店もふくめて四件のお店が並ぶ、長屋みたいな作りの建物。ほかのお店の人たちもざっくり同世代で、気持ちが良い距離感で仲良くしてくれているのがありがたい。

そんなそれぞれのお店の角々にお塩とお米を見るたびに、なんだかうふふとうれしくなる。

お塩は雨がふるまではそこにあるけれど、お米は大体その日に鳩さんかスズメちゃんのご飯となっている。それも含めて、うふふ、だ。

 

店の裏はこれまた裏口が並んでいて、割合広い通路というかスペースがあるのだけれど

そこには井戸が掘られている。

もうすでにポンプでくみ上げる方式になっているそうで、いわゆる「井戸!」という体のものは無いのだけれど

水神様のちいさなお社があって、毎月神社の方がきて、ピーヒャラヒャラと笛をふいて、なんだかいい声で「なんちゃらのなんちゃら~」とありがたい気持ちになる独特の祝詞が奏上されている。

はじめてそれに気が付いたとき、わたしはやっぱりとってもうれしくなった。

すてきなところに縁があって良かったなぁ、そうしみじみ思ったのだ。

 

 

なにかに信仰があるとかいうわけではないのだけれど、やっぱり神さまや仏さまを大切にすることは気持ちが良いことだと思う。

背筋が伸びる、暮らしと心に風がぴゅ~っと吹く感じ。

 

といいつつ、あんまりにもスピリチュアルなほうに傾きすぎた人や者をみると反射的に身構えてしまう。

自分でもどこがラインかいまいちわからないのだけど。

厄払いをしてもらったり、たまにお参りにわっせわっせとでかけるお寺の観音さまに手を合わせたりするのはなんだか心がスッとするし

ここ半年くらい書籍を読み漁っている曽野綾子さんに影響されて、キリスト教の教義、というかキリスト教的なものの考え方というのにも非常に学びを得ている。

だけど時折店に来て、某神さまの奇跡やその方々のお考えの冊子なんかを熱くプレゼンされる方々や

昔母が熱心に救いを求めていた某新興宗教の関係者の方(こちらもたまに店にいらっしゃる)の目を見ていると、たまらなく不安な気持ちになってしまう。

そんなに熱く信じられるものがある人生ってうらやましいなぁ、と思ったりもする。

ぶれない信仰って、わたしにはとてもたどり着きそうにない境地だ。

そういう人たちの信じる気もちって一本槍みたいな形でひるんでしまう。わたしにとって神さまや仏さまはもっと融通のきく存在でいてほしい。

(文字にするとものすごい不敬だけど)

 

あと、依存症仲間が有名な占い師!とか、未来がみえる能力者!とか、この石にはパワーがある!とか、あんたの後ろに何か悪いモンがついてるよぉ!系に傾倒していく姿をみるたびに(弱っている人が多いからか、どうもそういうのに引っ張られやすい)

「やっぱりもう少しでよいから、化学の成分をいれたほうが良いのでは?」と余計なお世話の一言を言ってしまいたくなる。

スピリチュアルばっかりでも現代社会を生きるにはちょっとバランスが悪いし、化学ばかりだと少し肩がこる。

その点、おばあちゃんやおじいちゃんたちが教えてくれた仏さまや神さまっていうのは

なんだか絶妙なしなやかさ、うまいバランスの存在だよな、と妙に納得してしまった。

 

 

 

「お塩をするなら、神社のおさがり塩が良いですよ」とおっしゃるお客様から、昔から親しみのあった近くの神社のおさがり塩をおすそわけしてもらって以来

すっかりそれがしっくりきて、遠方の神社にいくたびに「あの・・・お塩を・・・」と求めている。

コロナの影響ですっかり旅には出られなくなったけれど、今のお塩は去年縁があって立ち寄った、阿蘇の白蛇神社のものだ。

スピリチュアルを熱心に説く人々をちょっと敬遠しながら、「神さまのお塩ありがてぇ!」っていうのもなんだかなぁ、と思ったりもするけど

これが自分なりのしっくりくるバランスなんだよ、とかってに腑に落ちている。

 

