ばあちゃんが言っていた。
平等を謳う人は、その行動においてすでに差別を行っていることがある。環境保護を訴える人は、その活動において環境破壊をすることがある。そういう場合、結局何が目的なのか本人自身もわからなくなっている。だから、何か行動するときは目標を明確に持て、と。
だったら、生徒の成績を上げる、と謳っている人が、その活動において成績を下げるような場合はあるのだろうか。
生徒ファイル002:吉木 沙央梨(高3) 偏差値:33 志望校:東京慈恵医大
昔、ある予備校で事務として働いていたことがある。
事務なので授業もすることもなく、ただ言われた作業を黙々とやっていくだけなので大変ではなかったのだが、金儲けのことしか考えていない塾長と、その塾長の自慢話に延々と付きあわされることだけは非常にめんどくさかった。
でも歳も近いせいか、生徒たちと話すことは楽しかったので、週に三日ほどのペースで働いていた。
「おっ、北岡くん、今日も精が出るねえ」
他の生徒はほとんどすでに授業前の自習に来ている中、彼女は余裕を持ってのこのことやってきた。
「あ?一番精を出さなきゃいけないのはおぬしだろうが」
このようなやり取りは、いつものお決まりとなっていた。
彼女は沙央梨(仮名)といい、マイペースで勉強もしないため成績はいつも塾内で一番下か、下から二番目かという状況だった。しかし明るく前向きな性格からか、友達も多く、会話の中心にはいつも彼女がいた。
そんな彼女が、塾内最強の天才と呼ばれる伸明と付き合うことになり、周りを仰天させた。しかし自分は前から相談を受けており、うまくいくよう色々取り計らって二人をくっつけさせることに成功したのだ。
もっとも、塾長は快く思ってなかったようだが。
「明日ねー、伸明とデートなんだー、池袋なんだけど、北岡くんおすすめの場所知ってる?」
「おっマジか。池袋は二人きりになれる隠れスポットいっぱいあるからな。この地図を見ながらメモを取るといい。でも伸明襲うなよ?」
「襲わないよー。うちらまじめだもん」
といった感じで、よく話をしていた。伸明のことを話す時の沙央梨はほんとに幸せそうで、自分も嬉しかった。
ある日、珍しく沙央梨が深刻そうな顔でやってきた。
「どうした。ケンカでもしたか?」
「ん、やっぱりうちね、料理うまくなりたい!北岡くん教えて!」
聞けば、伸明は料理ができる人が好きらしい。もう付き合ってるんだから別にいいじゃないかと言ったのだが、彼女は頑として聞かなかった。
「やだやだやだ!絶対おいしい料理作って食べさせて、『好きだよ、さーたん♡』って言ってもらいたいの!」
「はあ…で、今まで料理の経験は?」
「バナナの皮をむいたことならあるよ」
「それは料理とは言わないのだが…」
大丈夫だろうか…一抹の不安がよぎりながらも、とりあえず簡単な煮込み料理を教えることにした。
「とりあえず、醤油と日本酒とみりんと砂糖を大さじ二杯ずつ入れ、水を三〇〇ミリリットルほど加えて、じゃがいもなり肉なりにんじんなり入れて煮込めばそれなりの味になるから。簡単でしょ」
「ふむふむ」
沙央梨は一生懸命メモを取りながら聞いていた。
「…その努力を勉強にも向けてくれ」
「ん、じゃあとにかく一回作ってみる!出来たら味見してね!」
この後授業があったはずなのだが、そう言って沙央梨は帰っていった。
数日後。
「作ったよ北岡くん!ちょっと見てみて!」
カバンからタッパーを取り出し、誇らしげに渡してきた。食材を切っている時に切ってしまったのか、指は絆創膏だらけだった。
「ん、じゃあ開けてみるよ。へえ、ホワイトシチューか!ずいぶん頑張ったんじゃないか。俺は和食を教えたつもりなんだけどな」
「それ、カレーだよ」
白いんですけど?
