『車椅子に乗ってる人は聖人君子に決まってるから、そうした人や集団の行動や発言をあれこれ詮索したり腹黒い所や疚しい所があるかどうかを調べてはいけない!アンタッチャブルにすべきだ!』と言わんとしている人たちって、やっぱりオカシイよな~

 

 

【web魚拓】 https://archive.md/3UOv1

 

 

「ある特定の属性(というか、ある対象を一方的な自己都合のお気持ちだけで決め付けた属性)」だけを以ってして、その対象を一方的にアンタッチャブルにしようとする人たちは、さも対象に対して『私たちはあなたたちの味方です』みたいな事を言ってますが、実はそうした人たちは対象を見下していて最も人間扱いしていない「差別主義者」なのでは?

障碍者(しょうがいしゃ)も社会的弱者も健常者も、誰だって「人格のある一個人の人間」だから、良い人もいれば悪い人もいるのは当然でしょう?だって、にんげんだもの。

なのに、それを、一方的な自己都合のお気持ちだけで、対象を「聖人君子に決まってる」などと決め付けるのは、対象の人格を無視している差別的行為だとは思いませんか?あと、そうした差別的行為は、芸能人を勝手に神聖化する熱狂的なファン(ファナティック)が無意識的または自覚的にやっている行為と似ているような気もするんだけど、どうでしょうか?

 

そう考えると、対象を一方的に「弱者だ」と決め付けて見下す人たちは、自分自身を輝かせるために己の聖人君子ぶりを周囲にアピールするために対象を利用したいのかな~?それとも、金銭的利益に与かりたいがために(いわゆる「公金チューチュー」したいさせたいがために)、対象を神輿に担いで利用したいのかな~?と疑いました。

 

 

以上の事から、こうした「善人コスプレイヤー」に共通する思考パターンが見えてきました。

そうやって、対象を神聖不可侵化してしまうと、そこが「違法行為の温床」になってしまうんじゃないかと思うんですよね。だって、そうなると、やりたい放題やろうとするのが煩悩の多き人間の性質でしょうからね?その結果が「公金チューチュー」ではないかと思いました。

つまり「自称神聖不可侵は、嘘つき詐欺師ペテン師の始まりである。」という事です。

 

以下、事ある毎に、こうした類の主張する人物や団体が、そこら辺にいませんか?よく観察してみて下さい・・・

 

 『私は神だ!救世主だ!(※だから、私はアンタッチャブルである!)」

 『私は我々は弱者だ!(※だから、私は我々はアンタッチャブルである!)』

 『私は我々は差別された!(※だから、私は我々はアンタッチャブルである!)』

  ※括弧内は、言外に仄めかしている心の声を再現した文言です。

 

・・・どうですか?これらに心当たりがありませんか?これらが、自称神聖不可侵に共通する主張パターンです。

 

 

 

 

 

ところで、「ニュースバリューが有るか?無いか?」の判断基準って、一体何なんでしょうね?

 

 

『書類送検はニュースバリューが有るけど、勝訴はニュースバリューが無い』という判断基準って、一体どういう基準なのかな?

 

まさか、『その人の発言や行動や出した結果が、新聞社や出版社にとっての同志か?同志でないか?敵か?味方か?が判断基準だ』と思っているんじゃぁないでしょうね? もしも、それだと、ただの「お気持ち」な「匙加減次第」の「依怙贔屓(えこひいき)」という事になるんじゃないの?