ちなみに「塩まいとけぇ!塩!」というようなことはめったにおこらないけれど、店を開けている以上やはりそういうこともまぁたまにはあるので

そういうときはペロッと一口神さまのお塩をなめるようにしている。

当たり前だけど、口の中がしょっぱくなって「塩だなぁ」と思うと、心が軽くなる気がするのだ。

あたらしいものにもよろしくね、とお塩をひとつまみ。

処分するものにもありがとうね、とお塩をひとつまみ。

そう考えると、もはや私神さまの塩なしでは暮らせないなぁ。うふふ。

 

 

バッバッ( ・ω・)⊂彡・::

バッバッ( ・ω・)⊂彡・:: 



 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 


 

 

 

 

まいっちゃうなぁ、とぼやきたくなるような夢だった。

時計を見ると深夜の1時を少し回ったところで、今日は早く寝ようと思って20時には床にはいり、21時を過ぎたころにはもう記憶はないので

4、5時間は寝ている。

朝と晩は涼しいはずの秋のはじまり、昨日おとといは遠くにいる台風の影響か風もビュンビュンに吹いていたのに、今日の夜はなんだか生ぬるい。

タイマーによって自動でスイッチオフになっていた扇風機のスイッチを入れる。

しずかなモーター音と一緒に、やさしい風が足元から腰の辺りまでをすー、すー、となでてくれたおかげで

なんだかモンとした気持ちも、体にまとわりつく生ぬるさも、ほんの少しだけマシになった。

 

いったんトイレにいき用を済ませ、軽く口をゆすぐ。

(少し前まで大して気にしていなかったのだけど、眠ったあとの口内は菌達がうじゃうじゃいるんだという話を聞いてから、途中で目が覚めたときにもうがいをする癖がついた)

ポットからマグカップにお湯をドボドボ注ぐ。

寝る前には魔法瓶モードというモードにして、保温を切っているので

ちょうど飲み頃のぬるいお湯だ。

マグカップを傾けて、身体にじんわりとぬるいお湯がしみこんでいくのを感じながら先ほどまでの夢を反芻してみる。

 

まぁしかし胸糞悪い夢だった。

焼酎ビンを片手にもった、目の据わった父が暴言を吐く夢。

そして最後にわたしに包丁を投げつける。

(包丁で切りつける、じゃないところがみそだよな。)

ささりはしないものの、刃の部分はわたしのちょうど胸のど真ん中あたりにトスっとあたって床に落ちた。

血はでていただろうか、出ていなかったような気がする。

だけど夢の中なのに、トスっという感覚はやけにリアルで

夢から醒めても、なんとなく私はその包丁の刃が当たった部分に手をあてて、怪我はないか、痛くないかを確認した。

夢の中では包丁が床に落ちたところで、私は「警察に電話するね」とiPhoneを手にする。

おばあちゃんが狼狽している姿が目に入る、なんといっていたかは覚えていない。

おばあちゃんのことは見ないふりをして、iphoneを操作するのだけれど

発信画面にキーパッドが出てこなくて110と入力が出来ない。

そしてそこで目が覚めた。

 

夢があのまま続いていたとして、私はどうにかして警察に通報したのだろうか?

おばあちゃんはなんと言っていたっけ?

そんなことが頭を駆け巡る。頭を、というよりは心をビュンビュンと横切っていく。

 

 

ちなみに父はずっとバーをしていることもあって、昼過ぎくらいまでは酒臭いくらい酒飲みだが

今のところ酔っぱらって包丁を向けるような乱暴な真似はない。

(粗相や母への暴言なんかは何度かあった。まぁでも最近のことはどうかよく知らない。)

どちらかといえば酔っぱらって包丁を手にしていたのは私自身だ。

あの頃は本当にいつも酔っぱらっていて、それはもう立派なアルコール依存症だった。

 

