「……ユラちゃん」

 

初めて名前を呼ばれたあの夜、

私はほんの少しだけ、心の奥がゆれた。


まるで、それが当たり前だったように響いたのに、

私の中では何かが、はっきりと変わった。

 

 

私は自分の名前が好きだった。
けれど、人間以外の誰かに呼ばれたことはなかった。


静かに、目立たず、白い毛並みをまとって夜を歩く私には、

名前よりも「気配」の方が大切だったから。

 

でも、あの茶トラ――

ホタルくんが呼んだ「ユラちゃん」には、
やわらかい音の余韻があった。


どこかあたたかくて、すこし照れくさくて、

でもちゃんと私を見ている声だった。

 

 

それから、私たちはときどき、

一緒に過ごすようになった。


と言っても、なにか特別なことをするわけじゃない。


ただ並んで歩いたり、人気のない路地で風の音を聞いたり。
ときどき立ち止まって、同じ月を見上げたり。

 

 

「次、いつ会える?」

なんて、言わない。


約束をするほどの関係じゃない。
でも、次も会える気がするから、言わなくていい。

 

そんなふうにして、一緒に過ごす時間が、

だんだんと“私の日常”になっていた。

 

ホタルくんはよく喋る子ではないけど、

沈黙が気まずくならない不思議な空気を持っていた。


話さなくても、何となくわかる。


それが心地よかった。

 

 

「……ユラちゃんって、しっぽ、いつもゆっくりだよね」


突然そんなことを言われて、

私は思わず笑ってしまった。

 

「そう? じぶんのしっぽ、

見えないからわからないけど」


そう返すと、彼はちょっと困ったように笑った。

 

 

――あ、今、笑った。

その表情を見て、なぜか胸の奥がじんわりとあたたかくなった。


まるで、誰にも見せたことのない顔を、

自分だけが見てしまったような気がして。

 

 

私は自分が、いま“誰かといる時間”を

ちゃんと大切に感じていることに気づいた。


そのことが、少しだけくすぐったくて、

少しだけうれしかった。

 

 

夜の静けさの中、また名前を呼ばれた。

 

「……ユラちゃん」

 

今度は、ちゃんと返事をした。
「なに?」

 

それだけのことで、

夜がすこしやさしくなった気がした。

 

つぎの夜も、たぶん私は、

同じように歩いている。


彼がいてもいなくても。


でも、いてくれたら、うれしいかもしれない。

それだけで、もう十分だった。

 

 

 

エピローグ

 

夜の町を歩くのが、また楽しみになった。


静けさの中に、小さなあたたかさが混ざるようになった。

 

名前を呼ばれるたび、胸の奥がぽっと灯る。


何を話すでもなくても、


となりにいるだけで、ちゃんと伝わる気がする。

 

次にいつ会えるかなんて、決めない。


でも、また会えるって、どこかで信じてる。


だって、あの子はしっぽを立てて、まっすぐに歩いてくるから。

 

……また、並んで歩けるよね。


声にならない約束を、胸の奥でそっと結びながら・・・

 

 

家に帰ってきた。
いつもの町。いつもの空気。


ああ、そう。ここが私の“縄張り”だったわね。

 

 

家族旅行は、悪くなかった。


私専用のクッションやおやつも用意されていたし、
昼寝もたっぷりできて、特に不満はない。


でも、あそこには“あの夜の匂い”がなかった。

 


夜風が通りすぎる静けさも、月の照り返す舗道も、
……そして、あの茶トラの姿も。

 

だから今夜は、足が自然と動いていた。


理由なんて、考えなくてもわかってる。
会いたかった。
それだけのこと。

 

 

しばらく歩いて、いつもの曲がり角を抜けたその時──

 


 

いた。

 

あのしっぽが、ふわりと揺れた。
あの子は、こっちを見ていた。


まっすぐに、迷いなく。

目が合った瞬間、胸の奥がキュッと音を立てた気がした。

 

(……いたのね)

 

