地上の楽園ポッティ

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 このパウロという人物のことは何人もの人から聞きました。
選ばれた者たちのあいだには動揺が広がり、この人物とこの発言について相談をするために、ローマやエフェソからはるばるやってきた人たちもいました。




 この人物がどういう魂の持ち主だったのかは、わたしには判断できません。
直接会って、その目を覗きこんでみたことは一度もなかったのですから。
ただ、はっきり言えるのは、このパウロという人物はイーサに会ったことがなかったということです。
その彼がイーサのために語り、光であり善である〝道〟について教えを広めていると聞いて、わたしは心を痛めたものでした。




 わたしはこの人物について、多くの点で危険であると考えていました。
彼はかつてヨハネの粗暴な信奉者たちとつながりを持っていた。
ヨハネの信奉者たちはイーサをおおいに軽蔑していたのです。
彼らはイーサがわたしたちに与えた〝道〟の教えに反対していました。
パウロは初めタルソスのサウロと呼ばれ、選ばれた者たちを迫害したとのことです。

イーサの弟子で、愛に満ちた心を持つ美しい若者だったステパノの殺害を鼓舞したのがサウロであるとする者もいます。
ステパノはイーサに次いで〝道〟のために死んだ最初の人間でした。
そして殉教者はステパノが最後ではありませんでした。
そうした迫害はみなタルソスのサウロが指揮したので
した。
だからおおいに警戒する必要があったのです。





これは『待ち望まれし者』という本に出てくる箇所から抜粋しました。

興味のある方は一度読まれることをお勧めします。

不定期に更新していきますので末永くお待ちくださいm(_ _)m

 偉大なる母、偉大なるマリアのことを、まだ書いていませんでした。

それを今まで書かなかったのは、あの方の善良さと知恵と力を正しく言い表せるかどうか、心もとなかったからです。

どんな女も、自分にとって至上の存在であるひとりの女性の影響と教えを受けているものです。わたしっとてのそういう女性は、イーサの母である偉大なるマリアをおいてほかにはいません。





 わたし自身の母親は、わたしがまだ小さいころに亡くなりました。

その母のことは覚えていません。

生活をしていく上での様々な知識は義理の姉のマルタが与えてくれたけれど、心の問題で教えを授けてくれたのはイーサの母でした。

偉大なるマリアはわたしの魂を養い育ててくれ、人を思いやることと赦すことを教えてくれました。

王女であるとはどういうことかを身をもって示してくれ、ある定めを背負った女にふさわしい生き方を教えてくれました。





 赤いマントを身につけ、真のマリアとなるべきときを迎えたとき、わたしには準備ができていました。

それは偉大なるマリアのおかげ、彼女が授けてくれたもののおかげです。





 偉大なるマリアは従順さにおいて模範的でしたが、彼女の従順さはもっぱら神に対するそれでした。

彼女は神のお告げをこの上なく明瞭に聞きとりました。

彼女の息子もその能力をそなえていました。

それこそが、母子とほかの貴人たちとを分けるものだったのです。

そう、イーサは獅子の子、すなわちダビデの王位の承継者であり、彼の母上は大祭司アロンの末裔でした。彼女は王女として生まれ、イーサは王でした。

でも、ふたりを他の貴人たちと分けているものは、たんなる血筋の高貴さだけではありません。

それは彼らの精神であり、神から我々への告げを忠実に守る力です。





かりにわたしが一生のあいだ偉大なるマリアにひたすら付き従っていただけだったとしても、わたしは祝福されたでしょう。





偉大なるマリアは神意を明瞭に知る能力を持っていた最初の女性でした。

そのことは高位聖職者たちにとって難しい試練となりました。

彼らはそのような力を持った女性を受け入れるすべを知らなかったのです。

でも、彼らには偉大なるマリアを弾劾することはできませんでした。

偉大なるマリアは純正な血統につらなる人物であり、その心と精神は非の打ちどころがなかった。

彼女の汚れなき名声は諸国に鳴り響いていたのです。





権力の座にある者たちは彼女を恐れました。

なぜなら彼女を支配できなかったからです。

彼女は神のみに忠実でした。



これは『待ち望まれし者』という本に出てくる箇所から抜粋しました。

興味のある方は一度読まれることをお勧めします。

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 イーサの最後の苦闘は、わたしたちみんなにとってつらい思い出でしたが、フィリポの場合はもう耐えられないほど重くあとを引いたのでした。
夜眠っているとき、急に叫びだしたりするのですが、どうしたのかと訊いても答えないし、介抱させようともしない。
でも、とうとうあるときバルトロマイが打ち明けました。
わたしに恐ろしいことを思い出させないようにと、フィリポに言ったというのです。
それでもフィリポは毎晩、イーサの苦しみのことを考えました。
イーサがどんな傷を身体に受けたのかも人から聞いていました。
みんなは、仲間のなかでただひとりイーサの受難を直接目にしたわたしに、敬意を払ってくれたのです。




 わたしたちがエジプトにいたとき、バルトロマイはわたしのいちばん熱心な生徒になりました。
できるだけ多くのことを、できるだけ早く知りたがりました。
パンに飢えている人のように知識に飢え、それを熱烈に求めたのです。
まるでイーサの自己犠牲によってバルトロマイの心に穴があいたけれど、その穴は〝道〟の教えによってしか埋められないといったふうでした。
わたしはバルトロマイが特別な使命を見いだしたことを知りました。
彼は愛と光の言葉を世の中に知らしめ、人々の心を変えていくはずです。
だからわたしは毎晩、子供たちやほかの仲間たちが寝静まったあと、バルトロマイに秘密を教えました。
そのときが来れば、彼は覚悟を決めてことにあたるでしょう。




 けれどもわたしは、自分の覚悟が決まるかどうかわかりませんでした。
バルトロマイのことを肉親のように愛し、彼の身を案じて恐れを抱くようになってきました。
なぜなら、バルトロマイの美しさ、その純粋さは、近しい者たち以外からはきちんと理解されないだろうと思われたからです。
バルトロマイは企みというものを知らない男でした。





これは『待ち望まれし者』という本に出てくる箇所から抜粋しました。

興味のある方は一度読まれることをお勧めします。

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