専門病院で治療をうけて、お酒をやめて4年。

忘れました、みたいな顔して生きてるなぁ、と我ながら呆れるときがあるのだけれど

時折こういう胃の奥あたりがうずくような夢を見るのは

私は結局こういうのに蓋をギュギュっとしているだけなのだな、と実感してしまう。

 

 

以前ならここで少しセンチメンタルな気分になったのだが

ちょうどLancersの自己アピール文を思案していたタイミングだったこともあって

「はて、わたしはこれから文章でご飯を食べることを目指すわけだが」と考え出したのだ。

上のような夢をみる、という体験をして

それをもとにいわゆる「お金がもらえる文章」に昇華させるにはどうしたらよいのだろう?という自分への問い。

お金がもらえる文章ともらえない文章の違いは?

 

そもそも人の夢、なんていうのは落としどころもわかりづらいし

夢ならではのつかみどころがない感じは、体験した本人は摩訶不思議で面白い、興味深いと思ったとしても

それを聞かされた他人は「ふーん、」以外の感想が思いつかない代名詞みたいなものだ。

ちょっと相手が悪いな、私は早々にあきらめてもう一度布団にもぐりこんだ。

今度こそ熟睡できるか、こんないたずらに心をひっかくような夢を見ませんようにと祈りながら眠ったが

今度は今度で前の職場で床のホコリ取について延々部下と相談するという何とも疲れる夢であった。

 

 

今夜もLancersのプロフィール欄にあれこれと入力しながら、改めて「お金がもらえる文章」ということを考えている。

どんなことでも、それでご飯を食べていく、ということは簡単ではない。

こつこつ、ぽちぽちとキーボードをたたいていこう。

 

 

 

 

 

 

 

夏になると毎年植えるアメリカンブルー。

アブラムシちゃんとの闘いに何度もくじけそうになりながらも、たくましく成長してくれて

長くきれいなブルーを楽しませてくれている。このブルー本当に良い色だよねぇ。

しかし今年は今までにないくらいアブラムシちゃんやなんか白くてほわほわ~っと舞う小さい虫の襲来にあうんだけどなんでだろう・・・・?土の問題なのか?管理の問題なのか?

前のおうちのお庭は問題なかったんだけ(多少でても薬剤で対策すればその季節は穏やかに過ごせた)やっぱりベランダでプランターとか鉢ってのが水やりの加減が難しいのだろうか・・・

場所はむしろ今のほうがど街中なんだけど、関係ないんだね。

 

 

そんなことを思っている朝。

もう朝と晩はすっかり風が涼しくてうれしい。

私の住んでいる地域は隔週水曜日に缶ビンのごみの日がやってくる。

この水曜日がわたしにとって元気と気力のバロメーターのひとつ。

燃えるゴミは一度でも出し忘れたら大変なことになるので、必ずその日の朝当たり前に出すのだけれど

缶ビンってほとんど量がでないので、スルーすることも多い。

だけど意外と冷蔵庫の調味料なんかをチェックしてみると、いつの間にか賞味期限の切れているドレッシングやら、いただきもののジャムやらが場所を占領していることがある。

朝6時半にすんなり目がさめて、かつ「今日はなんだかよい感じだなぁ」という水曜日は

それらを一斉にチェックして、中身をだして、洗って、ラベルをはがして分別する。

普段からしておけばよいのだけど、意外とこの中身を出して洗ってラベルをはがしてという工程がどうも面倒くさいのだ。

ちょうど先日トマト缶を消費したこともあって(トマト缶って便利でおいしくて最高に好きなんだけど、洗ってもなんとなくにおいがとれなかったり、一生懸命洗おうとするとうっかり手を切っちゃったりするからムキぃ!ってなるよな)

今日は缶ビンだそう~と思って、冷蔵庫やストック箱のビンたちの消費期限をチェックした。

もうすでに賞味期限のきれているお中元で毎年業者さんからもらう某ドレッシングシリーズや変わり種酢のシリーズ(もちろんおいしくいただくんだけど、いかんせんほとんど一人消費なのと、ドレッシングをあまり使う機会がなくていつも使いきれない)、

