こんにちは。玉雲です。
遠いとおい 宇宙のどこかでは昨日
冥王星が逆行を始めたそうで
占星術的には 色んな意味が
あるそうです。
詳しくは
遡って先日のおうし座新月(4月16日)
前後は今までにない 内観の種類で
私の中にある心の蓋を開けて覗く作業を
無意識にやっていて、結構きつかった。
人それぞれ 知られたくない部分
闇の部分はあって当然。
そこを見せた。
だからどうなる?って
感じなのですが
自分と向き合う中で
小さな頃の私が 出てきて
その小さな私を癒すことが
未来に繋がるのかな、と思い
この記事を公開することにしました。
今日のブログは どう 受けとられるか
わからないけれど ちょっと重いかも?
【私】の備忘録で 解放のためのお話です。
長文です。嫌な方は スルーして下さい^^
何度か ブログにも書きましたが
私は5才の誕生日前に父を亡くしました。
くも膜下出血でした。
享年41才。
【思い出す】 のではなく
【考える】 のは
父の記憶が殆どないから。
伯母夫婦と一緒に親戚の新築祝いに
行った帰り道、気分が悪いから
運転を代わってくれと言って
車を端に停め、吐きに出て…
そのまま倒れてしまった場面が
父が喋っている最後の記憶。
枯葉がたまった溝の中に倒れて
しまった父に、母は一瞬小さな叫び声を
上げて、それでも 妹の水色のおくるみを
そっと掛けていました。
携帯もなかった時代、どこに行って
救急車を呼んできたのか。
伯母が横に居て
「大丈夫、大丈夫だから…」
言ってた気がするけれど
車の後部座席から 救急車に
運びこまれる父と
一緒に乗り込む母を見て
私達は どうなるんだろう…と
泣きながらその情景を見てました。
3才の妹は「泣いてんの?」と
私の顔を覗きこんで無邪気に
聞いてました。
意識が戻ることなく 2週間程で 息を
引き取った父。
入院中から葬式前後の間、私と妹は
バラバラに 両祖母の家に預けられて
いたように覚えています。
*****
父を溺愛していた祖母は怒りを
何処にぶつけたらよいのか
わからなかったのでしょう。
私と二人っきりになった時は
泣きながら
「こんな小さいのに、父親亡くして。
可哀想になぁ。あの人らがあの日〇〇に
運転させなかったら こんなことに
ならへんかったのに。」と 何度も言ってました。
父が倒れた時に 同乗していた 伯母夫婦
のことを悪く言ったりして
会った時は 普通にしてるのに
何でそんなこと言うんだろう?と
大人たちの裏表を見たのも その辺りの頃。
お葬式で 泣いている母の横に座り
涙ひとつ 出なかった私。
弔問に来られる人がいっぱい 居るなー。
いつもより綺麗なワンピースを着せて
もらってたので
「可愛い私を見てー」って心の中で
思ってました。
多分、その時から 私は父の存在を
無かったことにしたんです。
幸せな記憶も 殆ど自分で消したん
だと思います。
自分が結婚して、子供を授かり
息子や娘が 3才4才頃のことを
嬉々として私に語る姿を見て
そんなことにやっと気付き始めたのが
40を過ぎた頃でした。
*****
人って 防御のためには 記憶を
消しちゃうんだ…。
自分を護るために。
そうしなければ、小さな私は
耐えきれなかったんな、と。
解り始めて、その当時のことを
思い出すと 涙が止まらなくなりました。
記憶を戻すことはできないけれど
本当はいっぱい泣きたかったのに
泣けないようにした小さな 私
感情を 出さなかった 私
悲しかったね。
泣きたかったね。
いっぱい泣いていいよ。
頑張らないといけなかったね。
色んなセラピストの方が言われる
「自分を癒す」「受け入れる」
というのはこうゆうことなのか。
「悲しみ」は「愛」
悲しみは、それを乗り越えたら 愛に変わる。
悲しみは「心非ず」と書き
愛とは「受」に「心」を入れた字。
誰かに失った心を受け入れて
もらった時、悲しみは愛に変わる
「大切なことはすべて日常にある」より抜粋
ここで言われる「誰か」は、まず
「自分」なのかもしれない。
誰が悪いわけでもない。
与えらえた運命を受け入れること。
「自分」の存在を認めること。
父が居なかったら「私」はこの世に存在
していません。無かったことになんて
できるはずがないのです。
父を自分の中に受け容れることができる
ようになった頃から やっと命日を意識する
ことができました。
いっぱい泣いて…泣いた分
自分を受け入れただけ「愛」に
変わるなら、泣いて昇華させて
行こう。そんな風に今の私は思っています。
人より少し早く「死」や「悲しみ」を
知った分、寄り添えることが 私には
あるかもしれません。
なぜ セラピストという仕事を選んだのか
もう一度 深く探った この二週間でした。
まだ書き足りない分もありますが
今日はこの辺で…。
長文 お読みいただきありがとうございました。