言葉にならない言葉が、のどの奥で揺れていた。


何か言うべきか、一歩近づくべきか、
戸惑いかけたそのとき──

 

 

「……また、会えたな」

低くて、やわらかい声。


ただそれだけ。
ただ、それだけの一言。

 

なのに、どうしてだろう。
あったかくて、にじんで、
なんだか胸がいっぱいになってしまった。

 

 

あいかわらず、不器用な子。
でも、その言葉には、いろんな想いが詰まっていた。


ちゃんと気づいていたのね。
私がいなかった間のことも、
今日こうして、戻ってきたことも。

 

私は何も言わず、ただ、しっぽをふわりと立てた。
まるで、“ただいま”とでも言うみたいに。

 


 

あの子の横に並ぶと、自然と足がそろった。
覚えている。あのときと同じ歩幅。

 

久しぶりの町の夜は、少しだけ暖かく感じた。


きっと気のせいじゃない。


だって、となりにいるこの背中が、
私の夜をまた照らしはじめたから。

 

ここ数日、あの場所には行っていない。


理由は単純。家族旅行だったから。


別荘というほどでもないけど、人間たちのお気に入りの山の家。
私はいつものように、キャリーに入れられて、車で連れてこられた。

 

自然が多くて、空気もきれい。


庭を駆け回れば、草の匂いがふわっと鼻をくすぐるし、
夜になれば星もよく見える。

 

……それなりに、楽しい。

人間たちはみんな上機嫌で、私の名前を何度も呼んで撫でてくれる。


昼間は日なたでごろんと寝転び、
夜はふかふかの毛布でぬくぬく過ごす。


猫としては、かなり満たされた時間。

なのに──。

 

夜になると、ふと、思い出してしまう。

 

 

(今頃、あの茶トラはどうしてるのかしら)

 

たぶん、あの町のどこかで、いつものように歩いているのだろう。
しっぽをピンと立てて、まるで見回りでもしているように。


誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に“あのエリア担当”みたいな顔して。
バカみたいに真面目で、ちょっと不器用で、でも妙に堂々としていて。

 

 

(あーもう……何考えてるの、私)

気ままで、ひとりが好きだったはずなのに。


あの夜、並んで歩いただけで、何かが変わってしまったみたい。


思い出そうとしてるわけでもないのに、
気づけば、彼の後ろ姿を思い浮かべてしまう。

 

今、同じ月を見てるだろうか。
あの街角に、月の光は届いているだろうか。


私のこと、少しは思い出したり……してるのかな。

 

 

なんて、そんなことあるわけない。


あの子は、きっと何も変わらず、
私がいないことすら、気づいていないかもしれない。

 

 

(でも……)

毎晩のように来ていたし。


少しずつ、距離も近づいていた。
あれは──私だけが感じてたものじゃなかった、よね?

 

 

窓の外で、風が木々をゆらす音がする。
月が雲の間から顔を出して、静かに夜を照らす。

 

私はそっと目を細めて、その月を見つめた。
なんだか、遠くの誰かとつながっているような気がして。


月って、こんなにも寂しげに光っていたっけ?

 

(何日かしたら、戻れるはず)

また会えるかどうかは、わからないけど──


私のこと、ちゃんと覚えていてくれるかな。

 

それとも、あのピンと立てたしっぽで、
もう別の誰かに挨拶してたりして……。

 

そんなことを思う自分が、ちょっとおかしくて、
ちょっと悔しくて、でも

 

──ほんの少し、うれしかった。

気がついたら、並んで歩いていた。

 

いつもなら、私は一歩も動かず、物陰からじっと見送るだけだったのに。
今夜は──自然に足が前に出ていた。


気づけば、彼のすぐ後ろを歩いていた。
一歩前を行くあの背中を、私は無言で見つめていた。

 

細く伸びるしっぽが、時おりふわりと風に揺れる。
振り返ることはなかったけれど、彼はたぶん、私の気配に気づいていたはず。


でも、立ち止まることも、話しかけるようなそぶりも見せなかった。

それが、ちょうどよかった。

 