パートナーが「俺、ジャムやめたから!」と謎の宣言をして私にもってきたでっかいブルーベリーのジャム(表記をみたら後ろに「洋酒」と書いてあったので食べられなかった)

あと一息すくえば使い終わるのに、そのまま放っておいてしまっていたコチュジャン(使いきれよ自分、と突っ込みをいれざるをえない)
などなど。

中身をビニールにぼとぼとだしたり、どうしようもない部分は流したりして処分して

洗ってラベルをはぐ。ラベルも上手にはがれるやつと、あきらめざるを得ないものに分かれる。慣れてくると、端っこをすこしめくっただけで「これは・・・いける!!!」というものと「こいつは・・・だめだ!!!」と判断できるようになる。
そしてキャップを分解するときに上手にできなくて「キィ!」っとなったりしながら分別する。

些細なことだけど、なんだかこの作業はいつも達成感がある。

もともとものぐさな私的には、これをきちんとできる、というのは気力と体力が良い感じである証拠でもあるのだ。

 

 

余談だけれど、昔比喩でなく山ほどビールたちを飲んでいたときは

二週間に一度のごみ収集では全然たりなくて、

押し入れのスペースに、大量の空き缶を押し込んだゴミ袋を隠蔽したりしていた。

ちなみに瓶を出すのは重くて面倒くさいので、紙パックの焼酎や、大きい取っ手のついたブラックニッカ(買うときに何も言わなくても領収書をもらえるのがいつも面白かった)を抱えて暮らしていた。

それこそ缶ビンの日にゴミを出さない、というのは大変な失態であったので

何を忘れてもその日だけは忘れないようにしていたことをたまに思い出す。

あの時ついた脂肪やむくみがようやく取れて、当時を知る人に再会するたびに驚かれるのだけれど

そのたびに「私はたくさんのお金を使って、多量の缶ゴミと、多量の脂肪と浮腫みを一生懸命生み出していたんだなぁ」となんともいえない感慨にふけっている。

 

 


 

 

 

 

 

午前中はおうちのことをして、お昼から店へ。

三日休んだつけが回ってきがちな火曜日、大体毎週ぱたぱたと走り回ることになる。

掃除をして、水差しのグリーンたちの水を替えて、店の中と、裏と、そしてお隣のバーの軒先に並んでいるグリーンたちにお水をあげる。

連休の途中でお水をあげたりしにくるのだけど、やっぱりそれでも連日晴天が続けばしょぼんとしおれてしまう子もいて

ごめんよごめんよ、とぶつぶつ独り言ちながらお水をたっぷりかける。

(それでぷっくり葉をもとに戻してくれるので、いつも感心してしまう)

やっぱり週に3日の営業だと、生きている植物を扱うのが難しい。

元気であればそもそももう少し営業の頻度があげられるし、まあ営業しないとしても店にきて世話をすることはできる。

だけど夏前に調子を崩してからは、とにかく気力も体力も枯渇してしまっている感じがあって

こんな調子だし、秋に植物を増やすのはやめよう、そしてもう少し自分のライフスタイルや商売の在り方を考え直してみよう、そんなことを思っていた。

 

 

店にいる間は、いろんな作業をしたり、お客様とおしゃべりをしたり、商品についてのお話をしたり、なんだかんだと時間が過ぎていく。

今日は何度も植物が減りましたね、という声を聴いた。

そのたびに「実はちょっとこの秋は増える予定はないんです」と答えていた。

苦し紛れに、先週末にフェイクグリーンの手配をしたのでその案内もする。最近のフェイクグリーンはよくできていますから、そちらもぜひ、と。

そのうち「これは、なんだかしっくりきていないな」と思った。

フェイクグリーンはフェイクグリーンでもちろん立派なニーズがあるんだけれど

「植物が減りましたね」と声をかけてくださった方々が求めているのは、お世話がいらない、その子たちでないことはよく考えなくたってわかっているはずなのに。

らしくないんだよなぁ、なんだか。

もう問屋のサイトからフェイクグリーンを選んでいるときには「自分がさぼろうとしている」という自覚はあった。

気力と体力の枯渇は嘘ではなかったので、まぁ身もふたもなく言ってしまえば「さぼっても良いか」と思っていたのである。それなりの代替の案をだそう、そう思ったのだ。

 

