スパンブリーにも国立博物館が在る。事前にネットで見ると、ドヴァラヴァティー関連の展示は圧倒的にウートーン国立博物館に有り、でも一応県庁所在地の国立博物館なので行ってみた。
スパンブリーも、以前に訪れたコーンケンに似て、旧市街から離れた外に行政関係の建物が集中して建てられている。マップで確認するとチャイナット方向に国道340号を約8キロ走った位置。
市内のバスターミナルからモトサイで走ると、確かに遠い。80バーツ欲しいと言うのも納得。
博物館の受付で、帰りはまたモトサイが呼べるか確認する(ここの職員は呼んでくれる)。
展示は、ある意味予想通りで、前半はざっくりとスパンブリー県の歴史や地理を紹介して、その後チャクリー王朝になってからの住民構成をマネキンなどで、最後に最近の産業や文化を見せる流れ。

新石器時代から人が住んでいる。

ドヴァラヴァティー時代については、現在のウートーンの場所が都市で、ドヴァラヴァティーの終盤にウートーンが衰退し、現在のスパンブリーに重心が移ったと見られる。この変化の原因と時期の特定が気になる。たぶんクーブアの衰退も同様の原因と時期ではないか。

この地図がドヴァラヴァティー時代の海岸線を良く現していると思う(ただし厳密にどの時点なのか、土砂の堆積や水位変化はどうなのかは疑問が湧く)。
左下の海辺にクーブア、その北ナコーンパトムも海に接していて、更に北に海が入り込んだ位置にウートーン、中央部一番奥にロッブリーも。
いずれも海に面していて後背地を持ち、森林産品や鉱物資源を集積出来る位置。
時代の経過で、土砂の堆積や海水面の低下が有って海岸線が後退すれば、アユタヤが港市として非常に良い場所になる。14世紀以降、アユタヤは東南アジア最大と言っても良い港市になる。
スパンブリーの歴史では、アユタヤ王朝の創始者ウートーン王(ラーマティーボディー1世)を出した、或いはウートーン王はロッブリー王家の出自でスパンブリーのスパンナプーム家(スパンブリーの王家)の姻戚であったと考えられ、初期のアユタヤは近隣数王家の連合で成立した様子。後にスコータイ王国をアユタヤに糾合するにはスパンナプーム家とスコータイとの繋がりが重要であったらしい。
焦点はドヴァラヴァティーの衰退、この地域では現在のウートーン環濠都市の衰退がいつ起きているのか?
ウートーン国立博物館の展示にはクメールの要素が全く現れなかった。クーブアの遺構でも、ドヴァラヴァティー期の衰退後放棄された感じで、数キロ離れた今のラーチャブリーの市内のワットマハタートはアンコール期、特にジャヤヴァルマン7世のバイヨン様式で建てられた形跡が窺える。
問題は、ジャヤヴァルマン7世は13世紀の話で、その時代には明らかにラーチャブリー、スパンブリー、ロッブリーを支配下にして、カンチャナブリーの先に、最も西に存在するクメール都市ムアンシンを遺している。
つまり、12世紀の終わりには、都市はラーチャブリー、スパンブリーに移っていたと考えられる。とすれば、クーブアとウートーンの放棄・衰微は11世紀か。
スパンブリーについては、アユタヤ以前でドヴァラヴァティー以後にスパンナプーンと呼ばれた街が出来ていた可能性が高い。

