アンカラは丘に囲まれた低地に街が在ると言うことを実感した。

街を囲む丘のひとつの頂上にアンカラ城(ローマ時代には砦が有ったようで、現在の城塞都市の城壁はオスマン帝国時代の姿)、きつい坂道を登って行く途中にアナトリア文明博物館が在る。

朝の10時前に着くと、トルコの幼稚園や小学校のグループに、外国人ツアーグループなどが押しかけている。
建物は15世紀後半のオスマン帝国時代の商業施設コンプレックスで、1881年の火災によって見棄てられていた建物を、アタチュルクが新生トルコ共和国の首都に相応しい博物館に改装したらしい。
ここも以前に訪れた記憶は無い。本当にアンカラのイメージは薄いのである。

ギョベクリテペの石柱のレプリカ。2021年に現地で見たよりも表面の図柄が良く判る。

コンヤの南にあるチャタルホユックの遺跡の家屋復元模型。C14測定でBC6800からBC5700という数字。新石器時代後期のものとしては非常に進んだ家屋の集落を形成している。

BC5750頃とされる、チャタルホユック出土の陶製地母神像。

チャタルホユックの壁画

装飾品

紀元前6000年紀の土器

真ん中、紀元前5000年紀とされる銅製の鎚

青銅器時代の展示の中心はアラジャホユック遺跡(後のヒッタイトの主邑ハットゥシャの北東30キロ)、紀元前3000年紀の祭儀用柱頭飾り。
円形の板は太陽を象徴すると考えられ、聖獣は雄牛か鹿。

アラジャホユック出土品

聖なる像として地母神像の変形、或いは東地中海地域に見られる平板で楽器のような造形。

青銅器時代(BC3000-BC2000)の次に、アッシリア交易植民地期(BC1950-BC1750)というセクションを立てている。
これはアッシリアの交易商人によって楔形文字が齎され、アナトリアに文字記録が始まる重要性を評価するとともに、アナトリアに20ほど存在した『Karum』と呼ばれる交易市場の中心に『Kanis』(sは下ヒゲ付きシュで音はカニシュ)が在り、これは現在のカイセリ郊外のキュルテペと比定され、ここからヒッタイトを建てるアニッタ王が出たとされることから、前ヒッタイト的な意味が有る。
アッシリアの交易商人は、地元の支配者に税と借地料を払って、市場と物品の保護と交易路の安全保障を求めた。
キュルテペ出土品

楔形文字粘土版
左上など、粘土版を収める外箱のようなものが有ってその表面にも楔形文字が刻まれている。