いま、とても自由時間が増えた。すごく毎日が楽になった。
しかし、とても辛い。不安であるし、吐きそうな気分に襲われたりする。
日常というもの、それは、不要不急とか無駄とか、そういったものとは次元を異にするものなのだろうか。
いままでの毎日、母への介護、朝、起こしてからトイレ介助、歯磨き、顔を拭き、それから経管栄養と水分の胃瘻からの注入。これら一連の行動で約3時間。昼は経管栄養だけなので2時間だが、夜はトイレ介助があるので2時間半ほど。単純合計でも7時間半だが、時には便漏れの洗浄で約30分くらい費やすことがままある。そして、それら一連の行動が私の日常であった。それが当たり前の毎日であった。
その間に、仕事、行政書士としての仕事をしていた。ほとんどはデスクワーク、パソコンに向かう仕事なので出来たし、週に2回のデイケアに行っている日は、お客さんのところへの訪問、官庁への訪問に充てていた。ほんと、毎日、辛かった。何でこんなつらい毎日を送っているのだろう、そう考えたりもした。でも、できれば自宅介護、それをずっと続けていたかった。
それが、母の骨折により、考える間もなく、明日から施設入所という事態。ほんと、考える間もなく、心に落とし込むこともできない内に、毎日のリズムが激変してしまった。
確かに、ものすごく楽になった。その時間、もっと積極的に仕事に費やせるだろうし、あるいは、ゆっくり休養を取ったり、旅行に行ったり(介護になってから、日帰りの旅行など、できる由もなかった)、確かにできるのだろう。でも、いま、そんな気分になれない。時間が経過すれば、この生活が日常になれば、出来るようになるのかも知れないが、いまは、無理…。
今日、施設に面会に行った。しかし、コロナ禍の今、直接の面談はできないばかりか、骨折で車いすに乗ることもできないので、ガラス越しの面会も出来ない。タブレットを通しての、顔を見て、声を聞く面談。看護師さんが言っていたが、「やはり家族の方だと、よく話したり、笑顔になったりしますね」とのこと。話しとは言っても、会話はできないので、「ウーウー」と言った声を聞くのみだが、それでも、そこに母がいるのがわかる。そしてその母だが、会えてうれしいような顔だが、また、直接でないので、哀しそうでもある。その顔を見ると、余計に切ない気分になってしまう。それもあったのだろう、帰宅した後、不安な気分に襲われたのだろう。会いたい、でも、あの母の顔をまたみるのも辛い。
ひとり、部屋にいると、無性にさびしくなる。いままでと同じ、階下に母がいるか、施設にいるか、それだけの違いなのだが、その差は大きい。
母、寝ているだけで、何をするわけでもない。ただ寝ているだけ。無駄、その言葉で片付けられそうな日常である。でも、無駄って、一体なんだろう…。生まれた者は誰でも死ぬ。生きてることって、大いなる無駄でしかないのかな。永遠がない世界で、無駄なものなんて、何一つないんだろう、そう思う。
哀しいけど、一歩一歩、進んでいくしかないんでしょうね…。