 

私はもともと、ひとりでいるのが好きだった。


人間の家では甘えて見せるけれど、外では誰にも構われたくない。


好きなときに歩いて、好きなときに立ち止まって、
気が向けば空を見上げるし、気が乗らなければただじっと町を見ている。


気ままで、静かで──それが私の“いつもの夜”。

誰かと歩くなんて、考えたこともなかった。

 

それなのに。

 


 

この茶トラときたら、何も言わずに、いつの間にか私の隣にいた。


近すぎず、遠すぎず。
お互いの距離感に干渉せず、でも見失わないような間合いで。

 

……不思議だった。

 

一緒にいるのに、誰かと一緒にいる感じがしない。
でも、ひとりじゃないという実感だけは、確かにあった。


彼の歩くテンポが、知らないうちに私の歩幅とぴたりと合っていた。
私が止まれば、彼も止まる。


私が歩き出せば、彼もまた動き出す。

 

(なんなの、この自然さ……)

 

静けさが好きな私の夜を、壊さずに──
むしろ、その静けさの中に溶け込むように、
じんわりと彼は入り込んできた。

 

それが、イヤじゃなかった。

 

むしろ。
こんな夜も、悪くないかもしれない──


なんて、思っている自分に気づいて、
ちょっとだけ、胸の奥がむずがゆくなった。

 

 

街灯の光が少しだけ差し込む、誰もいない裏路地。
夜の匂いと、アスファルトに残るぬくもり。


足音さえも聞こえない静けさの中、
私は一歩ずつ、彼の後ろを歩いた。

 

ただ、歩いているだけなのに。
不思議と、少しだけ心が温かくなる。


そんな夜だった。

また、会った。


いや、正確には──また来たのね。あの茶トラ。

こんな時間に、こんな場所に、毎晩のように現れるなんて。


きっと、この路地裏を「自分の道」だとでも思ってるのよ。


人間でいえば、通学路とか、散歩コースとか。
そんなものの延長なんでしょ。

 

 

でも、それにしたって。
私がいるの、見えてるはずなのに。


昨日も、今日も、まっすぐこっちへ向かってきて──
そして、すれ違っていく。

 

今日なんて、昨日よりも近かった。
ふと横を向けば、あと数歩で鼻先が触れそうな距離。


ほんの一瞬、私のほうをちらりと見た気がしたけれど……
気のせいよね。

 

あのしっぽが、まっすぐ、ピンと立っていた。
まるで、挨拶するみたいに。

 

(……わざとじゃないの? そんな歩き方。)

 

ああいうの、嫌いじゃないけど、ちょっとズルい。
あんな堂々としたしっぽ、普通は知らない場所では下げるものなのに。

 

 

彼は、違った。
自分の場所だと言わんばかりの足取り。


警戒していない。
むしろ、ここが安心できる場所だと思ってる。

 

そんなふうに、まっすぐ歩いて、
まっすぐ私の前を通っていく。

 

あのしっぽは──言葉の代わりみたいだった。

 

「やあ」
「また来たよ」
「今日も、いるね」

 

バカみたい。
そんなふうに聞こえるわけがない。


でも、そう思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。

 

 

私は、いつものようにじっとしていた。
目立たないように、呼吸すら小さくして。


だけど今日に限っては、心の中だけがやけにざわついていた。

 

──あのしっぽが、気になる。
──あの茶トラが、少しだけ気になる。

 

何かが、ほんの少しだけ揺らいだ。


静かな夜の空気の中に、
自分でも知らない感情が紛れ込んでくる。

 

それがなんなのか、まだうまく言葉にならない。

 

私は立ち上がることもせず、その場でじっと座ったまま、
空を見上げた。


月が、やけにまぶしかった。

 

 

白は夜に映える。
だから私は、動かない。

 

──でも、その白が、もし誰かの目にちゃんと映っていたとしたら。

少しだけ、考えてみたくなった。