私は、人間の心は多重構造をしていて、同心円状にいくつかの層をなしているものと考えています。すなわち外側から、
①知性―――後天的に身につけた知識や論理
②感性―――五感や感情などの精神作用をつかさどる心
③本能―――肉体を維持するための欲望など
④魂――――真我が現世での経験や業をまとったもの
⑤真我―――心の中心にあって核をなすもの。真・善・美に満ちている
という順番で、重層構造をなしていると考えています。私たちは心の中心部に「真我」をもち、その周囲に「魂」をまとい、さらにその魂の外側に本能を覆った状態でこの世に生まれてきます。たとえば、生まれたての赤ん坊でも、おなかがすけば母乳を欲しがりますが、これは心の一番外側に位置する、本能のなせる業です。
そして成長するにつれて、その本能の外側に感性を形成し、さらに知性を備える等になっていきます。つまり人間が生まれ、成長していく過程で、心は中心から外側に向かってだんだん重層的になっていくわけです。反対に、年をとって老いが進むにつれて、外側からだんだんと「はがれていく」ことになります。
たとえば痴呆が進むと、まず知識や論理的な推論など知性の働きが衰え、子どものように感情がむき出しになりますが、やがてその感情や感性も鈍くなり、本能がむき出しになる状態を経て、ついにはその本能(生命力)も薄れて、しだいに死に近づくことになるわけです。
ここで肝心なのは、心の中心部をなす「真我」と「魂」です。この二つはどう違うのか。真我はヨガなどでもいわれていますが、文字どおり中核をなす心の芯、真の意識のことです。仏教でいう「智慧」のことで、ここに至る、つまり悟りを開くと、宇宙を貫くすべての真理がわかる。仏や紙の思いの投影、宇宙の意思のあらわれといってもよいのです。
仏教では「山川草木悉皆成仏」、すなわちありとあらゆるものには仏性が宿っているという考え方をしますが、宇宙を宇宙たらしめている叡智そのものです。すべての物事の本質、万物の真理を意味してもいる。それが私たちの心のまん中にも存在しているのです。
真我は仏性そのものであるがゆえにきわめて美しいものです。それは愛と誠と調和に満ち、真・善・美を兼ね備えている。人間は真・善・美にあこがれずにはいられない存在ですがそれは、心のまん中に真・善・美そのものを備えた、すばらしい真我があるからにほかなりません。あらかじめ心のまん中に備えられているものであるから、私たちはそれを求めてやまないのです。
そして、その真我を包み込むようにして取り巻いているのが、「魂」です。真我が一糸まとわぬ純粋な裸身であるとすれば、魂はそれを覆う衣服に相当します。その衣服には、それぞれの魂が経験してきた思いや行い、意識や体験すべて蓄積されています。現世で自分がなしてきたもろもろの思念や行為もまたそこに付加されていきます。
つまり魂とは、それが何度も生まれ変わる間に積み重ねてきた、善き思いも悪しき思いも、善き行いも悪しき行いもみんなひっくるめた、まさにわれわれ人間の「業」が含まれたもの。それが魂として真我という心の中核を取り巻いている。したがって真我が万人に共通したものであるのに比して、魂は人によって異なっているのです。
一番外側の知性を落として感性に達し、その感性を磨き続けて本能に達し、その本能も磨き抜いて……と最後に真我がむき出しになるまで磨いていく。この徹底した内へ向けての心の錬磨が修行そのものであり、悟りとは、真我まで心を磨ききった状態のことをいいます。