「とにかく愛情たっぷりだから!食べてみて!」
「…へ、へえ…」
カレーであれば普通ならフタを開けた瞬間スパイスの香りが鼻を刺激するはずなのだが、このカレーは無臭だった。渡されたスプーンを手にし、おそるおそる口に運んでみる。
口の中に爽やかな酸味が広がる。ぐにぐにとした肉のようなものを噛む度に、より一層酸味が強調される。それに皮のむいていない硬いにんじんが絶妙なハーモニーを感じさせ、口の中の菌が消毒されている感じがした。この風味、どこかで味わった気がする。そうだ、これは…。
薄れゆく意識の中で、自分は毎朝出かける前に口に入れていた「それ」の正体を見破った。
「モン…ダミン…」
「…つまり、伸明は乳製品が好きだったのでとりあえず牛乳を一リットル入れてみたと」
「ハイ…」
「で、またコーラもよく飲んでいるから、すっきりしたものが好きだと思い、でもコーラを入れても炭酸が抜けてしまうから、代わりとして歯磨き粉を入れてみたと。口臭予防にもなると思って」
「ソウデス…」
「そして味見もせず人に食わしたと。ばかなの?死ぬの?」
「スミマセン…」
戦慄のモンダミンカレーから三日。自分はようやく生気と食欲を取り戻し、沙央梨に説教をしていた。彼女は小さくなって謝り続けていた。
「…とにかく、伸明に食べさせないでよかった。あいつ食べたら死んでたぞ」
「オッシャルトオリデス…」
「…もういいや。なんにせよ、食べ物を作ってくれ。食べ物は、食べ物からしかできないから。食べ物以外のものを入れるな。わかりましたか?」
「ハイ…味見モシマス…」
泣きそうになっている沙央梨を見て、なんだかこっちが悪者みたいに思えてきた。
「ほら、じゃあミネストローネの作り方、書いといたから。野菜とベーコン細かく切って水入れてコンソメとケチャップ入れて煮れば猿でも作れるから。やってみ」
「わかった!ありがと、北岡くん!」
そう言ってパッと明るくなってメモをひったくると、これまでの反省の色など嘘のようにダッシュで帰っていった。
二日後。
「できたよ北岡くん!食べてみて!今回はちゃんと味見もしたから!」
パソコンで仕事している最中にも関わらず、人の腕をつかんで食事スペースに連れてこられた。
「…なにこれ。今度は人にゲロを食わそうというわけ?」
弁当箱の中にはグラタンのような、そうでもなさそうなものが入っていた。ねとねとしたホワイトソースに、米やらマカロニやらがごちゃまぜになっている。いったい何をどうしたらミネストローネがこうなるのだろう。
「み、見た目は関係ないもん!ドリアとグラタンのいいとこを合わせた、名付けてどりたんなのだ!」
「むう…」
五日前の悪夢がよみがえる。見た目は明らかに、深夜の駅のホームに時々酔っ払いが吐き出すアレだった。しかし味見もしたと言うんだから、きっと大丈夫だろう。うん、大丈夫大丈夫…。
自分に言い聞かせて、一気に口に放り込んだ。
「…あれ?おいしい…」
「でしょ!!!やったあ大成功!!うひゃひゃひゃ」
ゲロドリア、名付けてゲロリアは確かにおいしかった。一体何が入っているのかは全くわからなかったが、何かこう、深みのあるようなないようなそれでいてもう一口食べたくなるような不思議な味がした。何かヤバいものでも入ってるんじゃなかろうかと、聞いてみようと思ったが、怖くなってやめた。
「…まあ、これなら食べさせてもいいんじゃない。ただし、目隠しさせた方がいいぞ」
「うん、じゃあこの後伸明に食べてもらうね!ありがと北岡くん!」
今にも伸明のところに押しかけそうな勢いだったが、別の生徒が声をかけてきた。
「あ、沙央梨―。飯田先生が話があるってよ」
「ええー…んーまた説教かなー。ま、いいか。じゃあ後でね北岡くん」
そう言って彼女は塾長が待つ教室に走っていった。
数十分後、自分は塾長から最悪な報告を受けた。沙央梨を退塾処分にするとのことだった。教室には、塾長と、事務のリーダーである小暮さんと、うつむいたままの伸明がいた。
「…辞めさせるってどういうことですか」
「あいつは、勉強もしない、言うこと聞かない、これといった目標もない。ここにいてもらっては迷惑になると思っただけだ。それに一番の理由は、伸明の成績が落ちてきたことだ」
「それが沙央梨のせいと決まったわけではないでしょう」
「お前の眼は節穴か?あいつが常に伸明に話しかけて邪魔しているのを見てるだろ!そのせいで伸明は偏差値が五も下がった!このままじゃ慶應に届かなくなる!」