スパンブリー県ノンタンプラ出土(12-13世紀)のストゥッコはクメールの影響を受けている。

14-15世紀スパンナプームの出土として紹介

スパンブリーのパノラマ、現在良く遺っている西側の長方形の環濠は第二次アユタヤ時代に整備されたもの。東側の環濠は古いもので現在はほとんど見られない。
スパンブリーの歴史で重要なのは、第一次アユタヤ朝陥落の戦役で、ビルマ(ホンサワディーのタウングー朝)側はスパンブリーを攻め取って自軍の砦にし、攻防の過程でアユタヤ側はスパンブリーを一旦破壊したらしい。
第二次アユタヤ朝の成立に重要な戦いがスパンブリーの北西で戦われた。人質としてタウングー朝で育ったナーレスウェンが自立を宣言し、タウングー朝の皇子(副王)と象部隊の戦いの中、見事に鉄砲で皇子を倒して、以後約200年続く第二次アユタヤ朝を興した話。
これはスパンブリー県の歴史として、しっかり展示されている。
それより、チャクリー王朝時代に成立した現在のスパンブリーの住民構成についての展示が見どころ。

これはもとから居たタイ人、川沿いに集落が有り、各展示は服装や習俗とともに家屋の特徴も示している。このシーンで面白いのは、子供の髪を頭部後方の2箇所だけを残して弁髪のように他は剃り上げている姿。

これは潮州華人
他にラワ、ラオクラン、ラオヴィエン、カレン(ポーカレンだったが後に分派を主張)、クメール(月を礼拝する儀礼を伝承)、ヴェトナム(これは川沿いに漁業を生業にしてカトリック)など多彩。
ラーチャブリーで知ったが、中部タイの住民構成はチャクリー王朝になって大きく変化している。それとも、政治勢力の変化で住民が移動するのはこの地域の特性(もっと古い時代でも起きているのか)なのか?

ひとつ面白かった焼き物窯の展示

タイの窯の分布で、ほとんどは北部だが、スパンブリーにも在った。

焼きはしっかりしていて、表面の精緻な文様がくっきり現れている。(ちょっと紀元前後のローマ陶器を感じさせる)
他に現代のスパンブリー県の紹介で、なんと20世紀後半から油田が開発されていて、21世紀に採掘している。BPが持っていた権利をPTTが買い取って行っていて、日産500バレル(これが採算ベースなのか不明)と説明。
東南アジアで20世紀前半には、ビルマのエナンジョンと、スマトラのパレンバンは石油採掘が知られていたが、20世紀後半のペルシャ湾での油田開発で状況がまったく変わっている。
BPが採掘権を持っていたと言う事は、早い時期にこの辺に原油が存在する事を知っていたものの採算性が疑問だったのでは?
(ちょっと調べると2024年の世界原油生産量重量順位でタイは33位、10位のクウェート1億3000万トンの10分の1弱、1200万トンほど。英国とインドネシアはほぼ並んで3000万トンでその約3分の1)
まあ、そんな感じでスパンブリー国立博物館終了。
受付でモトサイを呼んで貰って、戻り方向の途中に遺る仏塔を訪ねる。

ワットサナームチャイに遺る仏塔遺構

周辺に小仏塔の基層が見られ、グーグルマップで見るとほぼ東西軸線で、東側に前堂かと思われる構造遺構。アユタヤ時代と見るのが穏当だがクメール後期かも。

その近くにもうひとつチェディワットカーロン、アユタヤ型

西側環濠内の北辺にポツンと、チェディワットタレータライ、崩れかけ。

スパンブリーのワットマハタート、主塔はアユタヤ型の装飾だが、前堂(今は僧堂)を持って、周辺小仏塔と全体の囲み壁などラーチャブリーのワットマハタートと同じくアンコール後期の建築プランではなかろうか?

南側からの眺め、手前に全体を囲む外周壁が遺り、東西軸線上の東側に現在の僧堂があって、その外側に外周壁が回っている。

スパンブリー旧市街のターチン川に架かる橋を渡った東側にタワー。ローイエットにもタワーが在ったが、スパンブリーのは貧弱。

ウートーンはこの方向、特に何も見えず。

スパンブリー旧市街の市場、午後の遅い時間というのもあるが、鄙びた感いっぱい。
今のスパンブリーはバスターミナルの在る辺りのほうが銀行や店も多い。