植物をポット苗から買ってきて、鉢もメーカーさんからいろんなラインナップをそろえて、店の裏で植え付ける。

植え替えたあと、急に環境をかえると弱ってしまうことも多いので

2週間くらいを目途に同じ場所(直射日光のあたらない、風通しの良いところ)で生育を確認する。

植物たちが鉢の中で生きていく気になったなぁ、というのは見ていればわかる。

新芽がでたり、葉の色やハリの様子、毎日見つめれば、植物たちはびっくりするくらい雄弁だ。

元気な状態で落ち着いてきたなぁ、そう思ったらプライスカードをつけて店頭に並べる。

元気の良い、生き生きとした植物たちがずらりと棚に並ぶと、うれしくなる。

そしてお客様がそのことにいろいろなリアクションをくれたり、それぞれの植物たちとのストーリーをおしゃべりしてくれるのがまたうれしい。

 

かわいい鉢に黒ポットのまま、すぽっとポット苗をいれているだけの観葉植物の売り方はよく見るけれど

完全に鉢に仕上がった植物が店頭に並んでいる店は多くはない(と思う)。

正直手間もコストもかかる。すべてが順調に生育して商品になるわけではないし、なにげに虫との闘いや季節や環境の悩みも多い。

ちいさな店だけど、ひとりでやっている身にはちょっと業務のウェイト的にどうなんだろう?と思うこともある。
 

でもお客様からすれば、かわいい観葉植物の苗を見つけたとして、土や鉢底石を準備して、サイズと好みにあった鉢も準備して、さぁ植えるぞ!というのはハードルが高く感じるもののようで

植物たちとの暮らしをしてみたいけど、自分で植えるのはちょっと・・・という方に予想以上にお迎えいただいた3年間だったと改めてしみじみ思いかえした1日だった。

 

 

もうこの秋は植えない、そう決めたはずなのだけど

きっと近日、私は苗を求めて自転車で走ることになる。

車を手放してしまったので、わたしの小さな自転車のささやかなかごに乗るだけの苗しか買えないけれど

むしろそれは良いことなのかもしれない、そう思えてきた。

 

河合隼雄さんの【こころの処方箋/新潮社】の中の「心の新鉱脈を掘り当てよう」を今の自分の心に改めて留めたい。以下引用。

 

「人間には、身体的なエネルギーだけでなく、心のエネルギーというものがある、と考えると、ものごとがよく了解できるようである。

~中略

人間の心のエネルギーは、多くの「鉱脈」のなかに埋もれていて、新しい鉱脈を掘り当てると、これまでとは異なるエネルギーが供給されてくるようである。

このような新しい鉱脈を掘り当てることなく、「手持ち」のエネルギーだけに頼ろうとするときは、確かに、それを何かに使用すると、その分だけどこかで節約しなければならない、という感じになるようである。

このように考えると、エネルギーの節約ばかり考えて、新しい鉱脈を掘り当てるのを怠っている人は、宝の持ちぐされのようなことになってしまう。

~中略

自分のなかの新しい鉱脈をうまく掘り当ててゆくと、人よりは相当に多く動いていても、それほど疲れるものではない。

それに心のエネルギーはうまく流れると効率のいいものなのである。

他人に対しても、心のエネルギーを節約しようとするよりも、むしろ、上手に流してゆこうとするほうが、効率もよいしそのことを通じて新しい鉱脈の発見に至ることもある。

心のエネルギーの出し惜しみは、結果的に損につながることが多いものである。」

 

 

まさにエネルギーを節約しようとしていたもんな。

気候が良くなってきたのもあって、調子も上向いてきた。

今の機会に、心の新鉱脈を掘り当てようという気持ちで過ごしてみることにしたい。

 

 

↓植物がわんさと並んでいるときの店。確かにわんさと並んでるなぁ。