「そんなに実績が大事ですか」
「なんだと?もっかい言ってみろ!」
実際、この先生は自分の塾を大きくすることしか考えていなかった。確かに、伸明が慶應医学部に受かれば十分な宣伝効果になる。入塾金も、授業料もアホみたいに高い。しかも入塾時に一年間分の料金を先払いさせ、途中退塾しても残りのお金は返金しないという制度だった。
「お前は経営というものが全くわかってない。大事なのはこの塾をしっかりと続けていくということだ。そのためには…」
「そのためには成績の悪い生徒は切り捨て、良い生徒だけを残していくってことですか。それってつまり、成績を上げる指導力がないってことですよね」
「ふざけるな!お前のような若造になにがわかる!黙って従え!」
「納得いきません」
「じゃあ辞めろ。お前にはいずれこの塾の事務関係を全て任せようと思っていたんだが、とんだ見込み違いだった」
「わかりました。辞めます」
このやりとりに、小暮さんが口を挟んできた。
「あんた、飯田先生にそんなこと言っていいと思ってんの?石井先生は色々な予備校に顔が効くんだから、予備校講師やってるあんたのお父さんの仕事に影響が出ても知らないわよ」
「…。」
あきれて物も言えないとはこのことだった。こんな小者に今まで従ってきた自分が馬鹿らしくなった。
「…伸明は何か言うことないのか?お前も沙央梨が好きだったんだろ?これでいいの?」
「だって…だってママが…『成績落ちたら許さない』って…」
こいつもだめか。こいつらにはもう何を言っても無駄だ。
「短い間ですが、お世話になりました」
「沙央梨!」
沙央梨は今まさに荷物をまとめてエレベーターに乗ろうとしているところだった。泣いているのだろうか、振り返らず、背を向けたまま答える。
「あははー。まさかこんなことになっちゃうとはねー」
「…ごめん。何もできなかった」
「北岡くんは何も悪くないよ」
「でも…」
「どりたん、無駄になっちゃったね。一生懸命作ったんだけどなー」
「…これから、どうするんだ」
「わかんない。伸明と一緒に頑張っていこうと思ってたんだ。目標、できたんだけどな。でも全部、なくなっちゃった。好きだったんだけどねー…」
「こんなの、間違ってる」
「もういいの。あたしが悪かったんだから。今までありがと、北岡くん」
そう言って、エレベーターに乗り、こちらを向いた。泣きはらした顔が目に入る。
「あ、そうそう。あたしずっと思ってたんだけど、北岡くんはいつまでもこんなところで事務なんかやって収まるような人じゃないと思うのよ。時々教えてくれた英語、すっごくわかりやすかったし。何より北岡くんには、何でも話せたしね」
「もう、辞めることにした。あの人の考えにはついていけない」
「そか。…今後、あたしみたいなばかな生徒いたら、救ってあげてね」
それを最後に、エレベーターの扉が閉まった。
あれから何年経っただろうか。飯田先生の予備校は、まだ続いている。相変わらず高額の授業料を取っているようだが、経営は順調のようだ。彼のやり方は、確かに経営的には正しいのかもしれない。結局は生き残っているものが勝ちなのかもしれない。でも、その陰で捨てられた存在がいる。金儲けのために、その後の人生に影響を与えてしまった被害者がいる。自分は絶対に、自分の生徒をそんな風にさせたくない。
だから、自分は「場所」を作りたいと思った。勉強ができる人もできない人も、みんなが気軽に来れるような場所。成績だけにこだわらず、授業のある日でなくても、話をしにみんなが自然と集まってくるような塾を作りたいと思った。これが自分の「目標」になった。いつ達成できるかはわからないけれど、今自分はそのために行動している。
勉強だけが全てではないと思う。別に勉強しなくても、適当にやってもとりあえず生きていくことはできる。でも、何か目標があったり、色々なことをしたかったり、人生を楽しみたかったり、また今の人生に何かしらの不満があって、それを変えたいと思うのならば勉強はした方がいい。勉強して学んだことははっきりいって役には立たないけれど、勉強することによって鍛えられた頭があれば、迷った時、困った時、失敗しない選択をすることができる。せっかく生きてるのだから、楽しい人生送りましょう。
ある日の朝。朝食を作っているところに、妹が目をこすりながらやってくる。
「おはよー。朝ごはん作ってくれてるのって…何それ、食べ物?」
「ああ、これはね…」
終

